生んでくれてありがとう

緒方宗谷

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日常1

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 「ちょっと、トイレに連れて行ってよ」
 雨上がりの青空、静かだった5階の多目的室に、一人の老婆の声が響き渡った。
 白髪で少しウェーブがかった88歳の関田さんは、誰ともなく呼び、声を上げた後、佳代を見つけて何度も懇願した。
 「はーい、今行きますからね、待っていてくださいね」
 佳代はアルコールスプレーでテーブルを拭いていたため、すぐには駆け寄ることができず、ビニール手袋を外してから駆け寄った。
 関田さんは佳代のお気に入りのおばあさんだったが、痴ほう症で我が強く扱いにくいとスタッフの間で有名で、佳代以外はあまり近づかない。
 佳代たちがいる5階は大広間になっていて、食事用のテーブルがたくさん並べられている。ご飯の時間になると満席になるのだが、10時半の今は10人程度しかいない。スタッフもここには2人きりだ。
 佳代の働くこの施設は北池袋にある介護施設で、開業から6年目の比較的新しいマンションのような外観と、介護施設らしいどこにでもあるような内観からなる。
 もともと高齢者や子供が好きだった佳代だが、きつい仕事というイメージから、新卒時には就職対象には入れず、普通の中小企業に勤めていた。別に仕事がつまらなかったわけではなかったが、一通りやりきった感を覚えていたので、一念発起して退職し、介護施設に勤めることにしたのだ。
   佳代は、やってみてから考えようと言う性格だった。だから、一度介護を経験してから決めようとしたのだ。もともと、他の社員と比べて、できないことでもやってみてから考えようとするところがあった佳代は、皆が無理だという仕事量も、初めは時間がかかりつつも、試行錯誤しているうちに比較的うまく行い、何とか終わらせていた。
    非正規社員やアルバイトが行っている顧客の注文データを整理する部署の管理者を任されていて、係長に近い待遇だったのをやめてしまうのだから、相当勇気が必要だった。
    実際には小さな会社で役職もなく、給料も高くなかったのだが、それでも10人の部下がいた。それに、歴代の管理者が行えないような量を時間内でこなすのは楽しく、充実したOL生活だったからだ。
 関田さんは、優しさを取り戻して言った。
 「いつもすいませんね」
 「いいんですよ、一緒にがんばりましょうね」
   もう一人で歩くことができない関田さんの車いすを押して、多目的トイレに連れて行く。
 「脱がすから、ちょっと待っていてくださいね」
    手すりにつかまってもらっているが、それでもふらつく関田さんが転ばないように気を遣いながらズボンを脱がし、次いでリハビリパンツを脱がした。
    人によってはおむつをつけている人もいるが、介助さえあれば一人で用をたすことができるので、リハビリパンツにパットを引いてあるだけ。比較的簡単にトイレ介助することができる。
 9月に社員として働き始めたが、資格を持っていない佳代は、もっぱら簡単な仕事を任されており、寝たきりの入所者や入浴介助には配置されなかった。が、特殊なそれらの介護よりも、見守り介助の方が家事の延長のようで楽しかった。
 前職の時よりも今の方が給料は少ないし、マンションのグレードも1LDKから1Kに下がったが、今の方が充実している。
 幸い関田さんは少し尿意を感じた程度だったらしくすぐにし終わり、お尻を拭き始めた。それが終わるのを待った佳代は、優しく声をかける。
 「ちょっとぬれタオルで拭きますから、待っていてくださいね」
 立ち上がってズボンを穿こうとする関田さんを制止し、関田さん用のウェットティッシュを2枚とってお尻をぬぐってみた。たまに少しの大がふき取れることがあるが、今回はセーフ。2枚目でもう一度拭いて、パットの位置を気にしながらリハビリパンツとズボンを穿かせた。
 最近大きな台風が幾つか日本列島を蹂躙しているが、今年は今のところ東京を直撃していない。
 四国中国を横断して、1度日本海に出た台風が新潟に上陸して、東京をかすめて福島から太平洋に出たのは今朝だった。
 その名残の雨があがった空に雲はほとんど無くなっていて、今日ものんびりした1日が始まろうとしていた。


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