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第3章

閑話・だいきらいなわたし

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 オルテンシアは、昔からよく夢を見る。
 上下の区別もつかない深く暗い水の中で、1人溺れてもがく悪夢を。

 誰にともなく、苦しい、助けて、と、声にならない叫びを迸らせ、救いを求めたまま、水底へと沈んでいく自分。けれどそこに突然、こちらを覗き込む女性の姿が浮かび上がってくる。
 どういう理屈なのかは分からない。
 分からないが、それでもオルテンシアは助かりたい一心で女性に手を伸ばし、その腕にしがみ付いた挙句、その女性と女性の傍らにいた誰かを、同じ水の中へと引きずり込んでしまう。
 そうしてその女性達諸共、水の中に沈んでいく――という所で、いつも目が覚めるのだ。

 幼い頃は、見た夢の意味も分からないまま、ただベッドの中で縮こまって震えていた。
 だが、やがて成長し、双子の姉が人知れず抱えていた出自と真実……元はこの世界の住人でない事や、前世の記憶を持ったまま、この世界に転生したのだという事実を第三者から聞かされた途端、オルテンシアは唐突に気付いて自覚した。

 時折見る夢は、かつて自分が犯した罪を再現するものであったという事。
 そして自分が、自分こそが、前世の姉を死なせた張本人だったという事を。

 オルテンシアはその恐ろしい事実を、誰にも言えなかった。
 かつてこの手で大切な、大好きな姉と見知らぬ誰かを殺したのだという事実は、精神的に未熟で弱いオルテンシアにとって、あまりにショッキングな話であり、とても実際に口に出して語れるような事ではなかったのだ。

 何より、この事実を明かせば、姉に嫌われ、突き放されてしまうのではないか。
 そう思うと恐ろしくて、何も言い出す事ができなかった。
 本当なら、一刻も早く全てを話し、謝らねばならないのに。
 オルテンシアにとって双子の姉は、自分がこの世界で生きて行く為のしるべであり、世界と自分を繋ぐよすがであり――何においても優先される、心の拠り所でもある。
 全てを語ればその姉と、姉との間にあった絆を永遠に失ってしまう。
 もしそんな事になったら、と思うと、それだけで足の力が抜けてへたり込みそうになる。

 あの優しい瞳に、労わりや慈しみでない、侮蔑や嫌悪の感情が乗った眼差しを向けられたりしたら、きっと自分はもう生きてはいけない。
 その強烈な恐怖は、オルテンシアの心を堅くきつく縛り付け、委縮させ、元から少なかった口数を一層少なくさせていった。



 姉と共に王都に招かれ、大聖堂で暮らすようになって数年。
 相変わらず事実を口に出す勇気が持てないまま、オルテンシアは姉と、いつの間にか幼馴染となった少年と共に学園へ入学し、数少ないながらも友人を得る事ができた。
 理不尽な扱いをされ、悲しい思いや辛い思いをしたり、時に憤る事もあったが、学園生活は比較的穏やかに過ぎていく。

 そんなある日、オルテンシアは聞いてしまった。
 姉と離れ、何人かの学友と魔法の補習を受けていた時。
 その休憩時間に、同じクラスの誰かが発していた、自分への嘲りの言葉を。

 ――そういやほら、なんて言ったっけ、あの子。シアだっけ? あの聖女の金魚のフンの。
 ――ああ、確かにそんな名前だったわね。自己主張もろくにできない、陰気なダメ女だから、忘れてたわ。
 ――あらあら、ダメよそんな事言っちゃ。あの子あれでも聖女の妹で、一緒に聖女認定されてたはずでしょう?
 ――確かにそうだけど、でもあの子、姉さんと違って魔法関連の授業の成績悪いんですってね。
 ――うわあ、そうなんだ。それで本当に聖女としての役目なんて果たせるの? 無理なんじゃない? 
 ――あはは、そうね。無理よね。だって出来損ないなんだから。どうしようもないわよね、ホント。

 彼女達が、おかしそうに笑いながらその場を離れて行くまで、オルテンシアは指先ひとつ動かせなかった。

 姉について回るだけの金魚のフン。
 自己主張もろくにできない陰気なダメ女。
 聖女の役目を果たせるかも怪しい出来損ない。

 そんな言葉だけが、ただ頭の中をグルグルと回っている。
 しばらくして、彼女達の気配がなくなった途端、膝から力が抜けてその場に崩れ落ちた。目から勝手に涙が零れ落ちてくる。
 話を聞いた学友達は、あいつら何様のつもりだ、先生にチクッてやる、と自分の事のように腹を立て、職員室に駆け込もうとしてくれたが、押し留めた。

 姉に知られたくなかった。
 これ以上、面倒をかけたくなかった。
 うつむいて、口を噤んでいた方が楽だった。

 結局その後、陰口を叩いていた面々からいじめのようなものを受け始めた為、やむなく姉に助けを求める事になってしまったけれど、やはり陰口の事は言い出せなかった。
 だって、彼女達の言葉は事実でもあったから。
 事実、オルテンシアは魔法が苦手で、戦うのも苦手だ。
 いや、それどころか、生活の糧を得る為、動物を絞めて捌く事さえ苦手で、いつも姉の優しさに甘えてばかりいた。
 姉だって、動物を殺すのは気分のいいものではなかったはずなのに。


 やがて 、姉と自分は聖地巡礼の旅に出る事が決まり、本格的な修練が始まったが、上記のような情けない有り様なので、学園の先生にも、いつも注意されて、叱られてばかり。
 その時も、やっぱり姉の口添えに助けられた。
 話し合いの結果、直接戦うのではなく、戦いの補助をする形で力を伸ばしていったけれど、結局それが実を結ぶ事はなかった。
 聖域の前で起きた初めての実戦の中、敵も大して強くはなかったのに、オルテンシアはまともに動けなかったのだ。
 姉や使徒となった幼馴染、護衛役をしてくれている姉の友人達から、あれだけ厳重に庇われていたにも関わらず、補助魔法のひとつも詠唱できなかった。
 やった事と言えば、ただ、庇われながら聖域の森に駆け込んだだけ。
 誰もオルテンシアを責めなかったが、オルテンシアは内心で自分を責め続けていた。


 そして今。
 オルテンシアは周囲を星の海に囲まれた、謎の部屋の片隅に立っている。
 なぜかその場から一歩も動けないし、声を出す事もできない。
 部屋の中央では姉が、姉そっくりの姿をした女性……女神から様々な事を聞かされているようだったが、オルテンシアの事には気付いていない。
 きっと女神が、気付けないようにしているのだろう。

 オルテンシアにできるのは、ただその場に立ち尽くしたまま、女神の話に耳を傾け続ける事だけ。
 女神の話は酷く難しく、全てを理解できた訳ではなかったけれど、女神がこの世界の成り立ちと、聖女という存在について話している事だけは、辛うじて理解できた。
 女神が、かつてオルテンシアが犯した罪について語っている事も。

 女神は言う。
 オルテンシアが犠牲になれば、姉はこの理不尽な世界から脱して、元の世界で生き返れると。

 ショックだとは思わなかった。
 ただ、全てを聞いて知った姉は今、自分をどう思っているのだろうと、その事だけが気にかかった。
 姉と姉の友人を死なせておきながら、今までその事実を隠して生きてきた、卑怯な妹の事を。
 どちらにせよ、今のオルテンシアにできる事は何もない。
 できるのは、姉の判断と決断に全てを委ねる事だけだ。
 オルテンシアはいつも通り、ただ黙って身体を縮こまらせていた。

 そんな自分が、大嫌いだった。
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