斬壺(きりつぼ)

木下望太郎

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最終話

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 童が脇差を抜くのを見てから、剛佐は駆けた。

 汗に重く濡れたはずの体は軽かった、羽根でも生えたように。腕も同様だった。刀の重みはまるでなく、まるで掌から柄が、刀が生えているようだった。自然と姿勢は八双の構え、斬壺の構えとなっていた。

 駆け、踏み出す一足ごとに、剛佐の体は軽くなった。一足に継ぐ一足、そのたび剛佐は速くなった。地の堅さ砂利の硬さ、足裏の足指の骨の軋み肉の張り、血の巡り。一足ごとにそれが分かった。

 駆け来る童の刃が迫る。

 最後の三歩を剛佐は駆けた。腰から背骨、肩から腕、肘。手首から十指、柄から刀身。今や剛佐の体には、重みも力みも一切無かった。それらはすでに一点、切先へと伝えられていた。

 童が突き出す脇差、今の剛佐にはそれらが遅く見えた。まるでぼた雪が降るように、ゆるりと出される二本の刃。その間を流星のように、剛佐の刀が過ぎる。
 童の体へと当たる瞬間。剛佐の十指がかすかに動き、手の内を、握りを決める。自在に緩め、的確に締め、振り抜く。剛佐の刀は確かに、童の体の上を走った。最初に触れたものを、何の抵抗もなく斬り裂きながら。

 その後で。ゆるりゆるりと、剛佐の体に脇差が突き立つ。



 脇差を握った両の手を突き出したまま、童は立ち尽くしていた。

 確かに。確かに、自分は斬られていた。全力で突いたはずの脇差がまるで敵わないほどの速さで。
 なのにどこにも傷はなかった。傷があるのは相手の方だった。刀を振り下ろした姿のまま、喉を貫かれ胸をえぐられ、息絶えていた。

 風が吹いた。流れ落ちる血が香った。そのままの姿勢で二人はいた。

 目を瞬かせ、口を開けたまま、童は両の脇差を抜いた。支えを失い、相手の体は、どう、と地に伏す。

 そのとき。走った、傷口が。童の体の上を。
 ぴりり、と着物の前が裂け、帯が二つに斬り落とされた。がらりがらりと音を立て、腰の鞘が、脇差が、落ちた。腹にも、胸にも傷はなかった。

 風が吹いた。

 童は変わらず立ち尽くした。木々が鳴る中、立ち会い人が駆け寄る音が聞こえた。
 相手の目は。額を土に汚し、刀を握ったまま伏した、その口の端は。笑っていた。




 八島払心流五代宗家、八島剛佐衛門紘忠、旅先にて没する。その後、弟である紘孝が六代を継いだ。
 その後にすぐ、六代は養子を取った。養子は名を改めて、剛四郎紘忠といった。
 剛四郎は後に、小太刀を取っては当世無双と謳われる名人となった。しかし、秘太刀“斬壺”は隠居の後、晩年に一度、成功したのみだったという。


(了)
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