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一ノ巻 誘う惑い路、地獄地蔵
第23話 怪仏、その業
しおりを挟む駐在所の奥の部屋。少し前まで百見が横たわっていたそこに、今は斉藤が運び込まれていた。その巨体を覆っていた石の体は、運んでいるうちに――重量的に幸いなことに――ぽろぽろと崩れ落ち、今は制服の上に欠片を残すのみだった。
「斉藤さんが、正体だったなんて……」
崇春から大体の――本当に大体の――説明を聞いた後、斉藤の傍らに立ったまま、かすみはそうつぶやいた。
その横で百見がうなずく。
「僕の方の状況も崇春の推測のとおりさ。驚くべきことにね」
崇春が頭をかきながら笑う。
「がっはっは、そう驚かれると照れるわい」
かすみは苦笑する。
「いや、誉められたわけでは……。それより百見さん、体は大丈夫なんですか? いきなり起きて、まだ横になってた方が」
かすみは最初に地蔵と出くわしたときのことを思い出していた。地蔵が見せた地獄のような場所では、倒れた生徒らが針山や血の池で責められ、苦しめられていた。百見も倒れた後は同じ目にあっていたのではないか。
なぜだか百見は考え込むように、軽く握った手を口元に当てて眉を寄せていた。
「……そのことだが、全く大丈夫なんだ。これも驚くべきことなんだが、というのも――」
さえぎるように渦生が口を挟んだ。
「悪いが。大丈夫なら、こっちの話を先に済ませちまおう。……こいつをどうする」
不精ひげの伸びたあごをしゃくり、横たわる斉藤を示す。
「怪仏の干渉を受けていたとはいえ幾人もの生徒を昏倒させ、百見のときに至っては人の姿のままで襲いかかってる。しかもその理由は、あの女がしょうもねぇ書き込みをしたのに従って、だ。……さて、どうしたもんか」
かすみは渦生の顔を見、それから斉藤を見て、唾を飲み込んだ。渦生の言うことには一理あるが、だとして彼をどうする気なのか。
そう考えると、知らず知らず体がこわばる。
百見は肩をすくめた。その体にこわばった所はなく、苦笑さえ浮かべていた。
「意地の悪いことを。面白いからって、谷﨑さんを怖がらせないで下さい」
確かに面白いですけどね――聞き捨てならないことをそうつぶやいた後、百見は両手の指を組み合わせた。以前に見た印――両手の甲を向かい合わせにし、人差指のみを絡め合わせる。他の指は自然に開き、親指で中指の爪を押さえる――の形に。
「悩むこともない、いつもと同じにやりますよ。――オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ」
やがて百見の前で、揺らめく光が像を結ぶ。赤い甲冑を身にまとい、筆と巻物を持った鬼神。四天王・広目天。
かすみは思わず身を引いていたが、崇春と渦生は何事もないかのように眺めている。
百見は印を結んだまま目をつむり、何度も真言を繰り返した。
「――オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ。オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ、オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ、オン・ビロバキシャ――」
その声が唱えられるごとに。なぜか、横たわる斉藤の輪郭が揺らいで見えた。水面に滴が落ちたかのように。
「――オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ」
そう唱えて言葉を止めたそのとき。広目天が右腕を上げ、一息に落とす。まるでその手にした筆を、斉藤の体に突き刺すように。
かすみは息を飲み、反射的に目をつむった。確かに、その筆はまるで刃物のように、斉藤の胸に突き刺さってその肉体の中へ沈んだ――そう見えた。
傍らで崇春が言う。
「谷﨑。大丈夫じゃ」
その声に、おそるおそる目を開けてみれば。確かに筆は斉藤の胸へ沈み込んでいたが。突き刺さってはいなかった。斉藤の体が水面のように輪郭を揺らがせ、その中に筆が浸かっていた。まるで、硯の中の墨に浸すように。
果たして、程なく引き上げた筆は、墨をたっぷりと含んで黒く濡れていた。
印を結んだまま、百見が声を響かせる。
「我が守護仏たる広目天よ、その全てを見通す目と神筆を以て、描き出し給えその者の業、描き取り給えその者の縁起。――【情画顕硯】」
再び真言を唱える、その声と共に。広目天が腕を上げ、筆を振るった。一面に墨が撒かれ、部屋中が――いや、その空間、かすみの視界も含めた空間自体が――、黒一色に染め上げられる。
だがやがて、そのうちにいくつか、白く墨の落ちたような箇所が見えた。いや、消えたというよりごく薄まり、白、黒、灰の色となっていた。
そして、それらの色が線となりあるいは面となり、何かを描き出していた。それらはただの絵ではなく、モノクロの映像となって動いていた。ちょうど昔のニュース映像のように、画面に灰を散らしたように乱れた絵で。大小様々に。
「これは……」
かすみがつぶやくと百見が言った。印を結んだまま片目だけを開けて。
「怪仏とは人の業。積もり積もった人の業。広目天の力で描き出したのさ、この怪仏を構成する様々な人の業を」
白黒の映像に目をやれば、それらは一つ一つ、多様な情景を描き出していた。
江戸時代かそれ以前か、土下座する粗末な衣の人々と、その頭を踏みにじる、刀を差した男。あるいは同じ頃の時代か、顔の半分が崩れたように腫れ上がった女――何かの病か――と、その背に石を投げる人々。またあるいは、軍服を着た若者と、それを殴りつける、同じ服を着た年かさの男。またあるいは、腰より深く頭を下げるスーツ姿の男と、その上から罵声を浴びせる男。それらが浮かんではまた消えていく。
いずれにせよ。それらは全て、人が人を責め、苦しめている有様だった。
百見がつぶやく。
「閻摩天は死後の裁きを司る存在。おそらくは不当に苦しめられた人々の復讐心……恨むべき相手に対する『裁き』と『罰』を求める思いが、この怪仏を形作っている」
かすみは言った。
「なるほど……でも、これをいったい……」
「斉藤逸人。彼のそうした思いも、これらの中にあるはずだ。人が何の縁もない怪仏の正体――依代というべきか――となることはない……そら、これか」
広目天の筆先が、小さな映像の一つを指す。それを筆で押さえると、腕を上げて視界の中央へ――まるでパソコン上の画像の位置を、マウスを操作して移すみたいに――動かした。さらに映像の斜め下端に筆を置き、引き下げると、視界一杯に画像が広がる。
そこに映し出されていたのは、ひどく大柄な小学生。ランドセルを背負い、半袖半ズボンの制服からはち切れそうに太い手足が突き出ている。その男子はうなだれ、大きな背をひどく縮こめている。まるでその場から消えてしまいたいというように。
その周りを同じくランドセルを背負った男子が取り囲んでいた。辺りは学校の裏庭かどこか、大きな建物の壁を背にして、土のむき出した地面が広がっていた。
かすみはつぶやく。
「これは……斉藤さん? だいぶ昔みたいですけど……」
広目天が筆先で画像をつつく。すると、音声が聞こえてきた。
――ソルトてめえ、でけえんだよ。目障りなんだよ――
――勝手に視界入ってんじゃねえよ、小っちゃくなれよオラ――
斉藤を囲む男子が口々に言い、その内の一人が斉藤の尻を蹴り上げる。
それで倒れたという様子ではなかったが、斉藤は身をかがめ、膝を地面につけた。大きな体を折り畳むようにして縮こまる。相手の言葉のとおり、小さくなろうとしているみたいに。
――まだでけえんだよ、縮まれやコラ――
別の一人が斉藤の頭を踏みつけ、地面へ額をつけさせる。まるで土下座のように。
「ひどい……」
かすみはつぶやくが、その声が映像の向こうに届くはずもなく。男子たちは代わるがわるにその頭を踏みにじった。
――お前なー、明日までに小っちゃくなっとけよ。オラ、返事は――
額を地面につけたまま、斉藤が消え入りそうな声を出す。
――……ウ、ス……――
男子の一人が膝を叩いて笑う。
――返事しやがったこいつ! じゃーな、ホントに縮まっとけよー!――
男子らが笑いながら走り去る。その声が聞こえなくなった後も、斉藤は同じ姿勢でいた。
渦生がつぶやく。
「なるほどな。このときの恨み、復讐心がこいつの業ってわけだ……ん?」
渦生が目を瞬かせる。
映像はまだ終わってはいなかった。地に頭をつけたままの、斉藤のもとに誰かが歩み寄る。ランドセルを背負った、斉藤や男子らと同学年らしい女子。
――あー……帰ったよ。あいつら――
くせ毛なのか強く波打つ黒髪を、ツインテールに分けた女の子。男子らの去った方を見ながら、誰に言うともない調子でそう言った。
――……――
斉藤は同じ姿勢でいる。
女子はわずかに顔をしかめ、語気を強める。
――帰ったってば、ほら――
手で斉藤の、頭についた土を払う。
斉藤はその手に怯えたように、一度身を震わせたが。やがて顔を上げ、大きな体を起こした。立ち上がってもその顔はうつむけられたままだった。
その顔を見上げ、男子らの去った方向を見た後、女子は言った。
――えーと……斉藤くんだっけ? 隣のクラスの。……いつも、こんなことされてんの――
斉藤はうつむいていた。その腕にも脚にも、土がついたままだった。
――……ウス――
――そう……――
女子はうなずいた。そして力強く腕組みすると、足を広げて斉藤の前に仁王立ちした。
重々しい、精一杯低くしたらしい声で言う。
――……力が、欲しいか――
「……ん?」
かすみは思わずつぶやき、目を瞬かせた。
女子は同じ調子で続ける。
――汝よ、力が欲しいか……憎き者どもに復讐する力が! 絶対的な暗黒の力、憎しみのまま、悪しき者どもを滅するための力が! 欲しいかと聞いておる――
――……――
斉藤は黙っていた。
「…………」
かすみも黙っていた。百見も渦生も、誰も。
画面の向こうとこちらとで長い沈黙が流れる中、ようやくかすみは口を開く。
「……あれ、賀来さんです、よね」
映像の中で少女が声を上げる。
――どうした、答えよ! せっかく呪いの力を与えようというのだ、この闇薔薇の堕天使、ダークローズ・ルミエル様がな……!――
「うわあ……」
それだけつぶやいてかすみは確信した。賀来さんだ、これ。
――……――
斉藤はまだ黙っていたが、構わず賀来は話を続ける。
――フン……貴様がそこまで望むなら、特別に我が力授けよう。いいか、まずこの祈りの言葉を逆に書いて……――
落ちていた小枝を取り、地面にひらがなで書いていく。新約聖書の一節を逆さまに。
――で、その後に相手の名前を逆に書く。これで呪いは完成だが、さらに一ひねりだ。シーザー暗号……と言っても分かるまいな、フフフ――
自慢げにシーザー暗号の解説をした後、賀来はさらに地面に書いた。暗号化した後の呪いの言葉を。
――と、呪いの数字たる十三文字、後にずらした字でこの言葉と、相手の名前を書く。これで見られてもバレな……いや、呪いの力が増すのだ。そう、飛躍的に。さあ、帰ったらあいつら全員分、これをノートに書くがいい。そうすれば奴らは呪いで死ぬ――
――……――
斉藤は身動きもせず、黙ったままだった。
賀来は足を上げ、音を立てて地面を踏みつける。
――分かったか、なんとか言えよ! それとも怖いか? なら、我に奴らの名前を教えよ。代わりにやっといたげよう――
掃除当番代わってあげよう、とでも言うような調子でそう言ったが。
斉藤は首を小さく横に振る。
――ウス……いい、ス……――
賀来は眉を寄せる。
――ええ? いいのか? やろう、やろうよ? ……分かった、じゃあいい。知ってる奴の分だけ我がやっとこう。他の奴もやってほしかったら言いに来るがいい。我が名は賀来……いや、それは世を忍ぶ仮の名にして、真なる名は闇薔薇の堕天使、ダークローズ・ルミエル……さらばだ――
言うとランドセルを背負い直し、足を踏み出して歩き出した。が、思い出したように斉藤の方へ戻る。その腕や膝についたままの土を、何度も叩いて落とした。それから何も言わず、小走りに去っていった。
斉藤はその背をじっと見ていたが。
――……ウス。ありがとう、ございました――
小さく言うと、頭を下げた。深く、深く。賀来の姿が見えなくなっても、そうしていた。
渦生が言う。
「こりゃあ……この映像に残ってるってこたぁ、これもまた怪仏を形造る業ってわけだが。……何だこれ」
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