1 / 1
序章:色褪せた願望、澱んだ日常
しおりを挟む朝もやがアスファルトの匂いを湿らせ、街路樹の葉先からは昨夜の名残の雫が不規則に滴り落ちていた。五郎は、その音すらも聞き分けられそうなほど研ぎ澄まされた意識の片隅で、始業前の気怠い空気を感じていた。
「――ゆけ! 忍者五郎!」
課長補佐の小保方の、どこか芝居がかった声が静寂を破る。その声には、新人の早川あおいへ向けられた、過剰なまでの期待と親密さが滲んでいた。五郎は、その声に促されるように、しかし内心の冷めた部分とは裏腹に、数歩で加速し、風を裂くように駆け出した。今日の敵は、アライグマ。住宅街に出没し、家庭ゴミを漁る厄介な侵入者だ。大きくはないが、統率の取れた群れは、まるで訓練された小隊のように動き、こちらの意図を嘲笑うかのように裏をかく。
スニーカーがアスファルトを蹴る乾いた音が、早朝の住宅街に虚しく響く。五郎の突進に気づいたアライグマたちが、一瞬の静止の後、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。その混乱こそが、こちらの狙いだった。
「早川さん、小保方さん! 数匹、そちらへ向かいました!」
五郎の声に合わせるように、道の両脇からピンと張られた網が通路を塞ぐ。それは、かつて鳥獣保護で使われていた古いカスミ網。アライグマたちは、その見えざる壁に次々とダイブし、もがけばもがくほど細い糸に絡め取られていく。甲高い悲鳴が、朝の静寂を引き裂いた。捕らわれなかった仲間たちが、茂みの奥から心配そうにこちらを窺っていたが、やがて諦めたように姿を消した。
大捕り物の後、いつものように自販機の前で缶コーヒーを啜る。小保方は、まるで宝物でも扱うかのように丁寧にプルタブを開けた缶コーヒーを早川に手渡し、五郎には、まるで日課の書類でも投げるかのように無造作に放って寄越した。
「もう、この方法は使えないわね。あの子たち、意外と学習能力が高いのよ」
小保方の言葉は、アライグマではなく、まるで五郎の限界を指摘しているかのようにも聞こえた。彼女の視線は、終始、新人の早川に注がれている。その熱っぽい眼差しと、早川のまんざらでもなさそうな表情は、どこかの少女漫画で見たような、甘ったるくも閉鎖的な空気感を醸し出していた。コーヒーの最後の一滴が喉を通り過ぎる頃、小保方の顔がようやくこちらを向いた。
「五郎くん、悪いけど、残りのカマドウマが湧いたっていう排水路と、ゴミステーションのカラスのチェック、お願いできる? 私たち、ちょっと汗かいちゃったから、着替えないと。ね、早川さん」
「はいっ、小保方さん!」
二人は、まるで示し合わせたかのように軽やかに手を振り、事務所の方へ消えていく。五郎は、アスファルトに落ちた自分の影を見つめながら、深く長い溜息を吐いた。女性だから仕方がない、と自分に言い聞かせるには、早川はあまりにも早く「あちら側」に取り込まれてしまった。仕事を覚えるべき新人が、それでいいのだろうか。まあ、俺には関係ない。彼女が困るのは、もう少し先の話だ。
「おじゃましますよ」
がちゃん、と重い鉄の蓋を開けると、湿ったカビの匂いと共に、無数の黒い点が蠢くのが見えた。排水路の底には、カマドウマたちが独自の生態系を築き上げ、その無数の複眼が一斉に闖入者である五郎へと向けられる。殺虫剤を使うほどの予算も許可もない。そこら辺に落ちていた手頃な木の棒を拾い上げ、彼らのテリトリーを荒らすように振り回す。カマドウマたちは、その原始的な暴力に驚き、右往左往しながら暗渠の奥へと消えていった。彼らは、もしかしたら本当に、この星の先住民なのかもしれないな、と五郎はぼんやりと思った。
次の現場は、ゴミステーションのカラスだ。案の定、数羽のカラスがゴミ袋を虎視眈々と狙っている。彼らの知恵はアライグマ以上で、最近ではネットを器用にめくり上げる個体まで現れた。五郎の仕事は、彼らの行動がエスカレートしないよう、ただそこに立ち、無言の圧力をかけることだけだ。ゴミ収集車が来るまでの、僅かな時間の攻防。しかし、カラスよりも厄介な存在が、この場所には潜んでいる。近隣に住む、一人暮らしの老婆だ。今日もどこからともなく現れ、カラスの糞害について、まるで五郎がカラスを操っているかのような剣幕で小一時間問い詰められた。
全ての「見回り」を終え、自販機で買った二本目の缶コーヒーを空にする。また一つ、深い溜息が漏れた。かつて、五郎は本気で忍者になりたいと思っていた。幼い頃に見た、月夜を駆ける黒装束のヒーロー。人知れず悪を討ち、弱きを助ける。そんな存在に、どうしようもなく憧れた。卒業後の進路相談で「忍者村の劇団員になりたい」と真顔で語った時、両親と教師は顔を見合わせ、そして、根気強く彼を説得した。「安定した仕事が一番だ」と。そうして辿り着いたのが、この役場の「なんでも課」だった。
「はぁ……これで、よかったのかな」
昇り始めた朝日が、低い建物の影をアスファルトに長く伸ばしていた。その光は、五郎の心を温めるには、あまりにも弱々しかった。40代。人生の折り返し地点はとうに過ぎ、60歳までの道筋も、ぼんやりとだが確実に見えてしまっている。このまま、何も変わらずに終わっていくのだろうか。そんな漠然とした焦燥感が、鉛のように五郎の肩にのしかかっていた。
その澱んだ日常に、一本の電話が亀裂を入れることになるとは、この時の五郎はまだ知る由もなかった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
プール終わり、自分のバッグにクラスメイトのパンツが入っていたらどうする?
九拾七
青春
プールの授業が午前中のときは水着を着こんでいく。
で、パンツを持っていくのを忘れる。
というのはよくある笑い話。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
隣に住んでいる後輩の『彼女』面がガチすぎて、オレの知ってるラブコメとはかなり違う気がする
夕姫
青春
【『白石夏帆』こいつには何を言っても無駄なようだ……】
主人公の神原秋人は、高校二年生。特別なことなど何もない、静かな一人暮らしを愛する少年だった。東京の私立高校に通い、誰とも深く関わらずただ平凡に過ごす日々。
そんな彼の日常は、ある春の日、突如現れた隣人によって塗り替えられる。後輩の白石夏帆。そしてとんでもないことを言い出したのだ。
「え?私たち、付き合ってますよね?」
なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。
「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる