6 / 40
夫としても父親としても劣る男
しおりを挟む
家事がつらいと胸の内を明かす陽子は、疲れ切っていた。その事に気が付いた真一は愕然としたが、どうする事も出来なかった。唐突過ぎたし、自分の無力な様が情けない。だが、男としてそう思われることは堪えがたかった。そのため、真一は内心陽子に逆ギレをしていた。
優しい男だったから、赴くままに感情を露わにはしなかったが、助けを乞う陽子の悲痛な訴えに応える事は出来ない。家事を一切経験してこなかった老いた男が妻を失った時のなれの果ては、本当に見るも絶えないと聞いたことがあったが、まだ20代終わりの真一も変わりなかった。
陽子は聡明な女性だったから、追い詰められた自分の立場が、真一のせいでない事は重々承知していたが、目指した理想へ向かうために乗り越えなければならない困難は、2人で乗り越えるものだと信じていた。
それが割れ散らばった時、1人で部屋に閉じこもって出てこなくなった。真一は優しさからそっとしておいたつもりであったが、陽子にはそれが離れてしまった心の距離だと感じる。
真一は陽子を愛していたし、陽子も一時愛を忘れてしまっているだけで、完全に消失したわけではない。しかし、この時の彼女には、真一の愛はもはや失ったのだと思えたし、真一も妻は自分を愛していないと思った。
そう思った時から、夫は他の男と比べてとても見劣りするようになり、この結婚は失敗だった、私は人生を無駄に過ごしてしまったと考えるようになる。
専業主婦でなかった事が幸いした。少なくとも最低限の生活を維持する収入はあるから、夫のお金に頼って離婚を思いとどまらなくても自活できるとの自信がある。2度の会社勤めのお陰で、盲目にならずに済んだと、ホッと胸を撫で下ろしていた。
しかし、陽子は気が付いていなかった。家庭に対しては盲目になっていたのだ。結婚した時、2人は東京に住んでいた。真一は東京に住み続ける事を望んだが、もし子供が生まれたら田舎でのびのびと生活させてやりたいと願う彼女の為に、勤めていた会社を辞めて、故郷に戻ってきた。
陽子は生まれも育ちも東京だ。地元の大学に通っていたから、旅行以外で田舎に接する機会無く過ごしてきた。田舎への憧れもあったが、付き合っていた時に2人で訪れた秋の龍神大吊り橋の美しさに魅了されて、どうしてもその橋を擁する常陸太田に住みたかった。
2人の新居となった1Rよりも夫の実家の方が大吊り橋に近かったが、家の周りは田んぼばかりで、その向こうには山しか無い。新しい勤め先が水戸市であったこともあり、通勤に便利な駅の近くに落ち着くことになった。
真一は転職にも引っ越しにも前向きではなかったが、愛する新妻の願いを叶えてやろうと頑張った。職場は望んだ仕事ではなかったし、通勤も面倒に感じている。東京のように何でもそろった繁華街があるわけではない。水戸市は発展していたが、やはり渋谷や銀座の様に、若者や大人を魅了する圧倒的な力はなかった。
東京人が東京タワーに行った事が無いように、真一も城跡や庭園などに行った事はなかったが、いつでも行けるという環境が、すでに見慣れた風景と錯覚させる。
駅の近くの大きな湖のほとりを、赤ん坊を抱いて散歩する陽子の姿は、光を反射する湖面を背景にした美しい油絵の様であった。
駅から歩いていける範囲に、庭園と湖と藩校があるなんて、陽子にとっては夢のような世界だ。引っ越してきてから初めて水戸市でデートした時、いつか子供が生まれたら、毎週水戸市をお散歩するのだと笑って言っていて、実際そうした。2006年にみのるが生まれて、4歳まで続く。
最後のお出かけの翌日、部屋の荒れようは今に至る片鱗を既に見せていた。真一は、最初妻がしていた様に家事をこなそうとしたが、目玉焼きも満足に焼けず、ウインナーはバターで炒める事すらせずに出した。トーストとミルクを付けたが、サラダは無い。
その日の食器は翌日まで洗われる事無く放置され、前日出された洗濯物は、廊下に放置され、その上に翌日分が積まれた。風呂に脱衣所は無かったので、衣服の着脱はもっぱら廊下で行われていたのだ。
3日目の朝に洗濯機をまわしたが、洗い終わった衣服は翌日まで放置され、干すとすぐに生乾き臭を発した。
母親がいない理由を何度も真一に問うみのるであったが、別れがあったわけでもないので、まさか帰ってこないとは思わない。だが、会えない寂しさは日増しに募って行き、夜な夜な涙で枕を濡らすようになった。
それに気付いていた真一は、なんとか気を紛らわせてやろうと、みのるを実家に連れて行ったり、豪華客船で行われるヒーローショーに連れて行ったりした。
特にヒーローショーは大当たりだ。たまたま甲板で出くわしたレッドに駆け寄ったみのるは、ドキドキしながら、買ってもらった5人組みのヒーローがプリントされた色紙位の厚紙を差し出し、サインをねだった。
真一は、断られることを心配したが、サインをお願いされることを想定しているようだ。サインペンを持っていたレッドは、心よく大きなサインをしてくれた。そしてそれは、数年に渡って、みのるの宝物として、額縁に飾られることになる。
父親がとても気を使ってくれることが、母親に関する事は禁句であるとみのるに思わせた。失敗した料理を口にしてうな垂れる表情や、部屋の汚さにため息をつく姿を見ると、みのるは何も言えない。
ハッキリと考えていたわけではなかったが、お父さんまで何処かに行ってしまうと怯えていた。
真一は、とても楽しそうに遊ぶみのるに満足していた。実際のみのるは必死だった。一生懸命遊んでいないと、母親の事を思い出して、とても悲しくなることを分かっていたからだ。
不意に襲われる悲しみは、頭が悲しみだと認識する以前に、涙が溢れるほど唐突にやって来る。友達ととても楽しく遊んでいても、気を抜くと泣いてしまいそうな感情の変化に襲われるのだ。
家庭環境の悪化は、段々とみのるの心をマヒさせていく。それでもみのるの精神が蝕まれず済んだのは、不器用であるものの父性愛が注がれたお陰だ。両親が喧嘩別れでないことも幸いした。2人が喧嘩をしている所はただの1度も見たことは無い。一緒にいるところを見た最後の時まで、仲睦まじかった。まさに子は鎹だ。
教育と食育は犠牲になったが、離婚前よりもお出かけ回数が増えたため、心のある一面においては、とても豊かに育まれた。
優しい男だったから、赴くままに感情を露わにはしなかったが、助けを乞う陽子の悲痛な訴えに応える事は出来ない。家事を一切経験してこなかった老いた男が妻を失った時のなれの果ては、本当に見るも絶えないと聞いたことがあったが、まだ20代終わりの真一も変わりなかった。
陽子は聡明な女性だったから、追い詰められた自分の立場が、真一のせいでない事は重々承知していたが、目指した理想へ向かうために乗り越えなければならない困難は、2人で乗り越えるものだと信じていた。
それが割れ散らばった時、1人で部屋に閉じこもって出てこなくなった。真一は優しさからそっとしておいたつもりであったが、陽子にはそれが離れてしまった心の距離だと感じる。
真一は陽子を愛していたし、陽子も一時愛を忘れてしまっているだけで、完全に消失したわけではない。しかし、この時の彼女には、真一の愛はもはや失ったのだと思えたし、真一も妻は自分を愛していないと思った。
そう思った時から、夫は他の男と比べてとても見劣りするようになり、この結婚は失敗だった、私は人生を無駄に過ごしてしまったと考えるようになる。
専業主婦でなかった事が幸いした。少なくとも最低限の生活を維持する収入はあるから、夫のお金に頼って離婚を思いとどまらなくても自活できるとの自信がある。2度の会社勤めのお陰で、盲目にならずに済んだと、ホッと胸を撫で下ろしていた。
しかし、陽子は気が付いていなかった。家庭に対しては盲目になっていたのだ。結婚した時、2人は東京に住んでいた。真一は東京に住み続ける事を望んだが、もし子供が生まれたら田舎でのびのびと生活させてやりたいと願う彼女の為に、勤めていた会社を辞めて、故郷に戻ってきた。
陽子は生まれも育ちも東京だ。地元の大学に通っていたから、旅行以外で田舎に接する機会無く過ごしてきた。田舎への憧れもあったが、付き合っていた時に2人で訪れた秋の龍神大吊り橋の美しさに魅了されて、どうしてもその橋を擁する常陸太田に住みたかった。
2人の新居となった1Rよりも夫の実家の方が大吊り橋に近かったが、家の周りは田んぼばかりで、その向こうには山しか無い。新しい勤め先が水戸市であったこともあり、通勤に便利な駅の近くに落ち着くことになった。
真一は転職にも引っ越しにも前向きではなかったが、愛する新妻の願いを叶えてやろうと頑張った。職場は望んだ仕事ではなかったし、通勤も面倒に感じている。東京のように何でもそろった繁華街があるわけではない。水戸市は発展していたが、やはり渋谷や銀座の様に、若者や大人を魅了する圧倒的な力はなかった。
東京人が東京タワーに行った事が無いように、真一も城跡や庭園などに行った事はなかったが、いつでも行けるという環境が、すでに見慣れた風景と錯覚させる。
駅の近くの大きな湖のほとりを、赤ん坊を抱いて散歩する陽子の姿は、光を反射する湖面を背景にした美しい油絵の様であった。
駅から歩いていける範囲に、庭園と湖と藩校があるなんて、陽子にとっては夢のような世界だ。引っ越してきてから初めて水戸市でデートした時、いつか子供が生まれたら、毎週水戸市をお散歩するのだと笑って言っていて、実際そうした。2006年にみのるが生まれて、4歳まで続く。
最後のお出かけの翌日、部屋の荒れようは今に至る片鱗を既に見せていた。真一は、最初妻がしていた様に家事をこなそうとしたが、目玉焼きも満足に焼けず、ウインナーはバターで炒める事すらせずに出した。トーストとミルクを付けたが、サラダは無い。
その日の食器は翌日まで洗われる事無く放置され、前日出された洗濯物は、廊下に放置され、その上に翌日分が積まれた。風呂に脱衣所は無かったので、衣服の着脱はもっぱら廊下で行われていたのだ。
3日目の朝に洗濯機をまわしたが、洗い終わった衣服は翌日まで放置され、干すとすぐに生乾き臭を発した。
母親がいない理由を何度も真一に問うみのるであったが、別れがあったわけでもないので、まさか帰ってこないとは思わない。だが、会えない寂しさは日増しに募って行き、夜な夜な涙で枕を濡らすようになった。
それに気付いていた真一は、なんとか気を紛らわせてやろうと、みのるを実家に連れて行ったり、豪華客船で行われるヒーローショーに連れて行ったりした。
特にヒーローショーは大当たりだ。たまたま甲板で出くわしたレッドに駆け寄ったみのるは、ドキドキしながら、買ってもらった5人組みのヒーローがプリントされた色紙位の厚紙を差し出し、サインをねだった。
真一は、断られることを心配したが、サインをお願いされることを想定しているようだ。サインペンを持っていたレッドは、心よく大きなサインをしてくれた。そしてそれは、数年に渡って、みのるの宝物として、額縁に飾られることになる。
父親がとても気を使ってくれることが、母親に関する事は禁句であるとみのるに思わせた。失敗した料理を口にしてうな垂れる表情や、部屋の汚さにため息をつく姿を見ると、みのるは何も言えない。
ハッキリと考えていたわけではなかったが、お父さんまで何処かに行ってしまうと怯えていた。
真一は、とても楽しそうに遊ぶみのるに満足していた。実際のみのるは必死だった。一生懸命遊んでいないと、母親の事を思い出して、とても悲しくなることを分かっていたからだ。
不意に襲われる悲しみは、頭が悲しみだと認識する以前に、涙が溢れるほど唐突にやって来る。友達ととても楽しく遊んでいても、気を抜くと泣いてしまいそうな感情の変化に襲われるのだ。
家庭環境の悪化は、段々とみのるの心をマヒさせていく。それでもみのるの精神が蝕まれず済んだのは、不器用であるものの父性愛が注がれたお陰だ。両親が喧嘩別れでないことも幸いした。2人が喧嘩をしている所はただの1度も見たことは無い。一緒にいるところを見た最後の時まで、仲睦まじかった。まさに子は鎹だ。
教育と食育は犠牲になったが、離婚前よりもお出かけ回数が増えたため、心のある一面においては、とても豊かに育まれた。
0
あなたにおすすめの小説
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
現代文学
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる