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白鳥碧
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やっと手に届くと思うと離れる。僕、白鳥 碧と年上の幼馴染みの伊藤 英雄はまるで蠍座とオリオンのよう……とうとう就職先の高校まで追いかけて入学してしまった。今度こそ、天文部への入部届けを握りしめ心に誓った。息を整えて向かう先は職員室。
「お願いします。」
長年の思い人を前に少し震えている手に……僕に気づいただろうか?目の前にいる彼を見上げる。柔らかな笑顔を向け……。
「天文部へようこそ歓迎するよ。私は、顧問の伊藤 英雄です。幽霊部員も多いけど、機材はあるので楽しめると思います。この連絡ツールに登録したら活動予定が配布されるから後で見て登録して下さいね。」
僕を初めて見るような態度で生徒として受け入れた彼。幼馴染みとしての僕を完全にシャットアウトされて、心を打ち砕かれた高校一年生の僕。
年齢、性別、立場……沢山の物を僕の前に壁のように出してやんわりと僕を拒否する。嫌悪感を露にされ拒否され切り捨てられるのと、柔らかく真綿で首を絞められるように優しくされながら、彼の結婚や恋人ができる絶望までのカウントダウンを待つのとどちらが残酷なのだろうか。ずるずると諦めきれない僕は二年生になった。
一年生に向けての部活紹介当日、体調不良で休んだ部長代理で部活紹介を急遽任されることになった僕は、緊張の中なんとか任務達成できたことに、ホッとして壇上から降りて責務から解放されるはずだった。
突然駆け寄ってきた一年生が、全一年生と三年の部長たちが揃う体育館で、どでかい声で僕に公開告白をしてきたことで、場は別の緊張感に包まれた。
「俺は、香取 謙一と言います!あなたに一目惚れしました!付き合ってください。」
「……いや。僕ずっと好きな人がいるから無理ですごめんなさい。」
頭を下げて手を差し出す香取に、なんとか断りの文句を絞り出す。手をとられて何か紙を握らされた。天文部への入部届けだった。
「入部は歓迎するよ香取君。これからよろしくね。」
軽く握手を交わす。俺の声が届かない範囲に居る人に、その行動がどう思われるかも考えもせずに迂闊な行動をした僕は、翌日から後悔することになった。
噂は電光石火。翌日に登校すると、僕はイケメン一年生香取からの熱い公開告白を手をとり喜んでOKした事になっていた。男同士というカテゴリーへの理解が難しそうな共学高校でありながら、何故かその噂はお祭りのように歓迎されていて、理解が追い付かない。
だけど、現実の忙しさは待ってくれない。卒業生のための観測会準備として、部室から屋上への持ち出し物品リストや新たな購入リストを纏めて、あの時に受け取った入部届けも持って顧問の英くんのところに向かう足取りは重い。彼もこの噂を知っているだろうか……職員には、お断りの声が聞こえていたと思いたい。
「先生これ、屋上観測会の使用物品と入部届けです。」
彼の手に渡すと、指先が手に少し触れるそれだけで嬉しくなる。
「あぁ。部活紹介の時の……。香取からは、別途提出があったので、それは手元に置いておくものでは?裏にプライベートIDも書いてあるみたいですよ。」
トントンと彼が指で叩く部分には、確かにメッセージアプリのIDらしきものが書かれていた。
「お断りした僕には関係ないことですから、では。」
心に大きなトゲが刺さった気分、彼に書類を押し付けて職員室を出て駆け出す。走って走って施錠されたドアの手前、屋上の踊り場で足を抱えて小さくなる。自分の心臓の音が聞こえて少し落ち着く。スラックスの膝がため息と溢れる涙で黒を濃くする。授業が始まってしまう、いつまでも泣いてはいられないので顔を洗う。酷い顔を鏡で確認して、保健室で一時間目を過ごすことにした。
「頭痛」と言い訳をして保健室を訪ねた。泣き腫らした僕を見た保健室の仲嶋先生に、泣くほど頭痛が酷いなら後日病院に行った方がよいと心配をされた。慌てて泣いたのは別件だと話したら仲嶋先生は、たれ目気味な目を細めて薄い唇に指をあてながら内緒のポーズをして、軽く僕の頭を撫でて一時間目だけ目を冷やして休むといいよ。と保健室で休むことを許してくれた。
英くんにふわりと頭を撫でられ、おでこにキスをされる……夢を見た。優秀な僕の夢は、彼の愛用香水の香りまで再現していた。
「目覚めたかな?ちょうど一時間目終わったよ。目の腫れも治まってるし、無理しないようにね。」
仲嶋先生にドアまで送られ、お礼を言い保健室から出ると目の前には息を切らした後輩香取がいた。
「教室行ったら体調悪くて保健室にいるって聞いたから俺!」
「ごめんね香取君。授業遅れるから話してる暇がなくて、今日は部活行かないで帰るから三年の先輩たちに色々聞いてね。」
「俺、あなたに迷惑かけるつもりはなくて……噂はちゃんと違うって皆に伝えるので……。でも諦めませんからっ。お大事にっ」
少し汗をかいて外側の濡れたスポーツドリンクを押し付けて香取は走って去っていった。開いたままのドアから一部始終を見ていた仲嶋先生は、青春だねと笑っていた。
香取が僕にフられたと話してまわっているらしく、付き合っている噂は終息していった。代わりにイケメンに好かれた可愛い男として不本意に有名になってしまい、休み時間に姿を確認しに来られたり、罰ゲームか本気か告白してくる男子が増え、女子には香取をおすすめされる日々となり頭を悩まされることになった。
先輩たち最後の観測会が近づいていた。実質自分だけの二年が主導する初めての計画書の最終チェックが通り、ホッとしながら部室に向かう廊下。後ろから目隠しをされた。
「だーれだ?」
「香取だろ?」
「すぐわかるなんて、愛の力ですね。」
馬鹿なことを言って笑うのは、やはり香取。爽やかイケメンにこんな事をされてときめくなと言う方が無理がある。いつも無駄にドキドキさせられている気がする。近い距離感で、何故か英くんと同じ香水の気配を感じる。
バタバタしている間に夏休み目前、観測会の日がやって来た。同学年はほぼ幽霊部員のため、今年入部したばかりの香取と、香取と僕を応援するため?に入部してきたらしい変わり者の尼崎さんと増田さんにも手伝ってもらい、なんとか観測会のセッティングが出来た。
安全への配慮で、今は屋上は常に施錠されている。放課後にパート練習として許可をもらった吹奏楽部も使えるのは昼間だけ。夜の屋上は僕たち天文部だけの特権だ。日が沈み夜の少しだけ涼しい風を感じながら小さな笑いが漏れる。
「晴れて良かったな。白鳥準備頑張ったな。」
英くんの大きな手が僕の頭を撫でる。それだけで幸せな気分になる。
「俺たちも頑張りましたけど?」
香取が拗ねたような口調で割って入ってきた。そちらを見ながら、英くんがにこやかに大きめの紙袋を取り出す。
「仕方ないな。頑張った君たちにご褒美だよ。」
簡易テーブルの上に、彼が紙袋からバラバラと音をたてて広げたものは、星の形を模した様々なお菓子たち。空も地上も星でいっぱいだ。
「他の二年がいない中、たった一人で特別頑張った白鳥には、更にこれをあげよう。」
僕の手の平には星形の琥珀糖……。水無月堂の琥珀糖「星華」は小さい頃から僕の大好物だ。英くん覚えていてくれた……胸がぎゅっと締め付けられる。ペルセウス座流星群を見上げる彼の横顔は、琥珀糖の甘さと共に僕の心に刻み込まれた。
先輩が引退すると、二年の実質活動部員は僕しかいなくなって自動的に部長になることが決定した。幽霊部員を副部長にするわけにもいかず先輩が悩んでいるところに、香取が
「一年だとだめとか無いなら、俺がやりたいです。」
「お前、本当に白鳥が好きなんだなぁ。俺はいいけど皆はどうだ?」
西城部長が皆に同意を求めた結果満場一致で、呆然とした僕を取り残して副部長が香取に決まった。後片付けは、三年生は本来ならしなくてよいのだけど……
「最後だからな。」
西城部長が少し寂しそうな顔を見せた気がしたが、いつもの明るさで皆をやる気にさせてあっという間に後片付けが終わった。
解散直後に西城部長が、僕の手をとり耳打ちしてきた。
「俺は、白鳥お前のことをずっと好きだったよ。好きな人がいるのは知っている。白鳥の幸せを応援しているけど、今日思いだけは伝えたかったんだ。学内で会っても避けたりしないでくれよ。」
頼りになる部長だった。実質たった一人の後輩だった僕は、それはそれは甘やかされていた。英くんが僕の心に居なければ西城部長を好きになったかもしれないと思ったことは一度や二度ではなかった。失恋するとわかっていても告白してくれたこと、僕の幸せを本当に願ってくれたことが嬉しくて涙が出てきた。
「仕方ないな。白鳥はそんなに俺と別れるのが寂しいか。」
西城部長はわざと大きな声を出して僕を抱き締めて背中を撫でた。
「お前はきっと幸せになれるよ。白鳥が選んでくれるなら、俺がかっさらってやるからいつでも呼べばいい。」
そっと囁いて、背中をぽんぽんとして先輩は鞄をごそごそして新しそうな紺色のタオルハンカチを渡してきた。
「やるよ。」
元々西城部長が俺に贈り物として渡すつもりだったこのイニシャルと星座の刺繍入りタオルハンカチを、鞄の中で包装紙から出してさも有りモノのようにスマートに渡してくれたことは、数年後酔った西城部長が語るまで僕が気づくこともなかった。
引退観測会の後は、ペルセウス座流星群極大になる八月のの観測会がある。先輩たちも本来ならこちらに参加したかったようだが、受験や就職等多忙になる日々に備えるために引退は七月。と、担任と親から釘を刺され諦めるしかなかった。いつか皆でOBになった頃に集まって観測会が出来たらいいのにな……
ペルセウス座流星群極大の観測会は、天気にも恵まれて大成功を納めた。香取が優秀で気が利くので、僕はあまり役に立たなかった気すらする。あっという間に終わった片付けの後、屋上の床に座りながら一人で脳内反省会をしているとふと横に来た香取が……
「部長は、監督と指示が仕事ですから、割り振ってくれたから動けただけですよ。俺だけでやったわけでもない。俺が頑張れたのは、白鳥先輩への愛のお陰ですけどね。」
隙あらばこんな雰囲気でぐいぐいこられるので優秀だけど扱いには困っている。誰からも羨まれるこんな男に求められてもなお、僕の心は英くんにあり、それは変わらないと思っていた。
「うっそ!伊藤先生が?」
夏休み明けのある日廊下で、女子の噂話に聞こえてきた彼の名前に耳が反応する。
「再来年の春?結婚するって噂なんだよね。」
「相手は美枝先生かな?お似合いだもんね美男美女!」
目の前が真っ暗になった気分がして、ふらふらとその場を立ち去る。保健室には誰も居なかったので仲嶋先生に「休ませてください。」と、メモだけを残して布団に横になる。分かっていたことだ、いずれ彼が結婚してしまうことなんて……今まで結婚していなかったことが奇跡なのだから。彼に断られながらも、執着して贅沢にも側に居たいと願った僕への罰なんだろうか。
僕の夢の中で彼は、いつも優しく頭を撫でておでこにキスをくれる。今日は頬を撫でてくれる、嬉しくて手にすり寄ると彼の手が少し止まってまた動き出す。首を触られると擽ったい……
ぼんやりと目が覚めると……人の話し声が聞こえる。
「……だめだよ。調子悪くて寝ている子いるから……」
「少しだけ補充させて?」
「ダメだって言っ……」
仲嶋先生の言葉は遮られて、代わりに甘い声が控えめに漏れ聞こえ……長い長い水音の後にちゅっとリップ音が静かな部屋に響いた。未経験な僕だって二人が深いキスをしていたのくらいは分かった。
「愛してるよ瑞希。」
「俺だって愛してる。……でも職場はダメだ、英雄。」
ずっと大好きだった英くんの声を僕が聞き間違えるはずもない。彼は、仲嶋先生とそういう仲なんだ。僕は布団の中で息を殺して、英くんが保健室から去るのを待った。仲嶋先生がカーテンを開けて様子を伺って、安堵のため息をついて保健室から出ていった。
布団から顔をだし、寝たふりを続けているとまた眠気がきて……また残酷な夢を見る。好きだよって何度も撫でてくる。さっき仲嶋先生にキスしたその口でそんな嘘を言うのか、「嘘つき」……涙が流れる。嘘じゃないよ、俺はあなたが好きだよ。英くんは、俺なんて言わないよ?あなた?そんな呼び方もしない……この優しい手は誰なの?手に頬擦りすると暖かい体温を感じる。俺なら泣かせないのに……ぎゅっと抱き締められた。リアルな夢か現実か重い瞼は上がらない。
目が覚めると、仲嶋先生が心配そうに覗きこんでいた。
「白鳥くん大丈夫?留守にしてる間に保健室に来た子がいるみたいだけど話しとかした?泣いてるみたい、涙の跡があるよ?」
「……大丈夫。ずっと寝てました……から。悪い夢……見たみたい。」
矢継ぎ早に質問される。ボロを出して、二人のキスに気付いたことを知られたくない。今は先生と目を合わせるのも辛い。お礼を言って保健室を出て教室に戻ると机の上に、汗をかいたスポーツドリンクと少し文字が滲んだメモ。
『熱中症の初期は、頭痛があるみたいですよ。―香取―』
少し温くなったスポーツドリンクを口にする。置いてくれたであろう優しい人を感じて、萎びた心に少しずつ浸透してくる温い液体の心地好さにまた涙が出そうになる。
好きな人がいるならそういってくれたら良かったのに……と思ったけど、前の僕なら相手の事をしつこく聞いただろう。僕が知ってどう行動するかで、仲嶋先生に不利益が起こる可能性が十分にあった。彼を守れなくなるかもしれないと思ってずっと曖昧にはぐらかされていたんだ、幼馴染みとしても避けられてきたのは恋愛感情を持った僕を仲嶋先生から遠ざけるため……とこの状況になってストンと心に落ちてきた。
やっと踏ん切りがついて、英くんを伊藤先生として見ることが出来るようになった。蠍座とオリオン座のように、同じ夜空に存在しながらもすれ違いの僕たちは、僕が彼への恋を諦めた事で先生と生徒で幼馴染みにようやく戻れた。彼がやっと前のように笑ってくれたのが嬉しかった。
そして今、僕は決断を迫られている。早めに受験が終わった西城先輩と香取両方からオリオン座流星群を見に出掛けようと誘われていて、お互いに相手が誘っている事は知っているらしい。三人で一緒じゃダメなのか聞いたら二人とも答えに詰まって下を向いた。三人ならお弁当を作ってもいいと言うと、二人とも三人でいくことに同意した。食べ物で釣られるなんて食い意地の張った二人だ。
「弁当作ってくれるなら、白鳥の交通費と泊まりのお金は俺たちが出すから。」
「泊まり?」
「少し山合の透明ドーム型グランピングテント借りようと思っているんだ。……少し狭いみたいだけど。」
Insotagramのおしゃれキャンプ特集で見たことがある!森の中に大きなシャボン玉があるみたいでとっても美しかった。しかも、寝る直前まで星空に包まれているなんて最高だ。喜びすぎて最後の方の話を聞き逃した僕は、当日ダブルベッドで二人に挟まれ撫で回されながら寝ることになり、なんか思っていたのと違うと思ったのだった。
来年の夏のペルセウス座流星群極大時期には、OBの皆で来ようと話したら部屋割りのことで二人がまた喧嘩をしていた。来年の話なのにせっかちだな。
「お願いします。」
長年の思い人を前に少し震えている手に……僕に気づいただろうか?目の前にいる彼を見上げる。柔らかな笑顔を向け……。
「天文部へようこそ歓迎するよ。私は、顧問の伊藤 英雄です。幽霊部員も多いけど、機材はあるので楽しめると思います。この連絡ツールに登録したら活動予定が配布されるから後で見て登録して下さいね。」
僕を初めて見るような態度で生徒として受け入れた彼。幼馴染みとしての僕を完全にシャットアウトされて、心を打ち砕かれた高校一年生の僕。
年齢、性別、立場……沢山の物を僕の前に壁のように出してやんわりと僕を拒否する。嫌悪感を露にされ拒否され切り捨てられるのと、柔らかく真綿で首を絞められるように優しくされながら、彼の結婚や恋人ができる絶望までのカウントダウンを待つのとどちらが残酷なのだろうか。ずるずると諦めきれない僕は二年生になった。
一年生に向けての部活紹介当日、体調不良で休んだ部長代理で部活紹介を急遽任されることになった僕は、緊張の中なんとか任務達成できたことに、ホッとして壇上から降りて責務から解放されるはずだった。
突然駆け寄ってきた一年生が、全一年生と三年の部長たちが揃う体育館で、どでかい声で僕に公開告白をしてきたことで、場は別の緊張感に包まれた。
「俺は、香取 謙一と言います!あなたに一目惚れしました!付き合ってください。」
「……いや。僕ずっと好きな人がいるから無理ですごめんなさい。」
頭を下げて手を差し出す香取に、なんとか断りの文句を絞り出す。手をとられて何か紙を握らされた。天文部への入部届けだった。
「入部は歓迎するよ香取君。これからよろしくね。」
軽く握手を交わす。俺の声が届かない範囲に居る人に、その行動がどう思われるかも考えもせずに迂闊な行動をした僕は、翌日から後悔することになった。
噂は電光石火。翌日に登校すると、僕はイケメン一年生香取からの熱い公開告白を手をとり喜んでOKした事になっていた。男同士というカテゴリーへの理解が難しそうな共学高校でありながら、何故かその噂はお祭りのように歓迎されていて、理解が追い付かない。
だけど、現実の忙しさは待ってくれない。卒業生のための観測会準備として、部室から屋上への持ち出し物品リストや新たな購入リストを纏めて、あの時に受け取った入部届けも持って顧問の英くんのところに向かう足取りは重い。彼もこの噂を知っているだろうか……職員には、お断りの声が聞こえていたと思いたい。
「先生これ、屋上観測会の使用物品と入部届けです。」
彼の手に渡すと、指先が手に少し触れるそれだけで嬉しくなる。
「あぁ。部活紹介の時の……。香取からは、別途提出があったので、それは手元に置いておくものでは?裏にプライベートIDも書いてあるみたいですよ。」
トントンと彼が指で叩く部分には、確かにメッセージアプリのIDらしきものが書かれていた。
「お断りした僕には関係ないことですから、では。」
心に大きなトゲが刺さった気分、彼に書類を押し付けて職員室を出て駆け出す。走って走って施錠されたドアの手前、屋上の踊り場で足を抱えて小さくなる。自分の心臓の音が聞こえて少し落ち着く。スラックスの膝がため息と溢れる涙で黒を濃くする。授業が始まってしまう、いつまでも泣いてはいられないので顔を洗う。酷い顔を鏡で確認して、保健室で一時間目を過ごすことにした。
「頭痛」と言い訳をして保健室を訪ねた。泣き腫らした僕を見た保健室の仲嶋先生に、泣くほど頭痛が酷いなら後日病院に行った方がよいと心配をされた。慌てて泣いたのは別件だと話したら仲嶋先生は、たれ目気味な目を細めて薄い唇に指をあてながら内緒のポーズをして、軽く僕の頭を撫でて一時間目だけ目を冷やして休むといいよ。と保健室で休むことを許してくれた。
英くんにふわりと頭を撫でられ、おでこにキスをされる……夢を見た。優秀な僕の夢は、彼の愛用香水の香りまで再現していた。
「目覚めたかな?ちょうど一時間目終わったよ。目の腫れも治まってるし、無理しないようにね。」
仲嶋先生にドアまで送られ、お礼を言い保健室から出ると目の前には息を切らした後輩香取がいた。
「教室行ったら体調悪くて保健室にいるって聞いたから俺!」
「ごめんね香取君。授業遅れるから話してる暇がなくて、今日は部活行かないで帰るから三年の先輩たちに色々聞いてね。」
「俺、あなたに迷惑かけるつもりはなくて……噂はちゃんと違うって皆に伝えるので……。でも諦めませんからっ。お大事にっ」
少し汗をかいて外側の濡れたスポーツドリンクを押し付けて香取は走って去っていった。開いたままのドアから一部始終を見ていた仲嶋先生は、青春だねと笑っていた。
香取が僕にフられたと話してまわっているらしく、付き合っている噂は終息していった。代わりにイケメンに好かれた可愛い男として不本意に有名になってしまい、休み時間に姿を確認しに来られたり、罰ゲームか本気か告白してくる男子が増え、女子には香取をおすすめされる日々となり頭を悩まされることになった。
先輩たち最後の観測会が近づいていた。実質自分だけの二年が主導する初めての計画書の最終チェックが通り、ホッとしながら部室に向かう廊下。後ろから目隠しをされた。
「だーれだ?」
「香取だろ?」
「すぐわかるなんて、愛の力ですね。」
馬鹿なことを言って笑うのは、やはり香取。爽やかイケメンにこんな事をされてときめくなと言う方が無理がある。いつも無駄にドキドキさせられている気がする。近い距離感で、何故か英くんと同じ香水の気配を感じる。
バタバタしている間に夏休み目前、観測会の日がやって来た。同学年はほぼ幽霊部員のため、今年入部したばかりの香取と、香取と僕を応援するため?に入部してきたらしい変わり者の尼崎さんと増田さんにも手伝ってもらい、なんとか観測会のセッティングが出来た。
安全への配慮で、今は屋上は常に施錠されている。放課後にパート練習として許可をもらった吹奏楽部も使えるのは昼間だけ。夜の屋上は僕たち天文部だけの特権だ。日が沈み夜の少しだけ涼しい風を感じながら小さな笑いが漏れる。
「晴れて良かったな。白鳥準備頑張ったな。」
英くんの大きな手が僕の頭を撫でる。それだけで幸せな気分になる。
「俺たちも頑張りましたけど?」
香取が拗ねたような口調で割って入ってきた。そちらを見ながら、英くんがにこやかに大きめの紙袋を取り出す。
「仕方ないな。頑張った君たちにご褒美だよ。」
簡易テーブルの上に、彼が紙袋からバラバラと音をたてて広げたものは、星の形を模した様々なお菓子たち。空も地上も星でいっぱいだ。
「他の二年がいない中、たった一人で特別頑張った白鳥には、更にこれをあげよう。」
僕の手の平には星形の琥珀糖……。水無月堂の琥珀糖「星華」は小さい頃から僕の大好物だ。英くん覚えていてくれた……胸がぎゅっと締め付けられる。ペルセウス座流星群を見上げる彼の横顔は、琥珀糖の甘さと共に僕の心に刻み込まれた。
先輩が引退すると、二年の実質活動部員は僕しかいなくなって自動的に部長になることが決定した。幽霊部員を副部長にするわけにもいかず先輩が悩んでいるところに、香取が
「一年だとだめとか無いなら、俺がやりたいです。」
「お前、本当に白鳥が好きなんだなぁ。俺はいいけど皆はどうだ?」
西城部長が皆に同意を求めた結果満場一致で、呆然とした僕を取り残して副部長が香取に決まった。後片付けは、三年生は本来ならしなくてよいのだけど……
「最後だからな。」
西城部長が少し寂しそうな顔を見せた気がしたが、いつもの明るさで皆をやる気にさせてあっという間に後片付けが終わった。
解散直後に西城部長が、僕の手をとり耳打ちしてきた。
「俺は、白鳥お前のことをずっと好きだったよ。好きな人がいるのは知っている。白鳥の幸せを応援しているけど、今日思いだけは伝えたかったんだ。学内で会っても避けたりしないでくれよ。」
頼りになる部長だった。実質たった一人の後輩だった僕は、それはそれは甘やかされていた。英くんが僕の心に居なければ西城部長を好きになったかもしれないと思ったことは一度や二度ではなかった。失恋するとわかっていても告白してくれたこと、僕の幸せを本当に願ってくれたことが嬉しくて涙が出てきた。
「仕方ないな。白鳥はそんなに俺と別れるのが寂しいか。」
西城部長はわざと大きな声を出して僕を抱き締めて背中を撫でた。
「お前はきっと幸せになれるよ。白鳥が選んでくれるなら、俺がかっさらってやるからいつでも呼べばいい。」
そっと囁いて、背中をぽんぽんとして先輩は鞄をごそごそして新しそうな紺色のタオルハンカチを渡してきた。
「やるよ。」
元々西城部長が俺に贈り物として渡すつもりだったこのイニシャルと星座の刺繍入りタオルハンカチを、鞄の中で包装紙から出してさも有りモノのようにスマートに渡してくれたことは、数年後酔った西城部長が語るまで僕が気づくこともなかった。
引退観測会の後は、ペルセウス座流星群極大になる八月のの観測会がある。先輩たちも本来ならこちらに参加したかったようだが、受験や就職等多忙になる日々に備えるために引退は七月。と、担任と親から釘を刺され諦めるしかなかった。いつか皆でOBになった頃に集まって観測会が出来たらいいのにな……
ペルセウス座流星群極大の観測会は、天気にも恵まれて大成功を納めた。香取が優秀で気が利くので、僕はあまり役に立たなかった気すらする。あっという間に終わった片付けの後、屋上の床に座りながら一人で脳内反省会をしているとふと横に来た香取が……
「部長は、監督と指示が仕事ですから、割り振ってくれたから動けただけですよ。俺だけでやったわけでもない。俺が頑張れたのは、白鳥先輩への愛のお陰ですけどね。」
隙あらばこんな雰囲気でぐいぐいこられるので優秀だけど扱いには困っている。誰からも羨まれるこんな男に求められてもなお、僕の心は英くんにあり、それは変わらないと思っていた。
「うっそ!伊藤先生が?」
夏休み明けのある日廊下で、女子の噂話に聞こえてきた彼の名前に耳が反応する。
「再来年の春?結婚するって噂なんだよね。」
「相手は美枝先生かな?お似合いだもんね美男美女!」
目の前が真っ暗になった気分がして、ふらふらとその場を立ち去る。保健室には誰も居なかったので仲嶋先生に「休ませてください。」と、メモだけを残して布団に横になる。分かっていたことだ、いずれ彼が結婚してしまうことなんて……今まで結婚していなかったことが奇跡なのだから。彼に断られながらも、執着して贅沢にも側に居たいと願った僕への罰なんだろうか。
僕の夢の中で彼は、いつも優しく頭を撫でておでこにキスをくれる。今日は頬を撫でてくれる、嬉しくて手にすり寄ると彼の手が少し止まってまた動き出す。首を触られると擽ったい……
ぼんやりと目が覚めると……人の話し声が聞こえる。
「……だめだよ。調子悪くて寝ている子いるから……」
「少しだけ補充させて?」
「ダメだって言っ……」
仲嶋先生の言葉は遮られて、代わりに甘い声が控えめに漏れ聞こえ……長い長い水音の後にちゅっとリップ音が静かな部屋に響いた。未経験な僕だって二人が深いキスをしていたのくらいは分かった。
「愛してるよ瑞希。」
「俺だって愛してる。……でも職場はダメだ、英雄。」
ずっと大好きだった英くんの声を僕が聞き間違えるはずもない。彼は、仲嶋先生とそういう仲なんだ。僕は布団の中で息を殺して、英くんが保健室から去るのを待った。仲嶋先生がカーテンを開けて様子を伺って、安堵のため息をついて保健室から出ていった。
布団から顔をだし、寝たふりを続けているとまた眠気がきて……また残酷な夢を見る。好きだよって何度も撫でてくる。さっき仲嶋先生にキスしたその口でそんな嘘を言うのか、「嘘つき」……涙が流れる。嘘じゃないよ、俺はあなたが好きだよ。英くんは、俺なんて言わないよ?あなた?そんな呼び方もしない……この優しい手は誰なの?手に頬擦りすると暖かい体温を感じる。俺なら泣かせないのに……ぎゅっと抱き締められた。リアルな夢か現実か重い瞼は上がらない。
目が覚めると、仲嶋先生が心配そうに覗きこんでいた。
「白鳥くん大丈夫?留守にしてる間に保健室に来た子がいるみたいだけど話しとかした?泣いてるみたい、涙の跡があるよ?」
「……大丈夫。ずっと寝てました……から。悪い夢……見たみたい。」
矢継ぎ早に質問される。ボロを出して、二人のキスに気付いたことを知られたくない。今は先生と目を合わせるのも辛い。お礼を言って保健室を出て教室に戻ると机の上に、汗をかいたスポーツドリンクと少し文字が滲んだメモ。
『熱中症の初期は、頭痛があるみたいですよ。―香取―』
少し温くなったスポーツドリンクを口にする。置いてくれたであろう優しい人を感じて、萎びた心に少しずつ浸透してくる温い液体の心地好さにまた涙が出そうになる。
好きな人がいるならそういってくれたら良かったのに……と思ったけど、前の僕なら相手の事をしつこく聞いただろう。僕が知ってどう行動するかで、仲嶋先生に不利益が起こる可能性が十分にあった。彼を守れなくなるかもしれないと思ってずっと曖昧にはぐらかされていたんだ、幼馴染みとしても避けられてきたのは恋愛感情を持った僕を仲嶋先生から遠ざけるため……とこの状況になってストンと心に落ちてきた。
やっと踏ん切りがついて、英くんを伊藤先生として見ることが出来るようになった。蠍座とオリオン座のように、同じ夜空に存在しながらもすれ違いの僕たちは、僕が彼への恋を諦めた事で先生と生徒で幼馴染みにようやく戻れた。彼がやっと前のように笑ってくれたのが嬉しかった。
そして今、僕は決断を迫られている。早めに受験が終わった西城先輩と香取両方からオリオン座流星群を見に出掛けようと誘われていて、お互いに相手が誘っている事は知っているらしい。三人で一緒じゃダメなのか聞いたら二人とも答えに詰まって下を向いた。三人ならお弁当を作ってもいいと言うと、二人とも三人でいくことに同意した。食べ物で釣られるなんて食い意地の張った二人だ。
「弁当作ってくれるなら、白鳥の交通費と泊まりのお金は俺たちが出すから。」
「泊まり?」
「少し山合の透明ドーム型グランピングテント借りようと思っているんだ。……少し狭いみたいだけど。」
Insotagramのおしゃれキャンプ特集で見たことがある!森の中に大きなシャボン玉があるみたいでとっても美しかった。しかも、寝る直前まで星空に包まれているなんて最高だ。喜びすぎて最後の方の話を聞き逃した僕は、当日ダブルベッドで二人に挟まれ撫で回されながら寝ることになり、なんか思っていたのと違うと思ったのだった。
来年の夏のペルセウス座流星群極大時期には、OBの皆で来ようと話したら部屋割りのことで二人がまた喧嘩をしていた。来年の話なのにせっかちだな。
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