33 / 87
33.わたしだけの秘密
しおりを挟む
「お嬢様、お加減はいかがですか」
「はい、もうすっかりよくなりました」
現れたロイクの顔も心配そうだった。
「ご不調に気がつきませんで、申し訳ございません」
そう言って深々と頭を下げる。慌ててアネットはばたばたと手を振った。
「いえ、そんな、ロイクさんが謝ることでは」
みんなに余計な心配をかけてしまった。そんなつもりではなかったのに。
「私は、今日行くところがある。お前は大人しく寝ていろ、いいな」
シャルルはいくらか乱れたシャツを整えると、寝台から立ち上がった。
「だから、もう平気ですってば」
肩の上に手が置かれる。ぐっと、その手に力がかかって、眇められた目が咎めるような光を宿す。
「いいか、お前は風邪と過労で倒れたんだ。少しは自覚しろ」
「かろう……?」
アネットはきょとんと首を傾げた。果たしてそんなに疲れていたのだろうか。毎日何不自由のない暮らしをしているというのに。
一日が過ぎるのが早いな、とは思っていたけれど。
「環境が変わると、思っているよりもお心とお体に負荷がかかるものです。しばらくはゆっくり、お過ごしになってください」
「そういうことだ。必要なものがあれば、なんでもロイクに言えばいい。ロイク、こいつがきちんと寝ているか見張っていろ、いいな」
今までなら、何か言い返したくなるようなシャルルの物言い。けれど、もう分かってしまったのだ。
肩に置かれている手はほんの僅かだけれど、震えている。己の目が届かぬ間のことを、ただただ本気で彼は案じている。
その手にそっと自分の手を重ねた。
「ちゃんと、寝ています」
それぐらいのことしか、今はできないけれど。握ったシャルルの手はやはり大きかった。
「ここで、お帰りをお待ちしております、旦那様」
もうこれ以上心配をかけたくなかった。精一杯笑ってみせたら、
「分かったなら、いい」
それだけ答えてシャルルはくるりと、アネットに背を向けた。
「着替えてくる」
そのまま彼は隣の部屋へとすたすたと歩いていって、追いかける様にロイクが続く。
「旦那様」
手伝いを申し出たロイクを、シャルルは素気なく返す。
「いい。自分でやる。お前はアネットに食事でも持って来てやれ」
「はい、それでしたら」
一礼したロイクがこちらに向き直る。
「あの、わたし」
主たるシャルルよりも優先してもらういわれはない。アネットの言葉に、ロイクは首を横に振った。
「旦那様は、お体に触れられるのがとても苦手なので。お声かけだけはさせて頂きますが、ご自身でお着替えをなさることがほとんどです」
「そうなんですか?」
「はい。私以外の者でも、同様です」
ロイクは少しだけ、寂しそうに眉を下げた。
「お食事は何をお持ちしましょう」
「あの、昨日のスープ、まだありますか?」
あまり食べられなかったのが申し訳なかった。何か口に入れるなら、あれがいい。
持って来てもらったスープを掬って、焼き立てのパンをそのままぱくりと齧る。
「本当にようございました。お嬢様は丸二日眠っておられたのですよ」
あ、パンは一口ずつ千切って食べる様に言われたのだった。怒られるかと思ったけれど、ロイクはただにこにこと見守ってくれるだけだ。
「わたし、そんなに寝ていたんですか?」
「はい」
「その間ずっと」
ちらりと、隣の部屋の方を見れば、ロイクは静かに肯定する。
「旦那様は一睡もせずに、お嬢様を介抱しておられました。私が代わると申し上げても聞き入れて頂けず」
ずっと、彼は付き添ってくれていたのだ。二日も徹夜をすれば、さすがのシャルルも天使のように眠るはずだ。
いや、待て。
わたしはそんな、誰かに触れられるのを厭う人に、一晩中抱き着いて寝ていたのか。
勿論、シャツ越しではあったけれど。ぴたりとシャルルに寄り添うようにして、自分は眠っていた。
それに何より、先に触れてきたのは彼の方だというのに。
またスープを一さじ掬って考える。澄んだ水面に煮え切らない顔をした自分が映っていた。
「あの、ロイクさん」
どうしてシャルルはあんなことをしたのか。ロイクは彼を幼い頃から知っているという。理由を訊ねたら、この執事は教えてくれるだろうか。
でも、それは少し違う気もする。
「どうされました、お嬢様」
これは多分、他の誰かに聞いてはいけないものだ。たとえロイクが答えを知っていたとしても。アネットが自分で、答えを見つけなければならない。
――アネット。
名前を呼んでくれた、少し掠れた声を思い出す。春に降るあたたかな雨のような、そんな声。
もう少し、あのシャルルを自分だけの秘密にしていたかった。
「おかわり、まだありますか?」
誤魔化すように殊更明るい調子で言うと、ロイクはにこりと微笑んだ。
「はい、すぐにお持ちいたしますね」
「はい、もうすっかりよくなりました」
現れたロイクの顔も心配そうだった。
「ご不調に気がつきませんで、申し訳ございません」
そう言って深々と頭を下げる。慌ててアネットはばたばたと手を振った。
「いえ、そんな、ロイクさんが謝ることでは」
みんなに余計な心配をかけてしまった。そんなつもりではなかったのに。
「私は、今日行くところがある。お前は大人しく寝ていろ、いいな」
シャルルはいくらか乱れたシャツを整えると、寝台から立ち上がった。
「だから、もう平気ですってば」
肩の上に手が置かれる。ぐっと、その手に力がかかって、眇められた目が咎めるような光を宿す。
「いいか、お前は風邪と過労で倒れたんだ。少しは自覚しろ」
「かろう……?」
アネットはきょとんと首を傾げた。果たしてそんなに疲れていたのだろうか。毎日何不自由のない暮らしをしているというのに。
一日が過ぎるのが早いな、とは思っていたけれど。
「環境が変わると、思っているよりもお心とお体に負荷がかかるものです。しばらくはゆっくり、お過ごしになってください」
「そういうことだ。必要なものがあれば、なんでもロイクに言えばいい。ロイク、こいつがきちんと寝ているか見張っていろ、いいな」
今までなら、何か言い返したくなるようなシャルルの物言い。けれど、もう分かってしまったのだ。
肩に置かれている手はほんの僅かだけれど、震えている。己の目が届かぬ間のことを、ただただ本気で彼は案じている。
その手にそっと自分の手を重ねた。
「ちゃんと、寝ています」
それぐらいのことしか、今はできないけれど。握ったシャルルの手はやはり大きかった。
「ここで、お帰りをお待ちしております、旦那様」
もうこれ以上心配をかけたくなかった。精一杯笑ってみせたら、
「分かったなら、いい」
それだけ答えてシャルルはくるりと、アネットに背を向けた。
「着替えてくる」
そのまま彼は隣の部屋へとすたすたと歩いていって、追いかける様にロイクが続く。
「旦那様」
手伝いを申し出たロイクを、シャルルは素気なく返す。
「いい。自分でやる。お前はアネットに食事でも持って来てやれ」
「はい、それでしたら」
一礼したロイクがこちらに向き直る。
「あの、わたし」
主たるシャルルよりも優先してもらういわれはない。アネットの言葉に、ロイクは首を横に振った。
「旦那様は、お体に触れられるのがとても苦手なので。お声かけだけはさせて頂きますが、ご自身でお着替えをなさることがほとんどです」
「そうなんですか?」
「はい。私以外の者でも、同様です」
ロイクは少しだけ、寂しそうに眉を下げた。
「お食事は何をお持ちしましょう」
「あの、昨日のスープ、まだありますか?」
あまり食べられなかったのが申し訳なかった。何か口に入れるなら、あれがいい。
持って来てもらったスープを掬って、焼き立てのパンをそのままぱくりと齧る。
「本当にようございました。お嬢様は丸二日眠っておられたのですよ」
あ、パンは一口ずつ千切って食べる様に言われたのだった。怒られるかと思ったけれど、ロイクはただにこにこと見守ってくれるだけだ。
「わたし、そんなに寝ていたんですか?」
「はい」
「その間ずっと」
ちらりと、隣の部屋の方を見れば、ロイクは静かに肯定する。
「旦那様は一睡もせずに、お嬢様を介抱しておられました。私が代わると申し上げても聞き入れて頂けず」
ずっと、彼は付き添ってくれていたのだ。二日も徹夜をすれば、さすがのシャルルも天使のように眠るはずだ。
いや、待て。
わたしはそんな、誰かに触れられるのを厭う人に、一晩中抱き着いて寝ていたのか。
勿論、シャツ越しではあったけれど。ぴたりとシャルルに寄り添うようにして、自分は眠っていた。
それに何より、先に触れてきたのは彼の方だというのに。
またスープを一さじ掬って考える。澄んだ水面に煮え切らない顔をした自分が映っていた。
「あの、ロイクさん」
どうしてシャルルはあんなことをしたのか。ロイクは彼を幼い頃から知っているという。理由を訊ねたら、この執事は教えてくれるだろうか。
でも、それは少し違う気もする。
「どうされました、お嬢様」
これは多分、他の誰かに聞いてはいけないものだ。たとえロイクが答えを知っていたとしても。アネットが自分で、答えを見つけなければならない。
――アネット。
名前を呼んでくれた、少し掠れた声を思い出す。春に降るあたたかな雨のような、そんな声。
もう少し、あのシャルルを自分だけの秘密にしていたかった。
「おかわり、まだありますか?」
誤魔化すように殊更明るい調子で言うと、ロイクはにこりと微笑んだ。
「はい、すぐにお持ちいたしますね」
11
あなたにおすすめの小説
世間知らずな山ごもり薬師は、××な騎士団長の性癖淫愛から逃げ出せない
二位関りをん
恋愛
平民薬師・クララは国境沿いの深い山奥で暮らしながら、魔法薬の研究に没頭している。招集が下れば山を下りて麓にある病院や娼館で診察補助をしたりしているが、世間知らずなのに変わりはない。
ある日、山の中で倒れている男性を発見。彼はなんと騎士団長・レイルドで女嫌いの噂を持つ人物だった。
当然女嫌いの噂なんて知らないクララは良心に従い彼を助け、治療を施す。
だが、レイルドには隠している秘密……性癖があった。
――君の××××、触らせてもらえないだろうか?
ヤンデレ王子を闇落ちから救ったら愛執まみれの独占欲に囚われました
大江戸ウメコ
恋愛
幼い頃に精霊の祝福である未来視の力が開花し、「夫である第二王子ナハルドに殺される」という己の運命を知った伯爵令嬢ツィーラ。この悲惨な未来を変えるべく、ツィーラは彼を避けようとしたが、ひょんなことから婚約者に選ばれてしまった! ならば、ナハルドが将来闇落ちしないよう、側で彼を支えることを決意する。そんな努力の甲斐あって、ツィーラへの好意を隠さず伝えてくるほど、ナハルドとの関係は良好になった。だけど、彼の並々ならぬ執着心のすべてを、ツィーラはまだ知らなくて――
巨乳令嬢は男装して騎士団に入隊するけど、何故か騎士団長に目をつけられた
狭山雪菜
恋愛
ラクマ王国は昔から貴族以上の18歳から20歳までの子息に騎士団に短期入団する事を義務付けている
いつしか時の流れが次第に短期入団を終わらせれば、成人とみなされる事に変わっていった
そんなことで、我がサハラ男爵家も例外ではなく長男のマルキ・サハラも騎士団に入団する日が近づきみんな浮き立っていた
しかし、入団前日になり置き手紙ひとつ残し姿を消した長男に男爵家当主は苦悩の末、苦肉の策を家族に伝え他言無用で使用人にも箝口令を敷いた
当日入団したのは、男装した年子の妹、ハルキ・サハラだった
この作品は「小説家になろう」にも掲載しております。
贖罪の花嫁はいつわりの婚姻に溺れる
マチバリ
恋愛
貴族令嬢エステルは姉の婚約者を誘惑したという冤罪で修道院に行くことになっていたが、突然ある男の花嫁になり子供を産めと命令されてしまう。夫となる男は稀有な魔力と尊い血統を持ちながらも辺境の屋敷で孤独に暮らす魔法使いアンデリック。
数奇な運命で結婚する事になった二人が呪いをとくように幸せになる物語。
書籍化作業にあたり本編を非公開にしました。
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
最強魔術師の歪んだ初恋
黒瀬るい
恋愛
伯爵家の養子であるアリスは親戚のおじさまが大好きだ。
けれどアリスに妹が産まれ、アリスは虐げれるようになる。そのまま成長したアリスは、男爵家のおじさんの元に嫁ぐことになるが、初夜で破瓜の血が流れず……?
大好きな義弟の匂いを嗅ぐのはダメらしい
入海月子
恋愛
アリステラは義弟のユーリスのことが大好き。いつもハグして、彼の匂いを嗅いでいたら、どうやら嫌われたらしい。
誰もが彼と結婚すると思っていたけど、ユーリスのために婚活をして、この家を出ることに決めたアリステラは――。
※表紙はPicrewの「よりそいメーカー」からお借りしました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる