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癒しの牛丼、豚汁付き
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こんなにも努力が報われない経験を、佳代はしたことがない。まだ働き始めたばかりだというのに、朝起きると体が重く全く出社しようとする気力がわかなかった。初めは行きたくないという気持ちがあったが、今ではそれすら感じなくなっている。
多くの入所者は、ご飯は食べたくない、お腹は空いていない、今テレビを見ているから歯を磨きたくない、さっき何度も磨いた等、多少はおかしな点があるものの、何かしらの理由をつけて拒んでくる。
松本さんの場合、何をやっても上の空で、ブツブツと空を攻撃するようにつぶやいている。それが急に佳代に向けられることもある。またその内容が、全く理解できない言葉の羅列であるにも関わらず、誹謗中傷されているということだけは伝わってくるので、つらくてつらくてしょうがなかった。
感謝されないということが、こんなにもつらいとは思わなかった。なんだかんだ言って、入所者が時折見せる笑顔や、ありがとうの言葉がどれだけ励みになっているのか、松本さんと対比することによって、際立って認識することができた。
松本さんには、そのように思わせるところが微塵もなく、その言動は自分の存在価値が無いかのように佳代に思わせた。
それでもなお何とか出社できたのは、他の入所者の方々の笑顔が脳裏に浮かんだからだ。自分を頼りにしてくれる方や、普段は痴ほう症で会話にならなくても、ふと気づいたようにお礼を言ってくれる方に、癒してもらいたいとすがるような気持ちがあった。
本来なら、お世話をして癒してあげなければならない立場の佳代であったが、寝ても覚めても休み明けでも、常に悲観にくれるような精神状態だ。それでも、行きたくない気持ちと表裏一体の行きたい気持ちを創作してなんとか湧かせ、家を出た。
まったく何も気持ちを感じなくなってしまってからも、なんとか体は動いている。おじいちゃんおばあちゃんが大好きだと言う気持ちは残っているのか、出社しては癒され、癒された以上に傷ついて帰ってくる。そんな生活が続いた。
千里も佳代の変化に気づいていて、度々電話をくれたり、ポストに手紙やクッキーを入れてくれたり、色々と気を使ってくれた。
「佳代、泊まりに来たよ」
「!!?どうしたの?いきなり」
17時に仕事を終えて18時前に帰宅した佳代に食欲はなく、そのままベッドに臥せっていたところ、ふとチャイムが鳴った。
よたよたと立ち上がって魚眼レンズを覗き込むと、スーツ姿の千里がいた。段々と言葉数も減っていき、電話でもほとんど聞く一方なった佳代を心配して、一晩泊まりに来てくれたのだ。
「どこかに行くの?」
「ううん、お泊りセット、明日ここから会社に行くから」
小さなスーツケースを持っているのを見て、佳代は出張に行くのかと思った。新幹線や空港にいそうなOL姿でやってきた千里が、遠慮なく室内に入ってくる。
「あれぇ?意外に散らかってる。
うちほどじゃないけど、佳代らしくないね」
「うん、かたす時間が無くて」
実際時間がなかったわけではなかったが、心身共に疲弊しきっていて、掃除をする気にもならなかった。
洗い物や洗濯はしていたものの、出したものは片付けず出しっぱなしで積まれている。ベッドも起きた時のままくしゃくしゃになって、掛け布団が半分床に落ちている始末。ペットボトルやジュース缶がガラステーブルの上に置きっぱなしのままで、甘い香りを漂わせている。
温度の上がった無果汁飲料のいやな甘ったるい臭いに、ようやく気付いた佳代は、飲み残したジュースをキッチンに流して中をすすいだ。
千里はそういう環境に慣れていたので気にも留めなかったが、普段小奇麗にしている佳代にとっては、恥ずかしい限りであった。
お茶を入れている短い間に、千里はテーブルをかたしてふきんで拭く。持ってきた二人分の牛丼と豚汁を広げると、疲れ切った佳代でさえ食欲が出てくるほどの良い匂いが1K中に広がる。
玄関を開けたそばから、鼻をくすぐる醤油の利いた甘い香りが脳を刺激し、口いっぱいに唾液が溢れていた。企業戦士がご飯と肉と玉ねぎだけの質素な食事に群がる理由がよくわかる。その香りだけで佳代の心は、深いタールの沼の底から浮かび上がれたように感じた。
まだご馳走してくれると言われたわけではなかったが、既にご試走してくれるのを前提に、佳代はお茶を淹れて部屋に戻った。
期待した通り牛丼と豚汁が2人分、しかも500mlのビールまであって、千里はニコニコしながら佳代を迎える。おのずと佳代の頬もほころぶ。
「さあ、召し上がれ」
千里のその言葉にお礼を言って、佳代はまず豚汁を手に取りすする。顆粒ダシの濃いめのうまみと味噌の辛さを、豚肉の脂が持つ独特の甘さが包み込んで、口いっぱいに広がる。鶏肉や牛肉では出せない優しい味だ。それが喉の奥を通ると、ゴボウの香りと味が鼻に通って、安らぎを覚える。
千里が言った。
「豚汁は日本人のソウルフードだよね」
「ほんと、ほんと」
一口飲んでホッと一息ついた佳代に相槌を打ち、千里は牛丼の思い出話を始めた。
学生時代に、二人で牛丼を食べたことはなかった。母親がたまに料理の手を抜いてお惣菜などを買ってくることがあり、何度か牛丼を食べたことがある程度だった佳代には、牛丼に対して特別な思い入れがあるわけではない。
会社勤めの時期も、お昼は自作のお弁当を食べていたし、残業の時の夕食は、おにぎり屋さんでおにぎりを買ったり、カフェでサンドイッチを買って食べていたので、こういうジャンクフードとは縁遠かった。
それに対して、千里は就職してから1年程度でジャンクフードが定着し、当時はハンバーガーかピザばかりを食べていた。今では親子丼ばかりのようだ。
ある時、仕事で船会社に送った書類に不備があって、納品予定日に商品が届かなかった上、取引先が販売する予定だった会社への納品期日も過ぎてしまったことがあった。千里は上司と共に、取引先とその顧客のもとに出向いて謝罪ししなければならない。
取引先の相手である顧客は、「大丈夫ですよ」、と怒った様子もなく紳士的に対応してくれたが、直接の取引先はカンカンで、取引を打ち切るとまで言い出していた。それを何とかなだめて、謝罪に次ぐ謝罪の末、ようやく許してもらうことができた、とゆっくりとした口調で千里が話す。
その日、午前中に取引先に出向いてさんざん怒られた後、お昼に上司のおごりでトンカツを食べてから、取引先の顧客の会社に行った。自社に戻ったのは15時くらいで、その日にする予定だった仕事は全くの手つかず。取引先で受けたダメージが残っていて、全く仕事がはかどらない。
千里は大学を出てインテリアの輸入販売会社に就職して、今に至っている。大抵は会社の倉庫にある商品や、常時取り扱っている商品のカタログの中から、顧客は商品を選択して注文するのだが、取り扱いのない商品でも可能な限り輸入していた。
その関係で、海外企業にコンタクトする機会があったり、海運会社に輸入のための書類を提出することもある。
当然、普段取引のない海外企業とお金や商品のやり取りをしなければならない。代金を支払ったのに商品が届かないことや、別の商品が届くなどの詐欺被害もまれにある。それを防止するために間に銀行に入ってもらう取引方法があるのだが、それが結構煩雑なのだ。
1文字不備があるだけで書類が止まってしまったりする。海運会社の不備で、その会社の営業担当者が訂正印を持って銀行に行くということも度々起こっているようだ。それが理由で取引先に謝罪の電話を入れることは良くあった。
しかし、今回のミスは、千里が提出した書類の商品名が、実際の商品と違うことに起因していた。その結果、荷物が港で足止めされてしまい、期日に間に合わなかったのだ。
明日にまわしてよい仕事は明日にまわしたが、今日中に終えて海運会社にFAXしなければならない書類などもある。銀行に提出する書類などは不備があってはならず、細心の注意を払って作成しなければならない。
自社の倉庫から配送できる商品にしても、こちらから配送の指示を出さなければ準備されることはないので、取りに来た配送業者に引き渡すこともされない。
大抵の商品は、注文から10日以内に届ける決まりになっているが、多くの注文が重なったりして、余裕を持って倉庫には指示することができず、溜まってしまう仕事もある。
今回は、運悪くそれが重なって発生した惨事だ。今日中に急ぎであることを倉庫に通知し、明日午前中に梱包して、昼に配送業者に引き渡せるようにしなければならない。
夕食も食べるのを忘れるほど、一心不乱に作業を続けた千里がふと気づくと、ほとんどの社員は退社した後だった。自分以外に残っていたのは、営業の男性と経理の女性の2人だけだ。
19時過ぎ、何とか20時台には終わる算段がつくと、急にお腹がぐぅとなりだした。
会社のカギを持っている男性社員に、まだ帰らないことを確認して外に出てみると、普段は見ない闇夜が広がっている。空は真っ暗だったが、コンビニや街灯の光、途切れることなく続く車列のライトで、町はまぶしいくらいだった。
見慣れたはずの風景も、装いが全く異なっている。どこでどう食事をしたらよいものかと、当てもなくキョロキョロしながら歩き始めると、日本中どこでも見る有名な牛丼チェーンの看板が目に飛び込んできた。
別に美味しそうな香りが漂ってきたわけでもない。真っ白な明かりが煌々としている店内は、数人のおやじが殺風景なカウンターに腰かけ、どんぶりをむさぼっているだけ。20代の千里にとっては、全く入店する気も起きなかったのだが、他に食べるところもないし、早く食べられるならと、この店に入った。
特別食べたいものもなかったので、とりあえず牛丼を頼むと、1分もしないうちに湯気が立ち上るアツアツのどんぶりがでてきた。良い香りはするものの、食欲をそそられるようなことはない。
目の前の箸箱から割り箸を取り出すと、隣の醤油さしの横に何かステンレス製の入れ物があることに気付いた。フタを開けると赤々とした紅ショウガが入っていたので、一つまみ分を肉の上にとって、食べ始める。
(なにこれ、おいしい)
このチェーンの牛丼を食べたことがないわけではないし、過去食べ牛丼と味に大きな差があったわけでもなかった。しかし、心の疲労と残業からくる体の疲労に空腹も相まって、格別においしく感じた。
千里がほおばると、舌がやけどするほど熱いご飯には程よく汁がしみている。肉質はざらついていて、お世辞にも良い肉とは言えなかったが、もっちりしたご飯の嚙みごたえと汁が絡まった無抵抗な喉越しが、安っぽい肉質のマイナス感を覆い隠した。
入社して1年程度が経ち、初めて犯した大きなミスだった。その後も今日までに似たようなミスは何度か発生したし、取引先や上司にも怒られ、男性社員に文句を言われた。それでもなお辞めずに続けてこられたのは、そのたびに食べた牛丼のおかげだと、千里は佳代に語って聞かせた。
その日以来、千里は大の牛丼好きとなり、ジャンクな昼食に傾倒していくきっかけとなった。
普段食べるのはほとんど親子丼であったが、仕事で辛いことがあると今でも一人で夜牛丼屋に入るらしい。注文するのは、決まって牛丼と豚汁とビールだそうだ。
普段聞くことのない千里の一面を知って、今まで以上に好きになる佳代であった。
多くの入所者は、ご飯は食べたくない、お腹は空いていない、今テレビを見ているから歯を磨きたくない、さっき何度も磨いた等、多少はおかしな点があるものの、何かしらの理由をつけて拒んでくる。
松本さんの場合、何をやっても上の空で、ブツブツと空を攻撃するようにつぶやいている。それが急に佳代に向けられることもある。またその内容が、全く理解できない言葉の羅列であるにも関わらず、誹謗中傷されているということだけは伝わってくるので、つらくてつらくてしょうがなかった。
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松本さんには、そのように思わせるところが微塵もなく、その言動は自分の存在価値が無いかのように佳代に思わせた。
それでもなお何とか出社できたのは、他の入所者の方々の笑顔が脳裏に浮かんだからだ。自分を頼りにしてくれる方や、普段は痴ほう症で会話にならなくても、ふと気づいたようにお礼を言ってくれる方に、癒してもらいたいとすがるような気持ちがあった。
本来なら、お世話をして癒してあげなければならない立場の佳代であったが、寝ても覚めても休み明けでも、常に悲観にくれるような精神状態だ。それでも、行きたくない気持ちと表裏一体の行きたい気持ちを創作してなんとか湧かせ、家を出た。
まったく何も気持ちを感じなくなってしまってからも、なんとか体は動いている。おじいちゃんおばあちゃんが大好きだと言う気持ちは残っているのか、出社しては癒され、癒された以上に傷ついて帰ってくる。そんな生活が続いた。
千里も佳代の変化に気づいていて、度々電話をくれたり、ポストに手紙やクッキーを入れてくれたり、色々と気を使ってくれた。
「佳代、泊まりに来たよ」
「!!?どうしたの?いきなり」
17時に仕事を終えて18時前に帰宅した佳代に食欲はなく、そのままベッドに臥せっていたところ、ふとチャイムが鳴った。
よたよたと立ち上がって魚眼レンズを覗き込むと、スーツ姿の千里がいた。段々と言葉数も減っていき、電話でもほとんど聞く一方なった佳代を心配して、一晩泊まりに来てくれたのだ。
「どこかに行くの?」
「ううん、お泊りセット、明日ここから会社に行くから」
小さなスーツケースを持っているのを見て、佳代は出張に行くのかと思った。新幹線や空港にいそうなOL姿でやってきた千里が、遠慮なく室内に入ってくる。
「あれぇ?意外に散らかってる。
うちほどじゃないけど、佳代らしくないね」
「うん、かたす時間が無くて」
実際時間がなかったわけではなかったが、心身共に疲弊しきっていて、掃除をする気にもならなかった。
洗い物や洗濯はしていたものの、出したものは片付けず出しっぱなしで積まれている。ベッドも起きた時のままくしゃくしゃになって、掛け布団が半分床に落ちている始末。ペットボトルやジュース缶がガラステーブルの上に置きっぱなしのままで、甘い香りを漂わせている。
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期待した通り牛丼と豚汁が2人分、しかも500mlのビールまであって、千里はニコニコしながら佳代を迎える。おのずと佳代の頬もほころぶ。
「さあ、召し上がれ」
千里のその言葉にお礼を言って、佳代はまず豚汁を手に取りすする。顆粒ダシの濃いめのうまみと味噌の辛さを、豚肉の脂が持つ独特の甘さが包み込んで、口いっぱいに広がる。鶏肉や牛肉では出せない優しい味だ。それが喉の奥を通ると、ゴボウの香りと味が鼻に通って、安らぎを覚える。
千里が言った。
「豚汁は日本人のソウルフードだよね」
「ほんと、ほんと」
一口飲んでホッと一息ついた佳代に相槌を打ち、千里は牛丼の思い出話を始めた。
学生時代に、二人で牛丼を食べたことはなかった。母親がたまに料理の手を抜いてお惣菜などを買ってくることがあり、何度か牛丼を食べたことがある程度だった佳代には、牛丼に対して特別な思い入れがあるわけではない。
会社勤めの時期も、お昼は自作のお弁当を食べていたし、残業の時の夕食は、おにぎり屋さんでおにぎりを買ったり、カフェでサンドイッチを買って食べていたので、こういうジャンクフードとは縁遠かった。
それに対して、千里は就職してから1年程度でジャンクフードが定着し、当時はハンバーガーかピザばかりを食べていた。今では親子丼ばかりのようだ。
ある時、仕事で船会社に送った書類に不備があって、納品予定日に商品が届かなかった上、取引先が販売する予定だった会社への納品期日も過ぎてしまったことがあった。千里は上司と共に、取引先とその顧客のもとに出向いて謝罪ししなければならない。
取引先の相手である顧客は、「大丈夫ですよ」、と怒った様子もなく紳士的に対応してくれたが、直接の取引先はカンカンで、取引を打ち切るとまで言い出していた。それを何とかなだめて、謝罪に次ぐ謝罪の末、ようやく許してもらうことができた、とゆっくりとした口調で千里が話す。
その日、午前中に取引先に出向いてさんざん怒られた後、お昼に上司のおごりでトンカツを食べてから、取引先の顧客の会社に行った。自社に戻ったのは15時くらいで、その日にする予定だった仕事は全くの手つかず。取引先で受けたダメージが残っていて、全く仕事がはかどらない。
千里は大学を出てインテリアの輸入販売会社に就職して、今に至っている。大抵は会社の倉庫にある商品や、常時取り扱っている商品のカタログの中から、顧客は商品を選択して注文するのだが、取り扱いのない商品でも可能な限り輸入していた。
その関係で、海外企業にコンタクトする機会があったり、海運会社に輸入のための書類を提出することもある。
当然、普段取引のない海外企業とお金や商品のやり取りをしなければならない。代金を支払ったのに商品が届かないことや、別の商品が届くなどの詐欺被害もまれにある。それを防止するために間に銀行に入ってもらう取引方法があるのだが、それが結構煩雑なのだ。
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しかし、今回のミスは、千里が提出した書類の商品名が、実際の商品と違うことに起因していた。その結果、荷物が港で足止めされてしまい、期日に間に合わなかったのだ。
明日にまわしてよい仕事は明日にまわしたが、今日中に終えて海運会社にFAXしなければならない書類などもある。銀行に提出する書類などは不備があってはならず、細心の注意を払って作成しなければならない。
自社の倉庫から配送できる商品にしても、こちらから配送の指示を出さなければ準備されることはないので、取りに来た配送業者に引き渡すこともされない。
大抵の商品は、注文から10日以内に届ける決まりになっているが、多くの注文が重なったりして、余裕を持って倉庫には指示することができず、溜まってしまう仕事もある。
今回は、運悪くそれが重なって発生した惨事だ。今日中に急ぎであることを倉庫に通知し、明日午前中に梱包して、昼に配送業者に引き渡せるようにしなければならない。
夕食も食べるのを忘れるほど、一心不乱に作業を続けた千里がふと気づくと、ほとんどの社員は退社した後だった。自分以外に残っていたのは、営業の男性と経理の女性の2人だけだ。
19時過ぎ、何とか20時台には終わる算段がつくと、急にお腹がぐぅとなりだした。
会社のカギを持っている男性社員に、まだ帰らないことを確認して外に出てみると、普段は見ない闇夜が広がっている。空は真っ暗だったが、コンビニや街灯の光、途切れることなく続く車列のライトで、町はまぶしいくらいだった。
見慣れたはずの風景も、装いが全く異なっている。どこでどう食事をしたらよいものかと、当てもなくキョロキョロしながら歩き始めると、日本中どこでも見る有名な牛丼チェーンの看板が目に飛び込んできた。
別に美味しそうな香りが漂ってきたわけでもない。真っ白な明かりが煌々としている店内は、数人のおやじが殺風景なカウンターに腰かけ、どんぶりをむさぼっているだけ。20代の千里にとっては、全く入店する気も起きなかったのだが、他に食べるところもないし、早く食べられるならと、この店に入った。
特別食べたいものもなかったので、とりあえず牛丼を頼むと、1分もしないうちに湯気が立ち上るアツアツのどんぶりがでてきた。良い香りはするものの、食欲をそそられるようなことはない。
目の前の箸箱から割り箸を取り出すと、隣の醤油さしの横に何かステンレス製の入れ物があることに気付いた。フタを開けると赤々とした紅ショウガが入っていたので、一つまみ分を肉の上にとって、食べ始める。
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入社して1年程度が経ち、初めて犯した大きなミスだった。その後も今日までに似たようなミスは何度か発生したし、取引先や上司にも怒られ、男性社員に文句を言われた。それでもなお辞めずに続けてこられたのは、そのたびに食べた牛丼のおかげだと、千里は佳代に語って聞かせた。
その日以来、千里は大の牛丼好きとなり、ジャンクな昼食に傾倒していくきっかけとなった。
普段食べるのはほとんど親子丼であったが、仕事で辛いことがあると今でも一人で夜牛丼屋に入るらしい。注文するのは、決まって牛丼と豚汁とビールだそうだ。
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