虐げられていた令嬢は、極悪聖女にクラスチェンジしました。

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虐げられていた令嬢は、極悪聖女にクラスチェンジしました。

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 力任せに放たれた平手の衝撃で体が飛び、深緑色の絨毯の上に叩き付けられて視界が白んだ。

「――! ―――!!」

 多分、意識が飛んでいたのはほんの数秒にも満たない時間。
 頭上では、小太りの男がつばを撒き散らしながら怒号を発しているが、全く聞き取れなかった。
 思い切り横っ面を張られたせいで、一時的に聴覚が麻痺しているのかも知れない。

(……は? なに、してくれてんのよ、こいつは……)

 平手を喰らって床に倒れ込んでいた少女――エレノアは、口腔内に広がる鉄錆に似た味と匂いに一瞬顔をしかめ、唇をすぼめて唾を吐き出した。
 案の定、唾には血が混じっている。

 口の中が切れて血が出た。
 こんな小物じみた男に殴られたせいで。
 その事実に抑え切れない怒りが噴出する。
 体は、ほぼ反射で動いた。

「――ているのか、エレノア! 誰のお陰で今日まで生きて来れたと思…ごふぇっ!?」

 倒れ込んだ格好のまま体を捻り、逆立ちの要領で男の顎を思い切り蹴り飛ばすと、男の体は呆気なく後ろに倒れ込んだ。

「……ふん。大それた事をする割に根性なしね。打たれ弱いったら。ていうか、こいつ誰よ……」

 古ぼけた靴先で、男のこめかみを小突きつつ呟いてみる。
 いや。待て。
 この男、なにか……見知った相手のような気がしなくもない。

「……。ええと……。こいつは、確か……。……。え……。お、おとう、さま??コレが?」

 思い至った事実に思い切り顔が歪んだ。

「…………」

 そのまま考え込む事数秒。
 気を取り直したエレノアは、先程から自分に暴力を振るっていた男(父親?)が、白目をむいて完全に気を失っている事を確認したのち、その襟首を掴んで奥に見える書斎とおぼしき場所へ引きずっていく。

 ひとまずこの男を拘束してから、諸々整理しよう。
 そう結論付けたのだった。



 結論から言うと、エレノアは現代日本からの転生者であり、男は今世、この世界におけるエレノアの実父だった。

 エレノアのフルネームは、エレノア・トリニス。17歳。トリニス子爵家の長女。
 この世界でも希少な治癒魔法の使い手で、教会から聖女認定を受けている。
 来年、成人と見なされる18の歳を数える日に、正式に教会へ入り、その生涯を神に捧げる予定である為、婚約者はいない。

 家族構成は、父であるディミトリ子爵と、義母であるリディアーナ子爵夫人、それから腹違いの妹、ミディナ子爵令嬢の4人。
 ただし、エレノアは父母と妹から虐げられている。

 理由は至極単純。
 政略結婚の相手として結婚したエレノアの母マリアンヌを、ディミトリとリディアーナは揃って酷く疎んじていたから。
 2人は当時、交際関係にあったのだ。

 そんなディミトリはマリアンヌが早世した途端、葬儀からひと月と経たないうちにリディアーナを後妻に据え、幼いミディナと共に邸へ引き入れて住まわせ始めた。

 更に、マリアンヌを疎んじていた2人は、日本のことわざにあるが如く、『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』と言わんばかりにエレノアの事も疎んじ、虐げ始めた、という訳だ。

 使用人もみな、リディアーナとディミトリのご機嫌伺いをするばかりの、質の悪い者達に入れ替えられ、エレノアは子爵家の中で孤立した。
 使用人部屋に押し込められ、みすぼらしい服と粗末な食事しか与えられず、わずかでも口答えしたり機嫌を損ねたりすれば、容赦なく暴力を振るわれる日々。

 エレノアから逆らう気力や気概が失われ、すっかり心が折れてしまうのは、割合早い事だったように思う。
 それこそ――子爵令嬢の身分を捨てて聖女として教会に属し、神に祈りを捧げながら、農民の生活にも似た素朴な日常を送る時が来るのを、今から指折り数えて待ち焦がれてしまう程度には。

 言うまでもなく、そんな父母と使用人達の振る舞いを目の当たりにしたミディナが、エレノアを見下し、同じように虐げ始めるまで、大して時間はかからなかった。
 父母達の言動を見ていたかどうかに関わらず、元からまともな性根ではなかったようだが。

 ともあれ今のエレノアは、さながら何の罪もないか弱い少女が、無慈悲に虐げられる物語の中に生まれたような状況にあった。

「……。詰まる所私は、どうしようもない不幸に翻弄される……いわゆるドアマットヒロインのような境遇だという事ね」

 ディミトリを書斎の椅子に縛り付けながら、私が以前の『私』を思い出した以上、大人しくイビられ続けてなんてやらないけど、とうそぶく。


 前世の名は思い出せない。
 だが、それ以外の事は割としっかり憶えている。
 主に――自分がかつて、裏社会に身を置くアウトローな人間であった事などは。

(なんにしても、早急に動かなければ駄目ね。この家の本当のボスは誰なのか、骨の髄まで叩き込んで教え込まないと。
 全くもう。どうせ異世界転生したんなら、今世は血なまぐさい仕事から離れて、晴耕雨読の心穏やかなスローライフを送りたかったのに……。なんてままならないのかしら)

 相変わらず白目をむいたまま、一向に目を覚ます気配がないディミトリに猿ぐつわを噛ませたエレノアは、さめざめと嘆いた。

「ま、こうなってしまった以上、仕方がないか。これはもういっそ、希望に満ちた未来へ到達する為のワンステップとして割り切るべきよね。
 ええと……。そうね、使用人達はどいつもこいつもサンピンみたいなものだし、後回しにしてもいいでしょう。その気になればすぐに首を切れる訳だし……まずは、今のボスである『お父様』を蹴落として、それから……『お義母様』、『愚妹』の順でいいかしら」

 エレノアは形のいい薄い唇を釣り上げ、うっそりと笑って今後の予定を呟いた。



 エレノアが前世の記憶を取り戻してから、およそ1か月後。
 義母のリディアーナが公金横領の咎で捕縛された。

 正確には、エレノアがそうなるよう仕向けたのだ。
 ディミトリへの『教育』が終わり、絶対服従の傀儡子爵が無事誕生した頃合いで、使用人の総入れ替えを行ったエレノアが、ふと領地運営に関する資料や帳簿に目を通した所、領地で徴収した税金を、数年前から夫婦ぐるみで横領していた事が発覚したのである。

 本来であれば、リディアーナだけでなくディミトリも処罰の対象になるが、今のエレノアにとって、それは少々都合が悪かった。
 父母が揃って犯罪者の身に堕ちてしまえば、来年自分が教会へ入る際、多方面からの心象が悪化してしまう。
 教会で念願のスローライフを送る為にも、それは避けねばならない事だ。

 そこでエレノアは、少しでも子爵家の心証を持ち直させるべく、横領の罪をリディアーナ1人に全て被せる事にした。
 人身御供にする為の『教育』を、リディアーナにしっかりと施した上で。

 そのせいか、派遣されてきた騎士達に引っ立てられる際、リディアーナは涙を流しながら「生きていてごめんなさい」、「全て私が悪いのです」、「私はなんの価値もないゴミです」などと繰り返し呟いていた。

 連行時の様子を見ていたエレノアは、ちょっと教育が過ぎたかも知れないと一瞬思ったが、どうでもいい事なのですぐに忘れた。
 そもそもリディアーナが横領犯なのは事実であるし、別段気にする事などないのである。

 それに、『愛する妻に裏切られたせいで人が変わったように気落ちし、すっかり口数も減ってしまったトリニス子爵』の姿は、社交界でもそこそこ同情を引けたようなので、結果としては悪くなかった。


 そして最後にミディナだが、こちらは元より甘やかされまくって育った、メンタル弱々お嬢様だったので、『教育』はずっと簡単に済んだ。

 両親と違って、指の骨を折っては治癒魔法で治す、という拷問紛いの指導を数回繰り返しただけで、簡単に屈服してくれたのだ。
 段々『教育』が面倒になってきていたエレノアにとっては、実にありがたい結果だったと言えよう。

 しかしながら、たかが人差し指の骨1本折られた程度で失禁するなんて、愚妹は稀に見る根性なしだ、と呆れ交じりに断じたエレノアの、その思考回路に突っ込みを入れる人間はどこにもいなかった。



 そして、それから更に時は流れ――エレノアが18歳の誕生日を迎えた日。
 正式な聖女として教会に身を置く事を国王に報告すべく、エレノアはディミトリを伴って登城していた。

 謁見の間に通されたディミトリとエレノアは、玉座に座る国王の御前――といっても、10メートル以上距離が離れているが――にひざまずき、その言葉を受ける。

「久しいな、トリニス子爵。昨年は領地にて不祥事があり、そなたも随分と心を痛めていたようだが……。息女達共々、息災であっただろうか?」

「ハイ、オカゲサマで、ツツガナク、クラシテオリます」

「……?お、おお。そうか。それは何よりだ。……あー、では、この度の件についてだが――」

 己の言葉に、微妙な作り物感がある微笑みを浮かべつつ、奇妙なイントネーションで話すディミトリに、王は思わず戸惑った。傍に控える宰相や護衛に就いている兵達も、みな一様に怪訝な顔をしている。

 とはいえ、ここで言葉を切るのも不自然。
 王は何事もなかったような態度で話を続けた。
 しかし――繰り返しディミトリと言葉を交わすにつれ、王が抱く妙な違和感は消えるどころか強まるばかり。

 だが、ディミトリの受け答えは常に理路整然としており、また、立ち居振る舞いにも不敬な点は全く見受けられない。
 むしろ、上位貴族に勝るとも劣らない、気品ある言動だと言えよう。

 数年前の謁見では一向に口が減らず、控えていた宰相から叱責を受けるほどの酷い不作法ぶりだったというのに、人とはこうも変わるものであろうか。

 また、2、3言葉を交わしただけだが、娘のエレノアも実に聡明であり、聖女に相応しい清廉でたおやかな印象を受けた。
 苦言を呈する事など、何ひとつありはしない。

 何より、ディミトリが抱えているトリニス子爵領は、前年に発覚した子爵夫人の横領騒ぎ以降、右肩下がりだった領地運営の実績が急激に上向き始め、今では奇跡のV字回復を果たしている。

 だというのに、今ここで確証のない、漠然とした違和感を引き合いに出し、ディミトリを問い詰めるような真似をするのは、一国の主としていかがなものか。
 いやでもなんか、ディミトリの動きが時々カクカクしてるように見えるし、やっぱり何かおかしいような――

 なんとも言えない、モヤモヤとした気持ちと迷いを吐き出せぬまま話は進み、やがて話題は、エレノアの今後についての件へ移り変わった。

「――では、最後に問う。先だってそちらから伝え聞いた要望についてだ。通常、聖女となる娘は身分に関わらず、実家を含めた世俗との関わりを断って暮らすのが慣例である。
 しかし、現在の子爵家の状況などを鑑みて、下の娘が婿を取るまでは、月に一度の割合でエレノア嬢との面会を希望する、とあった。その件について相違はないか?」

「ハイ、ゴザイマセン。ワタシジシン、ツマがアノヨウナコトにナッて、マダ、ココロのセイリがツイテオリマセンし、ミディナもマダ、カゾエ16のトシワカサです。アネのエレノアに、アイタガルコトデショウから」

「うむ……。まあ、道理であろうな。……あい分かった、教会の方には我から話を通しておこう。聖女の世俗断ちは、あくまでも慣例であり、遵守せねばならぬ教義ではない。そなたらの事情を知れば、教会も否やは申すまいて」

「ハイ、アリガトウゴザイマす、ヘイカ。コンゴモ、オンミとオウコクに、カワラヌチュウセイをオチカイモウシアゲます」

「うむ。期待しておるぞ。――トリニス子爵ディミトリ、並びにその娘、エレノア子爵令嬢。この度は、我の短い話に付き合う為の登城、大儀であった。下がってよいぞ」

「ハイ。シツレイイタシマす」

「失礼致します」

「――待て」

 それぞれ臣下の礼を取り、踵を返して謁見の間から去ろうとしている父子を、王が呼び止める。
 何か深い意図があった訳でもなく、ただ違和感に背を押されるがまま、反射的に口をついて出た言葉に反応して、ディミトリとエレノアは素直に足を止め、再び王へと向き直った。

「何でございましょう?」

 エレノアが不思議そうな顔で小首をかしげる。

 この期に及んで王は迷った。
 どうする。やはり訊くか?
 だが、どう話を切り出す?
 お前の父さん、なんかおかしくないか?とでも?

 いや、直接的過ぎる。
 第一それ普通に侮辱だろ。
 幾ら相手が臣下でも、口に出していい事じゃないよな?

 王は、数秒にも満たない短い逡巡ののち――

「……いや。その……。月並みであるが……今後もそなたたちには、末永く息災であって欲しい、と」

 あっさり追及を諦めた。
 突っ込むのが怖くなったとも言う。

「退室間際に呼び止めてすまなかった。今度こそ下がるといい」

「さようでございましたか。お心を砕いて下さり、ありがとう存じます。陛下。それでは、改めて御前を失礼致します」

「うむ」

 こうしてエレノアは無事、ディミトリと共に王城を後にした。
 謁見の間に、なんとも言い難い空気を残したまま。



 数年後。
 ミディナがエレノアの紹介で、子爵家の遠縁に当たる伯爵家の3男と婚姻を結んだ翌年、ディミトリは気が抜けたのか病を得て床に伏し、年明けを待たずして鬼籍に入った。
 更にその数年後、跡取り息子に続いて双子の娘を産んだミディナも、娘達の出産の翌年に、馬車の事故で儚くなっている。

 後に残された入り婿は、後添えを得る事なくそのまま子爵家の繁栄に尽くし、その地位と責務を無事次代へ繋げたが、半年に一度、教会で聖女筆頭を務める義姉の元へ足を運ぶ習慣はなくならず、その身が死の床に着くまで教会通いを続けたらしいが――その本当の理由を知る者はいない。

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