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第五部 異世界建築士と子供たちの楽園
第608話:子供の幸せは街の幸せに
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「監督⁉ こんな昼間から、どうされたんですか? その抱えている布の束は?」
リヒテルが俺たちを見て驚いた。
「大変ありがたいことに、赤ん坊たちのおむつの寄付だそうです」
ダムハイト院長の紹介を受けて、俺が続ける。
「そろそろ傷んでいるおむつが目立ってきていたからな。とりあえず、うちの女房たちが近所からかき集めてきたおむつだ。お古だけど、状態がいいものを選別したつもりだ。全部で五十枚くらいあるから、使ってくれ」
「ああ、ムラタ様! それから奥様も! いつもありがとうございます!」
ヴァシィが満面の笑顔で振り返り、頭を下げた。
俺は抱えていた布の山を、洗って干したおむつを入れるかごの中に放り込む。リトリィが、それを整えてくれた。
「監督、いつもすみません」
リヒテルが、赤ん坊のおむつを交換しながら頭を下げた。彼はもう、塔の現場には来ない。最近はずっと、この孤児院の赤ん坊の面倒を見ている。だから彼から監督と呼ばれるのは、少々くすぐったい思いだ。
──と、思ったときだった。
何の運命のいたずらだろうか。
「ぷわっ⁉」
赤ん坊が、盛大に水門を解放する!
真正面から顔面に鉄砲水を食らうリヒテル。
驚くダムハイト院長。
悲鳴を上げて雑巾を手に取るヴァシィ。
手ぬぐいを手に走るコイシュナさん。
リトリィも、持って来たばかりのおむつを手に慌てて走る。
そして、「あらあら」と微笑むヴェスさん。
雑巾で恋人の顔をぬぐってしまったことに気づいてさらにパニックになるヴァシイを、コイシュナさんがなだめて手ぬぐいを渡す。
「……お見苦しいところを」
「相手は赤ん坊です、よくあることでしょう? むしろ健康な証拠です」
ハンカチで冷や汗を拭く院長だが、リヒテルにおしっこをひっかけた当の赤ん坊の笑い声が、実に微笑ましい。
「赤ん坊たちの声も、にぎわしくなってきましたね」
「騒がしいと感じられるようでしたら……」
「いえ、赤ん坊ですよ? 静かでいるより何倍もいいですよ」
俺の言葉に、院長は長いため息をついた。
「……私は、長いこと神の止まり木を自負し、子供たちを導かんとてこの孤児院を運営してきたつもりでした。ですが、私のしてきたことは……」
「子供たちの命を守り、繋いできたんですよ? それ以外に何があります?」
俺の言葉に、院長は目を見開いた。
「いえ、ですが私は、無知のまま、多くの子供たちを……」
「院長先生、あなたは自分の信じる道を貫き、子供たちのためにと生きてきた。今もあなたの肩には、たくさんの子供たちが乗ってるんですよ? この子供たちを幸せにして送り出せば、街の幸福度もまた、上がるってものです」
院長が、目を泳がせる。
その先には、ベッドに並ぶ、たくさんの赤ん坊。
親から、様々な事情で手放された子供たち。
そうだ。だからこそ、この子たちには幸せになる権利がある。
「俺も、今回は本当にいい仕事をさせてもらえました。いろいろと知ることができましたからね。これからも子供たちのために、一緒に頑張りましょうよ。大工としての力が欲しければ、いつでも声をかけてください」
彼はしばらく目をしばたたかせていたが、「……ええ、よろしくお願いいたします」とだけ言うと、部屋を出て行った。
視線を赤ん坊たちに戻すと、リヒテルの頭をヴァシィが拭き終えたところだった。小便臭さは洗ってこないとどうしようもないだろうに、二人は顔を見合わせて笑っている。
「あの二人、新婚さんみたいだな」
俺の独り言に、ヴェスさんが微笑んで答えた。
「ふふ、あと何カ月か経てば、そうなるのでしょうね」
「そうなったら、一年足らずほど経つとヴェスさんの部下が減って、困ったことになるんじゃないのか?」
「それはそれです。幸せが増えることは、良いことですよ」
ヴァシィが『恩寵の家』で働くようになったのは、リヒテルの働きかけがあったからだ。あのおどおど少年がナリクァン夫人相手に啖呵を切ったときには、本当に驚いたものだった。
『ぼ、僕は! 彼女を! 幸せにしてみせます!』
ナリクァン夫人と会見し、ゲシュツァー氏の孤児院や工場で保護し、収容した子供たちの今後について話し合っていたときだった。一緒に連れてきていたリヒテルが暴発したのだ。
が、なにせリトリィの後見人を自認し、リトリィを泣かせた俺をにこやかに拷問にかけたナリクァン夫人だ。ピシャリと言葉で張り倒した。
『銅貨一枚も自らの力で稼ぐ力のない子供が、人を幸せにするですって? 彼女は十分に傷ついてきました。そのうえあなたのような傲慢な男に任せるなど、正気の沙汰ではありません』
いや、もともとはこの話が終わってから、個人的な話として、ヴァシィの処遇を相談しようとしていたのに、リヒテルが先走っちゃったんだ。
おまけに、リヒテルときたら俺の入れ知恵をすっかり忘れてそう言っちゃったんだけどさ。うろたえておろおろするものだから、俺がちょっとだけサインを出して援護して、やっと言えたんだけど。
『だ、だったら! 彼女と一緒に幸せになれるように……いや、彼女の子と三人で幸せになれるように、これから一緒に努力していきます! 僕は彼女たちと、これからずっと一緒に支え合って、一緒に生きていきます!』
自分と血のつながらないヴァシィの子とともに生きる、という宣言。
それを聞いて、俺を見て苦笑いしたナリクァン夫人。
夫人は、ヴァシィとリヒテルがもともと想いを寄せ合ってるって知ってて芝居を打っていたわけだけれど、まさかあっさり、夫人が求めている答えを言われるとは思ってなかったらしい。
『そこの大工さんに入れ知恵されましたね?』
あっさり見破られた。
でも、孤児院出身のリヒテルだからこそ、その言葉にはきっと重みがあったはずなんだ。血のつながりだけに依らない、愛のかたちに。
で、リヒテルの身分は、即日、ナリクァン商会の丁稚となった。
何の仕事かといったら、つまりこれだ。
子守女中ならぬ、子守男中。
ヴェスさん付きの見習いとして、リヒテルとヴァシィは、孤児院『恩寵の家』の赤ん坊たちの世話をする、ベビーシッターとなったのだ。
男の子が子守りの仕事に就くってのは、ナリクァン夫人に言わせれば前代未聞らしい。だが、すでに『恩寵の家』では、俺のリノに不埒な行いをしようとしたクソガキどもが、更生活動の一環として、赤ん坊の世話をやっている。
ヴェスさんから、男であっても一定の成果が見込める、むしろ力仕事が多いから男手があると助かるという報告が上がっているそうで、だからナリクァン夫人は、リヒテルとヴァシィの二人の生活を保障する手段として、二人まとめて子守りにさせることにしたのだとか。
『ヴァシィには乳飲み子もいます。まとめてお世話できればちょうどいいでしょう』
さすがナリクァン夫人。商売人として計算高い。
「……それにしても、やっぱりこれだけ赤ちゃんが集まると、にぎやかですね」
リヒテルにおむつを渡してきたリトリィが、ベッドに並ぶ赤ん坊たちの姿を見て微笑んだ。
「うちもいずれ、こんなふうににぎやかになるんですね」
今、マイセルとフェルミが妊娠中で、この夏には出産だ。そうしたら、子供がいきなり二人増える。もしまたすぐにマイセルが妊娠するようなことになれば、来年にはさらに増えるわけだ。たしかに、うちもこうやってにぎやかになっていくのだろう。
いや、今でこそにぎやかな『恩寵の家』の赤ん坊たちだが、初めて見たときには不気味なほど静かだった。この部屋には赤ん坊がたくさんいるのに、笑い声も泣き声もほとんどないという、異様な空間だった。
やっぱり、泣いたときに反応してもらえるかどうかというのは、赤ん坊の成長でとても大事だったんだろうな、と思う。こんなに劇的な変化を見せられると、俺も子供が生まれてきたら、喜怒哀楽を全力で示しながら子育てしないと、と思わされた。
「監督、もう帰られるんですか?」
「ああ、まだ回るところがあるから」
「お疲れさまです! また遊びに来てくださいよ!」
赤ん坊から小便をかけられたのに、怒る素振りを全く見せず、むしろその赤ん坊を抱き上げているリヒテルが、笑顔で礼をする。隣のヴァシィも、そろって礼──右手を上げてみせた。
あの、気が弱くて同じ孤児院の収容児童からカツアゲされるようなありさまだった少年が、ずいぶんとたくましくなった。
大工として働いてもらおうと思っていた予定が狂ったけれど、彼がこの道を、大切なひとと共に歩もうというなら、それをさえぎる道理はない。
辛い経験をしてきたぶん、きっとひとに優しくできる二人になるだろう。
二人で支え合って、子供たちの行く末を照らす光となってほしいと願う。
「ムラタさん」
部屋を出る直前に、ヴェスさんに声を掛けられた。
振り返ると、彼女は深々と礼をしてみせてから、言った。
「奥様を、大切に」
孤児院を出たリトリィは、なんだか奇妙な空気をまとっていた。
嬉しそうな、けれどそうでもなさそうな。
「……どうした?」
「あの、ヴェスさんというかた」
リトリィが、孤児院を振り返る。
「……あなたのこと……」
リトリィは言いかけて、しかし口ごもった。そのまま、何も言わずに俺の左腕に、体を寄せる。
「……ヴェスさんが、どうかしたのか?」
聞いてみたが、リトリィは小さく首を振ると、小さく微笑んだ。
「だいじょうぶです。わたしはおこったりしてませんよ? だんなさまが、よそで意味もなく種をまいてくるはずがありませんもの」
……なんか怒ってるぞ、それ! 間違いなく!
ていうか、なんでそうなる⁉ それじゃまるで、俺が浮気したみたいじゃないか!
俺は潔白だぞ⁉
「ふふ、もちろん信じていますよ。言ってみただけ、です」
あーもう!
可愛いこと言いやがって!
「それで結局、事業継続に文句はないと?」
「事業そのものの継続には」
「……言わんとしていることは分かるとも。まったく、ナリクァン夫人どころかフェクトール公まで動かして脅しかけてくるのだから、信じがたい人脈だ」
ゲシュツァー氏は、ソファーに身を沈めるようにしてため息をついた。
「それよりももっと信じがたいのは、私の事業を潰すどころか、むしろ発展を促すような提案をしてくることだ。君は、私が憎くないのかね?」
「俺は、あんたの理念自体には賛同してるんだ」
俺は、お茶のカップを戻しながら言った。
「ひとを育てることは街を育てること……あんたはそう言った。あんたの経営する救児院は、まさにそのためにあると。俺はそこに、学校の可能性を見出したんだ」
「学校?」
ゲシュツァー氏は片眉を上げた。
「前にもそんなことを言っていたね、君は。だが私は、神学者なんぞ育てるつもりはないぞ?」
「俺が言っている学校ってのは、生きるための技術を学ぶ学校だ。読み書き計算や正しい知識を体系的に学び、体を鍛え、自立できるひとを育てる、そんな場のことだ」
「そんなもの、親が面倒を見るべきことだろう?」
「でも読み書きなんて、一般家庭の親が教えられるものなのか? 俺は少なくとも、この街で使われている文字については、多少は読めてもいまだに恋文一つ、満足に書くことができない」
ゲシュツァー氏は、じっと俺を見つめる。
「……君と会話をしていると、とても教養が無いようには思えないのだが?」
「俺の生まれ育った故郷には、読み書き計算や一般常識、高度な知識の土台となる学問を教える『学校』があってね。人生の半分以上、そこで過ごしてきた」
「人生の、半分以上、だと?」
ゲシュツァーが、さすがに身を乗り出すようにして驚いてみせる。
幼稚園から大学卒業まで、一般的なケースをストレートで進めていくと十九年間。それが、日本が子供の教育にかける期間。
「俺の例はともかく、子供たちが読み書き計算と、一般的に知っておいた方がいいこと、それを共同で学べる場を作ったら、子供たちはより一層役に立つ人間になり、また自立して生きていけるようになるだろう。そうしたら、三十年後……いや、百年後には、街はもっと豊かになると思わないか?」
「……ばかな、そんな遠大な……」
「それをやってきたのが、あんただろ?」
俺が笑ってみせると、ゲシュツァー氏は首を振った。
「私は、なにもそこまで……」
「あんたは優秀な働き手となる子供を育ててきた、その自負はあるんだろう?」
「それはもちろん……!」
「食べていくための技術を身につけた子供たちを、あんたは三十年間送り出してきたんだ。ずっと工場内で働かせてきたひとたちには、社会性を身につけるための別の教育が必要だろうけど、いま救児院にいる子供たちは、もう少しだけ、身につけることを増やすだけだ。簡単だろう?」
「簡単なわけがないだろう」
「大丈夫さ。あんたは三十年かけて、子供たちを育ててきたんだから」
俺は立ち上がると、窓のほうに向かう。
窓の向こうには、三番街の活気あふれる街の様子が見える。
「事業のための効率全振りだったのを、もう少しだけ、ひとを育てる方向に向かうだけだ。誰もが、自分らしく生きることができる──そのためには、生きるための力を身につける必要がある。あんたがやってきたことを、自分の事業だけで独占するのをやめて広く街に解放することで、あんたは未来の顧客を作ることにつながるんだぞ」
「誰もが、自分らしく生きる、だと……?」
夢物語にすぎん──そうため息をつくゲシュツァー氏を、俺は真っ向から否定してみせる。
「夢物語なんかじゃない。子供たちは未来の街の住人だ。子供たちが自立して生きていけるようにするのは、子供たちの幸せのためで、それはそのまま未来の街の幸せのためになる。そうすれば、あんたの事業も間違いなく成長する」
俺の言葉に、ゲシュツァー氏は苦笑すると首を振った。だが、あきらめたような微笑みを浮かべると、カップに手を伸ばし、ひと口すすった。
「……大袈裟な話だ。だが、どうせその話に乗らぬと、またナリクァン夫人とフェクトール公の力で圧迫してくるつもりなのだろう?」
「従業員と孤児院の、例の待遇に関する改善が無ければの話で……」
言いかけて、ふと、気づいた。
「というよりも、どうして売春を斡旋して、結婚を斡旋しないんだ? 従業員には男も女もいるんだろう? 欲望うんぬんは分かるけど、結婚を斡旋すれば解決するじゃないか。そうだ、結婚相談所を作ろう! ゲシュツァー結婚相談所! うん、それがいい!」
「……は?」
目が点になったというか、ハニワ顔になったゲシュツァー氏に、俺は結婚のすばらしさを、拳を振るって熱弁した。
彼にだって、可愛らしい双子の娘さんがいるんだ。亡くなった奥さんに捧げた愛情を思い出させれば、売春させるより結婚させた方がいいって気づくはず!
気が付いたら、目の前には苦笑いを浮かべてぐったりしているゲシュツァー氏、そして隣ではリトリィが、真っ赤な顔をしてうつむいていた。
リヒテルが俺たちを見て驚いた。
「大変ありがたいことに、赤ん坊たちのおむつの寄付だそうです」
ダムハイト院長の紹介を受けて、俺が続ける。
「そろそろ傷んでいるおむつが目立ってきていたからな。とりあえず、うちの女房たちが近所からかき集めてきたおむつだ。お古だけど、状態がいいものを選別したつもりだ。全部で五十枚くらいあるから、使ってくれ」
「ああ、ムラタ様! それから奥様も! いつもありがとうございます!」
ヴァシィが満面の笑顔で振り返り、頭を下げた。
俺は抱えていた布の山を、洗って干したおむつを入れるかごの中に放り込む。リトリィが、それを整えてくれた。
「監督、いつもすみません」
リヒテルが、赤ん坊のおむつを交換しながら頭を下げた。彼はもう、塔の現場には来ない。最近はずっと、この孤児院の赤ん坊の面倒を見ている。だから彼から監督と呼ばれるのは、少々くすぐったい思いだ。
──と、思ったときだった。
何の運命のいたずらだろうか。
「ぷわっ⁉」
赤ん坊が、盛大に水門を解放する!
真正面から顔面に鉄砲水を食らうリヒテル。
驚くダムハイト院長。
悲鳴を上げて雑巾を手に取るヴァシィ。
手ぬぐいを手に走るコイシュナさん。
リトリィも、持って来たばかりのおむつを手に慌てて走る。
そして、「あらあら」と微笑むヴェスさん。
雑巾で恋人の顔をぬぐってしまったことに気づいてさらにパニックになるヴァシイを、コイシュナさんがなだめて手ぬぐいを渡す。
「……お見苦しいところを」
「相手は赤ん坊です、よくあることでしょう? むしろ健康な証拠です」
ハンカチで冷や汗を拭く院長だが、リヒテルにおしっこをひっかけた当の赤ん坊の笑い声が、実に微笑ましい。
「赤ん坊たちの声も、にぎわしくなってきましたね」
「騒がしいと感じられるようでしたら……」
「いえ、赤ん坊ですよ? 静かでいるより何倍もいいですよ」
俺の言葉に、院長は長いため息をついた。
「……私は、長いこと神の止まり木を自負し、子供たちを導かんとてこの孤児院を運営してきたつもりでした。ですが、私のしてきたことは……」
「子供たちの命を守り、繋いできたんですよ? それ以外に何があります?」
俺の言葉に、院長は目を見開いた。
「いえ、ですが私は、無知のまま、多くの子供たちを……」
「院長先生、あなたは自分の信じる道を貫き、子供たちのためにと生きてきた。今もあなたの肩には、たくさんの子供たちが乗ってるんですよ? この子供たちを幸せにして送り出せば、街の幸福度もまた、上がるってものです」
院長が、目を泳がせる。
その先には、ベッドに並ぶ、たくさんの赤ん坊。
親から、様々な事情で手放された子供たち。
そうだ。だからこそ、この子たちには幸せになる権利がある。
「俺も、今回は本当にいい仕事をさせてもらえました。いろいろと知ることができましたからね。これからも子供たちのために、一緒に頑張りましょうよ。大工としての力が欲しければ、いつでも声をかけてください」
彼はしばらく目をしばたたかせていたが、「……ええ、よろしくお願いいたします」とだけ言うと、部屋を出て行った。
視線を赤ん坊たちに戻すと、リヒテルの頭をヴァシィが拭き終えたところだった。小便臭さは洗ってこないとどうしようもないだろうに、二人は顔を見合わせて笑っている。
「あの二人、新婚さんみたいだな」
俺の独り言に、ヴェスさんが微笑んで答えた。
「ふふ、あと何カ月か経てば、そうなるのでしょうね」
「そうなったら、一年足らずほど経つとヴェスさんの部下が減って、困ったことになるんじゃないのか?」
「それはそれです。幸せが増えることは、良いことですよ」
ヴァシィが『恩寵の家』で働くようになったのは、リヒテルの働きかけがあったからだ。あのおどおど少年がナリクァン夫人相手に啖呵を切ったときには、本当に驚いたものだった。
『ぼ、僕は! 彼女を! 幸せにしてみせます!』
ナリクァン夫人と会見し、ゲシュツァー氏の孤児院や工場で保護し、収容した子供たちの今後について話し合っていたときだった。一緒に連れてきていたリヒテルが暴発したのだ。
が、なにせリトリィの後見人を自認し、リトリィを泣かせた俺をにこやかに拷問にかけたナリクァン夫人だ。ピシャリと言葉で張り倒した。
『銅貨一枚も自らの力で稼ぐ力のない子供が、人を幸せにするですって? 彼女は十分に傷ついてきました。そのうえあなたのような傲慢な男に任せるなど、正気の沙汰ではありません』
いや、もともとはこの話が終わってから、個人的な話として、ヴァシィの処遇を相談しようとしていたのに、リヒテルが先走っちゃったんだ。
おまけに、リヒテルときたら俺の入れ知恵をすっかり忘れてそう言っちゃったんだけどさ。うろたえておろおろするものだから、俺がちょっとだけサインを出して援護して、やっと言えたんだけど。
『だ、だったら! 彼女と一緒に幸せになれるように……いや、彼女の子と三人で幸せになれるように、これから一緒に努力していきます! 僕は彼女たちと、これからずっと一緒に支え合って、一緒に生きていきます!』
自分と血のつながらないヴァシィの子とともに生きる、という宣言。
それを聞いて、俺を見て苦笑いしたナリクァン夫人。
夫人は、ヴァシィとリヒテルがもともと想いを寄せ合ってるって知ってて芝居を打っていたわけだけれど、まさかあっさり、夫人が求めている答えを言われるとは思ってなかったらしい。
『そこの大工さんに入れ知恵されましたね?』
あっさり見破られた。
でも、孤児院出身のリヒテルだからこそ、その言葉にはきっと重みがあったはずなんだ。血のつながりだけに依らない、愛のかたちに。
で、リヒテルの身分は、即日、ナリクァン商会の丁稚となった。
何の仕事かといったら、つまりこれだ。
子守女中ならぬ、子守男中。
ヴェスさん付きの見習いとして、リヒテルとヴァシィは、孤児院『恩寵の家』の赤ん坊たちの世話をする、ベビーシッターとなったのだ。
男の子が子守りの仕事に就くってのは、ナリクァン夫人に言わせれば前代未聞らしい。だが、すでに『恩寵の家』では、俺のリノに不埒な行いをしようとしたクソガキどもが、更生活動の一環として、赤ん坊の世話をやっている。
ヴェスさんから、男であっても一定の成果が見込める、むしろ力仕事が多いから男手があると助かるという報告が上がっているそうで、だからナリクァン夫人は、リヒテルとヴァシィの二人の生活を保障する手段として、二人まとめて子守りにさせることにしたのだとか。
『ヴァシィには乳飲み子もいます。まとめてお世話できればちょうどいいでしょう』
さすがナリクァン夫人。商売人として計算高い。
「……それにしても、やっぱりこれだけ赤ちゃんが集まると、にぎやかですね」
リヒテルにおむつを渡してきたリトリィが、ベッドに並ぶ赤ん坊たちの姿を見て微笑んだ。
「うちもいずれ、こんなふうににぎやかになるんですね」
今、マイセルとフェルミが妊娠中で、この夏には出産だ。そうしたら、子供がいきなり二人増える。もしまたすぐにマイセルが妊娠するようなことになれば、来年にはさらに増えるわけだ。たしかに、うちもこうやってにぎやかになっていくのだろう。
いや、今でこそにぎやかな『恩寵の家』の赤ん坊たちだが、初めて見たときには不気味なほど静かだった。この部屋には赤ん坊がたくさんいるのに、笑い声も泣き声もほとんどないという、異様な空間だった。
やっぱり、泣いたときに反応してもらえるかどうかというのは、赤ん坊の成長でとても大事だったんだろうな、と思う。こんなに劇的な変化を見せられると、俺も子供が生まれてきたら、喜怒哀楽を全力で示しながら子育てしないと、と思わされた。
「監督、もう帰られるんですか?」
「ああ、まだ回るところがあるから」
「お疲れさまです! また遊びに来てくださいよ!」
赤ん坊から小便をかけられたのに、怒る素振りを全く見せず、むしろその赤ん坊を抱き上げているリヒテルが、笑顔で礼をする。隣のヴァシィも、そろって礼──右手を上げてみせた。
あの、気が弱くて同じ孤児院の収容児童からカツアゲされるようなありさまだった少年が、ずいぶんとたくましくなった。
大工として働いてもらおうと思っていた予定が狂ったけれど、彼がこの道を、大切なひとと共に歩もうというなら、それをさえぎる道理はない。
辛い経験をしてきたぶん、きっとひとに優しくできる二人になるだろう。
二人で支え合って、子供たちの行く末を照らす光となってほしいと願う。
「ムラタさん」
部屋を出る直前に、ヴェスさんに声を掛けられた。
振り返ると、彼女は深々と礼をしてみせてから、言った。
「奥様を、大切に」
孤児院を出たリトリィは、なんだか奇妙な空気をまとっていた。
嬉しそうな、けれどそうでもなさそうな。
「……どうした?」
「あの、ヴェスさんというかた」
リトリィが、孤児院を振り返る。
「……あなたのこと……」
リトリィは言いかけて、しかし口ごもった。そのまま、何も言わずに俺の左腕に、体を寄せる。
「……ヴェスさんが、どうかしたのか?」
聞いてみたが、リトリィは小さく首を振ると、小さく微笑んだ。
「だいじょうぶです。わたしはおこったりしてませんよ? だんなさまが、よそで意味もなく種をまいてくるはずがありませんもの」
……なんか怒ってるぞ、それ! 間違いなく!
ていうか、なんでそうなる⁉ それじゃまるで、俺が浮気したみたいじゃないか!
俺は潔白だぞ⁉
「ふふ、もちろん信じていますよ。言ってみただけ、です」
あーもう!
可愛いこと言いやがって!
「それで結局、事業継続に文句はないと?」
「事業そのものの継続には」
「……言わんとしていることは分かるとも。まったく、ナリクァン夫人どころかフェクトール公まで動かして脅しかけてくるのだから、信じがたい人脈だ」
ゲシュツァー氏は、ソファーに身を沈めるようにしてため息をついた。
「それよりももっと信じがたいのは、私の事業を潰すどころか、むしろ発展を促すような提案をしてくることだ。君は、私が憎くないのかね?」
「俺は、あんたの理念自体には賛同してるんだ」
俺は、お茶のカップを戻しながら言った。
「ひとを育てることは街を育てること……あんたはそう言った。あんたの経営する救児院は、まさにそのためにあると。俺はそこに、学校の可能性を見出したんだ」
「学校?」
ゲシュツァー氏は片眉を上げた。
「前にもそんなことを言っていたね、君は。だが私は、神学者なんぞ育てるつもりはないぞ?」
「俺が言っている学校ってのは、生きるための技術を学ぶ学校だ。読み書き計算や正しい知識を体系的に学び、体を鍛え、自立できるひとを育てる、そんな場のことだ」
「そんなもの、親が面倒を見るべきことだろう?」
「でも読み書きなんて、一般家庭の親が教えられるものなのか? 俺は少なくとも、この街で使われている文字については、多少は読めてもいまだに恋文一つ、満足に書くことができない」
ゲシュツァー氏は、じっと俺を見つめる。
「……君と会話をしていると、とても教養が無いようには思えないのだが?」
「俺の生まれ育った故郷には、読み書き計算や一般常識、高度な知識の土台となる学問を教える『学校』があってね。人生の半分以上、そこで過ごしてきた」
「人生の、半分以上、だと?」
ゲシュツァーが、さすがに身を乗り出すようにして驚いてみせる。
幼稚園から大学卒業まで、一般的なケースをストレートで進めていくと十九年間。それが、日本が子供の教育にかける期間。
「俺の例はともかく、子供たちが読み書き計算と、一般的に知っておいた方がいいこと、それを共同で学べる場を作ったら、子供たちはより一層役に立つ人間になり、また自立して生きていけるようになるだろう。そうしたら、三十年後……いや、百年後には、街はもっと豊かになると思わないか?」
「……ばかな、そんな遠大な……」
「それをやってきたのが、あんただろ?」
俺が笑ってみせると、ゲシュツァー氏は首を振った。
「私は、なにもそこまで……」
「あんたは優秀な働き手となる子供を育ててきた、その自負はあるんだろう?」
「それはもちろん……!」
「食べていくための技術を身につけた子供たちを、あんたは三十年間送り出してきたんだ。ずっと工場内で働かせてきたひとたちには、社会性を身につけるための別の教育が必要だろうけど、いま救児院にいる子供たちは、もう少しだけ、身につけることを増やすだけだ。簡単だろう?」
「簡単なわけがないだろう」
「大丈夫さ。あんたは三十年かけて、子供たちを育ててきたんだから」
俺は立ち上がると、窓のほうに向かう。
窓の向こうには、三番街の活気あふれる街の様子が見える。
「事業のための効率全振りだったのを、もう少しだけ、ひとを育てる方向に向かうだけだ。誰もが、自分らしく生きることができる──そのためには、生きるための力を身につける必要がある。あんたがやってきたことを、自分の事業だけで独占するのをやめて広く街に解放することで、あんたは未来の顧客を作ることにつながるんだぞ」
「誰もが、自分らしく生きる、だと……?」
夢物語にすぎん──そうため息をつくゲシュツァー氏を、俺は真っ向から否定してみせる。
「夢物語なんかじゃない。子供たちは未来の街の住人だ。子供たちが自立して生きていけるようにするのは、子供たちの幸せのためで、それはそのまま未来の街の幸せのためになる。そうすれば、あんたの事業も間違いなく成長する」
俺の言葉に、ゲシュツァー氏は苦笑すると首を振った。だが、あきらめたような微笑みを浮かべると、カップに手を伸ばし、ひと口すすった。
「……大袈裟な話だ。だが、どうせその話に乗らぬと、またナリクァン夫人とフェクトール公の力で圧迫してくるつもりなのだろう?」
「従業員と孤児院の、例の待遇に関する改善が無ければの話で……」
言いかけて、ふと、気づいた。
「というよりも、どうして売春を斡旋して、結婚を斡旋しないんだ? 従業員には男も女もいるんだろう? 欲望うんぬんは分かるけど、結婚を斡旋すれば解決するじゃないか。そうだ、結婚相談所を作ろう! ゲシュツァー結婚相談所! うん、それがいい!」
「……は?」
目が点になったというか、ハニワ顔になったゲシュツァー氏に、俺は結婚のすばらしさを、拳を振るって熱弁した。
彼にだって、可愛らしい双子の娘さんがいるんだ。亡くなった奥さんに捧げた愛情を思い出させれば、売春させるより結婚させた方がいいって気づくはず!
気が付いたら、目の前には苦笑いを浮かべてぐったりしているゲシュツァー氏、そして隣ではリトリィが、真っ赤な顔をしてうつむいていた。
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人生に疲れ果てた北村めぐみは、目覚めると異世界の農村で少女グレイスとして転生していた。この世界では6歳で神から“ギフト”を授かるという。グレイスが得た謎の力「ミツバイ」は、果物を蜜のように甘くするという奇跡の力だった!村を、領地を、やがて王国までも変えていく果樹栽培の物語がいま始まる――。美味しさが未来を育てる、異世界農業×スローライフ・ファンタジー!
断罪まであと10分、私は処刑台の上で「ライブ配信」を開始した〜前世インフルエンサーの悪役令嬢、支持率100%でクズ王子を逆処刑する〜
深渡 ケイ
ファンタジー
断罪まで、あと10分。
処刑台の上で跪く悪役令嬢スカーレットは、笑っていた。
なぜなら彼女は――
前世で“トップインフルエンサー”だったから。
処刑の瞬間、彼女が起動したのは禁忌の精霊石。
空に展開された巨大モニターが、全世界同時ライブ配信を開始する。
タイトルは――
『断罪なう』。
王子の不貞、聖女の偽善、王家の腐敗。
すべてを“証拠付き・リアルタイム”で暴露する配信に、
国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。
そして宣言される、前代未聞のルール。
支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。
処刑台は舞台へ。
断罪はエンタメへ。
悪役令嬢は、世界をひっくり返す配信者となった。
これは、
処刑されるはずだった悪役令嬢が、
“ライブ配信”で王子と王国を公開処刑する物語。
支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、
それとも――自由か。
異世界カフェ食堂で皿洗いをしますと思ったら日本料理を創造する力が与えられていた!(もふもふ聖獣猫のモフにゃーと楽しく日本料理を創造します)
なかじまあゆこ
ファンタジー
可愛いもふもふ達とアリナは異世界でスローライフをします。
異世界召喚された安莉奈は幼女の姿になっていた。神様に与えられた能力を使い眷属聖獣猫モフにゃーや魔獣のライオン魔獣鳥に魔獣の日焼けとお料理を創造します!
熊元安莉奈(くまもとありな)は黄色のバスに乗せられ異世界召喚された。 そして、なぜだか幼女の姿になっていた。しかも、日本の地球人だったことを忘れていたのだ。 優しいモリーナ夫妻に養子として引き取れた安莉奈はアリナになった。 モリーナ夫妻はカフェ食堂を経営していたが繁盛しておらず貧乏だった。料理が出来ないアリナはお皿洗いなどのお手伝いを小さな体ながらしていたのだけど。 神様から日本料理を創造する力が与えられていた! その力を使うと。
地球では辛い生活を送っていた安莉奈が異世界ではアリナとしてお父さんに激愛され幸せに生きている。
エブリスタ、小説家になろうにも掲載しています。
ユーヤのお気楽異世界転移
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死因は神様の当て逃げです! 地震による事故で死亡したのだが、原因は神社の扁額が当たっての即死。問題の神様は気まずさから俺を輪廻の輪から外し、異世界の神に俺をゆだねた。異世界への移住を渋る俺に、神様特典付きで異世界へ招待されたが・・・ この神様が超適当な健忘症タイプときた。
バーンズ伯爵家の内政改革 ~10歳で目覚めた長男、前世知識で領地を最適化します
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バーンズ伯爵家の長男マイルズは、完璧な容姿と神童と噂される知性を持っていた。だが彼には、誰にも言えない秘密があった。――前世が日本の「医師」だったという記憶だ。
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その儀式の最中、領地で謎の疫病が発生したとの凶報が届く。
「呪いだ」「悪霊の仕業だ」と混乱する大人たち。
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公衆衛生の確立を皮切りに、マイルズは領地に潜む様々な「病巣」――非効率な農業、停滞する経済、旧態依然としたインフラ――に気づいていく。
前世の知識を総動員し、10歳の少年が領地を豊かに変えていく。
これは、一人の転生貴族が挑む、本格・異世界領地改革(内政)ファンタジー。
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