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義務と怠惰
しおりを挟む「残念じゃが、五月病ですな」
アルコールやらエタノールやら、とにかくいろいろな薬品のニオイが立ち込める個人病院にて、初老で白髪交じりの、すこし目つきの鋭い医者が俺に言った。医者はカルテと思しき紙切れを、まるで新聞のように持ちながら、俺の顔と交互に見ている。
「……五月病、ですか?」
俺が即座に訊き返す。
なんでってそりゃ、今朝、なんとなく体がだるいと思って体温を測ってみたら38度で、本格的に体がだるくなる前に近くの病院へ行って、薬をもらおうとして、診察を受けたらそう言われたのだ。意味が分からない。
いや、意味は分かる。
知ってるよ?
五月病くらい。
あれだろ?
五月の連休で休日に慣れた人間が、連休明けに精神を軽く病む的な、あれでしょ?
でも、実際に熱が出て、診察を受けて、医者から直々に「五月病です」って診断を下されるのは、なんというか、ちょっと違うんじゃないの?
それに今、9月だし。
「どうかしたかの?」
医者が俺に語り掛けてくる。おそらく、急にだんまりを決め込んだ俺を心配しての行動だろうが、俺が逆に訊いてやりたい。
いやいや、あんたこそどうかしましたか、と。
こっちはただでさえ休みづらい職場だから、有給を消費した上で病院へ来ているんだ。こんなの明日、上司になんて報告すればいいんだ。
『──お。昨日の、どうだった? 体調とか大丈夫か?』
『あ、はい。ただの五月病でした』
こんなやり取りをすれば、間違いなくはり倒されるだろう。
……まあ、今のご時世、さすがに上司も腕力に訴えてはこないだろうけど、ほぼ確実に心証が悪くなる。ひいては、今後のサラリーマン活動に影響を及ぼしかねない。こんなところで躓いている場合じゃないんだ。俺の輝かしい未来のために。
「──ん医者!!」
「うわ、は、はい、なん……なんで急に大声を……しかもネイティブな発音で……」
自分が思っているよりも大声を出してしまっていたらしく、医者が肩をビクッと震わせ、すこしのけぞった。
「す、すみません。ちょっと興奮してて……と、とにかく、ふざけている場合じゃないんです。冗談に付き合っている場合でも、いくら患者が来なくて暇だからって、俺に対して小粋なジョークを挟んで、残りの人生の暇をつぶしている場合でもないんです」
「なかなかに辛辣だな、きみは」
「ですから、さっさと対処法なり薬なりを教えていただきたい。俺は一刻も早く、この不快な熱症状を治したいんです。そして一刻も早く、会社に復帰したいんです」
「ふむぅ、そうは言ってもだな……」
医者は困ったように、自身の白髪交じりの頭をポリポリと掻いた。
なんだってんだ、まったく。困っているのはこっちだというのに、まだ何か変な事を言うつもりだったのか? これはもう、グーグルの口コミで星を1にしてやったほうがいいんじゃないか?
いや、それはさすがに可哀そうか……。
「五月病は五月病としか言えんしの……」
まだいうか、このヤヴ医者は。決定だ。もう容赦はしない。口コミで星1を付けた挙句、ちょっとした悪評も書いてやる。
『病院の入口に変な狸の置物があります』と。
いや、あれはたしか信楽焼だっけ? この国伝統の信楽焼をぼろくそに言ったら、それはさすがに作った人が可哀そうか……とはいえ──
「いい加減にしてください、ダクター! 俺だって五月病がどんなのかは知っています! しかし俺は現に熱を出しているし、汗も……うわ、なんだこれ、なんでこんなに汗かいてんだ!? ……あ、あと、咳だって、コホンコホン、ほら、でてる。だからこれは五月病なんかじゃありません!」
「いや、それらが主な五月病の症状なのじゃ」
「いやいや、嘘つけーい!」
「嘘なものか。じゃからきみ、いますぐ入院しないとやばいんじゃて」
「はあ? 五月病で入院? 俺をバカにするだけでは飽き足らず、さらに入院費までむしり取ろうとしているのですか!? なんたる所業! なんたる悪魔! まさに悪魔の医者!」
「なぜ英語で……とにかく、わしもきみの担当医として、このまま放ってはおけん。いますぐ市立の大病院に入院の手続きを──」
「いりません! 結構です! わかりました。そちらがその気なら、俺にも考えがあります!」
「な、なんじゃ……何をするつもりじゃ……」
「帰る!」
俺は隣にあった籠に入っている上着を取ると、そのまま扉から出ていった。……が、その瞬間、体全体が熱くなり──
◇
気が付くと、市立病院のベッドの上で寝かされていた。
ふと横を見ると、点滴に使われるようなパックがあり、そこから出ている透明な管が、俺の肘窩(肘裏部)にある静脈と繋がっていた。
俺はどうやら、あの後、気を失ってしまったらしい。
おそらく、全身全霊をかけてあの医者にツッコんだ事による血圧の上昇だろう。全くもって忌々しい。あのヤヴ医者め、次に会ったときは玄関にあるあの信楽焼のたぬきに落書きをしてやる。……いや、それはすこし可哀そうか。
「──おう、調子はどうだ。いきなり倒れたそうじゃないか」
ふいに声を掛けられる。
聞き覚えのある声だったので、その方向へ顔を向けてみると、部長が果物の入った籠を片手に俺を見下ろしていた。
「す、すみません、こんなことになっちゃって……」
「なんだ。喋れるのか。それならひとまずは安心だな」
「すみません、会社へはしばらく行けそうもありません」
「そうか。ま、無理はするな。いまは安静にしておくんだな」
「す、すみません……」
「……それで、結局なんの病気だったんだ?」
きた。そりゃ聞かれるよな。いきなり入院なんて普通じゃない。ただ、俺にも具体的な病名はわからない。
『五月病でした。ぴーすぴーす』
なんて言えるはずもないし。
「そ、それが……その……」
「なんだ。言えないくらい重い病気なのか?」
「いえ、それが、よくわからなくて……」
「わからない? でもおまえ、たしか病院から帰る途中で倒れたんだろ? 診察は受けたんだよな?」
「いや、なんというか……」
ああ、もうだめだ。
もう言うしかないか。変な目で見られるだろうけど、ここははっきりと伝えるしかない。というか、もう頭もあんまり回らなくなってきた。
「ご、五月病……みたい、です……」
はぁ。言ってしまった。ついに。こんなんバカにされてるとしか思わないよなぁ……。実際俺もバカにされてると思ったし。
「な、なんだって!?」
さっきまでにこやかに俺を見下ろしていた部長の顔が、一気に険しくなる。まさかそこまで怒られる事になるなんて。仕方がない。すこししんどいけど、きちんと説明しよう。あのヤヴ医者のことも。
「あの、じつは、全然ふざけているとかじゃなくて……」
「なんてこった! 大変じゃないか!」
「……へ?」
「自分をしっかり持つんだぞ! いいか、決してあきらめるんじゃない! 病気が完治する自分を想像するんだ! 病は気からって言うしな! なに、心配するな! 会社のことは俺に任せておけ!」
「え? え?」
なんなんだ、一体。この豹変ぷりは尋常じゃない。
もしかすると、俺は、五月病のことをよく知らないんじゃないのか?
本当は、かなりやばい病気なんじゃないのか?
──いやいや、いやいやいやいや!
でも、だって、五月病だぞ?
そんなわけないじゃないか。そんなわけ……ないよな?
「そうだ! なにか欲しいものはないか? なんでも買って来てやるからな! ……あ、いや、何も言わなくていい! 口を開くな!」
「え? ……いや、ちょっと、そもそも五月病って──」
「と、とにかく、絶対安静にしておくんだ! おまえの親御さん、たしか田舎のほうにいるんだったよな! 安心しろ、そっちのほうも俺から連絡いれておいてやるからな!」
「あの、だから、なんなんですか、五月病って──」
「だからおまえは、自分の病気を治すことだけに集中しておくんだ! いいな! じゃあ俺はさきに会社へ戻って、この事を報告しに──」
俺は肘窩に刺さっている針を引っこ抜くと、ベッドの上で仁王立ちになり、思いきり声を張り上げた。
「五月病って、なんなんだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
俺の叫びは病院全体を揺らし、大地を震わせ、空を割った。
そして俺は──結局そのまま、本格的に入院することになった。
五月病ってなんなんだ。
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