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一ノ巻 誘う惑い路、地獄地蔵
第1話 地獄地蔵
しおりを挟む逃げていた、逃げていた。谷﨑かすみは息を切らして。
駆けていた、駆けていた。制服のブレザーに裂け目を、スカートからのぞくひざにいくつもかき傷を作りながら。
逃げていた、駆けていた――けれど速度は出せなかった、何しろ何も見えなかった。ただでさえ夜、しかも今は霧が、鼻先に覆いかぶさってくるかのように濃く漂っていた。どころか、何も聞こえさえしない。アスファルトに響く自分の靴音と、荒い呼吸音の他は。
やがて立ち止まる。崩れ落ちるように身を折り曲げ、膝に手をついた。大きく息を吐き出し、深く吸う。
「はぁ……はぁ……っ」
額の汗を拭い、後ろに目をやる。だいぶ走った、あれはもういないはず。目の錯覚かも知れないが、あれは――
そう思ったとき、音が鳴る。しゃりん、しゃりん、と鈴のような。
そして、声が聞こえた。岩と岩とがこすれ合うような声が、低く。
――一つ積んでは父のため……二つ積んでは母のため――
「ひ……」
思わずかすみは声を上げた。身を起こし、走ってきた方に顔を向けた。追ってきた、追ってきたんだ、あの音は。けれどどこに――
闇の先、霧の先に目をこらすが何も見えない。頭を巡らすが、こちらに向かってくるものがあるかすら分からない。
けれど、どこかから音はする。しゃりん、しゃりんと甲高く。
そしてまた声が聞こえる。
――三つ積んではふるさとの……兄弟我が身と回向して――
ともかく逃げようと、踵を返したとき。
気づいた、そこから音は聞こえていた。後ろ――かすみが逃げようとしていた方向――から。
音を立てるのは細い錫杖、その先端についたいくつもの金属輪。
それを持つのは石の手、その手を包むのは石色の衣、その衣を羽織ったのは石の体。その体に据わった首は。
僧のように頭を丸めた、あくまで柔和な石の顔。地蔵像の、その顔だった。
それが柔和なそのままに、石造りらしく表情も変えず。地の底から響くような、岩のこすれるような声を上げた。
「――迷うておるな、娘御よ。案ずるなかれ、この地蔵が案内しようぞ」
錫杖を持つ手を上げると、高い音を立てて地面を突いた。
地響きのような音と共にアスファルトを押し割り、いくつもいくつも生えてきたのは、針。あるものは芝のように小さく、あるいは草のように細長く。あるものは木のように太く、柱のように長く。辺りを埋め尽くしたそれは、まるで針の山。地獄を描いた図で見るような。
地蔵が再び杖を上げる。針の隙間の地を突いた。
さらに大きく地響きが起こり、針の間の地が割れた。そこから赤く――炎のような血のような――光が漏れる。
光の中に見えた、地の底には。時折炎を吹き上げる、黒く焦げてひび割れた大地。ぼこぼこと沸き上がる、血の色をした沼。それらの回りにそびえる針の山。
そしてそこには幾人もいた。炎に焦がされかけながら、大地の上を逃げ惑う者。血の池に足を取られ、沈みながらもがく者。血を流しながら針山を、鬼に追われて登る者。
その全てが、かすみと同じ高校の制服を着た男女だった。
「ひ……!」
思わずかすみは声を漏らす。
地蔵は変わらず柔和な顔で、嘲笑ったように声を上げた。
「――さあ、案内しようぞ。この地獄の底へのう」
かすみが下校する前。
その日も学校の様子はものものしいというか。それまでどおりに見えて、だがどこかざわついていた。学校のどこかではいつも誰かが囁いていた、一連の奇妙な出来事について。
ここ数週間、かすみの通う学校――県立斑野高等学校――では、突如意識不明になる生徒が何人も出ていた。外傷も体の異常もなく、眠りこけたまま目を覚まさず。時折、悪夢にうなされるような声を上げる。
何らかの病というわけでもなく、噂だけが幾つも立った。いわく、特殊なアレルギーだとか。いわく、思春期特有の精神的な症状であるとか。いわく、呪いであるとか。
職員会議も何度も開かれ、しかし何か対策が出たわけでもないらしく。学校は普段のとおりで、だから委員の集まりもある。
だから今日、かすみは図書委員会の用事で学校を遅く出て。その後ついでに、古本屋と本屋をはしごして。しかしお目当ての作家の本とは出会えず、収穫は気になっていた漫画を立ち読みできただけ。
それで夜、深い霧の中を帰っていて。
それで、思うだろうか――こんなことに出くわすなんて。
そして今。地蔵は何度も杖を鳴らし、謡うように言っていた。
「――等活地獄に黒縄地獄、阿鼻に焦熱、叫喚地獄。地獄に様々御座れども、いずれも咎人落ちる所。故にそなたも案内《あない》しようぞ」
石の足が一歩、滑るようにこちらへ踏み出された。地蔵は言葉を継ぐ。
「――さ、どれがよいかの。火に巻かれるか煮られるか、針の山を逃げ惑うか。仏の大慈大悲にて、今なら好みを聞いてやろう」
「ひ……」
かすみは反射的に後ずさるが。そのかかとが何かに当たる。
振り向いてみれば、そこには針の山があった。地蔵の回りと同じように、視界一杯に。霧の中、大小様々の針が草木のように立ち並び、白く煌めいていた。今まで歩いてきたはずの道も、辺りの家々も――田畑と交互に並んでいるような慎ましやかなそれらも――どこにも見えなかった。
地蔵の声は、笑ったように聞こえた。
「――ほうら、迷うた」
膝が、指先が震えるのを感じながら、かすみは考えていた。地蔵が見せた地獄のような光景、そこにいたのは同じ高校の生徒。だとしたら……ここ数週間の、突然目を覚まさなくなった生徒ら、それと関係あるのでは? あるいはここに――地獄? に? 魂? を? ――囚われたということでは?
しゃりん、と錫杖が鳴る。石の足が踏み出される。謡うように地蔵が語る。
「――迷うた迷うた、案内が要るぞ。ここはどこの細道じゃ、有為の奥山もう越えて……死出の山路に入りたる、気づかぬ者こそ哀れなり……」
そして、もしそうなら。かすみもそこに囚われる、ということ?
後ずさろうとするも、後ろは隙間なく針に塞がれている。横へ逃げようとするも同じだった。
顔を前に向ければ地蔵がいる。ずりり、ずりり、とにじり寄る、それは確かに嘲笑っていた。柔和な顔のそのままで。
「いや……いやぁ……」
助けて。誰か助けて、神様、仏様――は、目の前にいるのだが――。
助けて。本気で祈ったそのとき。
じゃりん、と、音が聞こえた。地蔵の錫杖と同じ、だがもっと重い音。
じゃりん、じゃりん、と音が近づく。野太い男の声がした。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。六根清浄、六根清浄――」
針の山のその先、おぼろげに姿が見えた。
僧。半円形の編み笠を深く被り、太い金輪のついた錫杖を突いた僧。がしりと広い肩幅が、窮屈げに墨染めの衣と袈裟――ぼろぼろにほつれた袖と裾、それらの寸が足らずに逞しい手足が突き出ている――に収められている。足元は素足に草鞋で、背にはなぜか、体からはみ出るほど大きなリュックを負っていた。
僧は一際高く錫杖を鳴らす。声を張り上げた。
「南無阿弥陀仏一目立ち、六根清浄大目立ち。南無妙法蓮華経少し目立ち、般若波羅蜜多かなり目立ち!」
針山の先から僧は歩を進める。奇妙なことに、僧は針の上を歩いていた。いや、上ではない。針などどこにもないかのように、地面の高さを踏み締めて歩いた。傷一つなく。
「な……」
すくんだような地蔵の前で立ち止まり、僧は低く声を上げた。
「地蔵よ。お主、目立っておるな」
「な……あ……?」
「目立っておる、目立っておるわ。……このわしよりものぉ!」
言うなり、振り上げた拳が。地蔵の横面をまともに打った。
「お、ごおおぉぉっ!?」
石造りの顔を歪ませ、吹っ飛んでいく地蔵。震えながらもどうにか、倒れた身を起こす。
「馬鹿な、何故だ……この地獄道、何故貴様は迷わずにおる!」
「はあ?」
笠を深く被ったまま、僧は小指で耳をほじった。声を上げると、広く張ったあごと太く並んだ歯が見えた。
「どあほう! 何をたわけたこと言うちょる! 迷うも糞も、無い道には迷えんわ!」
手についた石片を払い、大きな拳を――スチール缶だって折り紙みたいに、畳んだ後で引き裂けそうだ――握り鳴らす。地蔵の方へとゆっくり歩んだ。
「さてと。どういうわけでお主が、こんな悪目立ちしちょるのか。ゆっくり聞かせてもらおうかのう」
「ひ……ひいぃぃ!」
地蔵は叫んでごりごりと、石の尻を地面にこすりつけて後ずさる。不意にその姿が霧にまぎれて薄れた。そのまま霧が厚くなり、辺りを白く塗り潰す。
気がつけば。辺りに霧などはなかった。それどころか、針山も血の池も炎も。それらに苦しむ生徒の姿も、もう見えなかった。
あるのはいつもの帰り道、街灯と月明かりが薄暗く照らす道路。それにかすみと、あの僧と。
「ふ……また一つ目立ってしもうたのう」
息をついた僧の口元は笑っていた。
かすみはひとしきり辺りを見回す。いつもの道だと再確認した後で小さく口を開いた。伏目がちに僧を見て。
「あ……の……」
何だったんでしょうか、今のは。あの地獄みたいなのとか、地蔵とか。回りにいた人たちはどこへ、それに――
聞きたいことは矢継ぎ早に浮かんだが。それよりまず、言わなければいけないことに気づいた。
「あの。よく分かりませんけど、ありが――」
「あっ」
突然、僧が大きく口を開けた。笠の中に手を突っ込み、頭を抱えて天を仰いだ。
「だあああああっ! しもうた! 迷うたあああああっ!」
かきむしるように笠を取りながらうつむき。僧は大きく吠えていた。
「どこじゃここはあああっ! ようよう町にたどり着いたと思うたのに、いつになったら待ち合わせ場所に行けるんじゃああああ!」
僧の大きな手が、被さるようにかすみの手を握る。
厚く、熱い手だった。
「のう、頼む、助けてくれい! ここはどこじゃ、斑野町で合うとんのかあ!」
「え……あ……」
目の前、鼻の先にある僧の顔は意外に若かった。かすみと同年代、あるいはいくつか上か。僧形に似合わず髪は黒く太く長く、その頭に濃緑の布を頭巾かバンダナのように巻いている。眉も目鼻立ちも、鑿と鎚で彫ったように濃く太く深い。
「あ……はい」
わずかに目をそらしながらそう答えた。
「そうかあ、助かったわい! それとそうじゃ、斑ヶ丘駅っちゅうのはどう行ったらええんじゃい」
「えと、それならここを真っすぐ向こうに行って……信号のある大きな交差点を右に、それで正面に見えます、よ」
「そうかあ!」
僧は白い歯を見せて笑う。
「いやあ助かったわい、地獄に仏とはこのことよ! この恩決して忘れはせん! 何しろ、もう着いとる約束じゃで……早う行かにゃあ、百見の奴にまたどやされるわい」
笠を抱えてリュックを背負い直し、駅の方へと向き直る。
「では、これにて御免じゃい!」
駆け出す僧に向け、かすみは手を伸ばしていた。
「あの! ……待って、あー、その、連絡先とか、お名前を!」
さっきのあれは何だったのか。聞く必要があると思ったし、お礼だってしなければならない。
僧は足を止め、振り向いた。
「スシュン。南贍部宗が僧、四天王が一人……崇春。――御免!」
駆けていった先をかすみはずっと見つめていたが。多分、崇春は真っすぐ行き過ぎている。もう駅は通り越した。教えようにも、今からでは追いつけそうにもない。
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