肖像

恵喜 どうこ

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母の肖像

5人目 夫 南田圭一の供述

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 妻の恵理子は精神的に揺れやすく、繊細で、傷つきやすい女です。必要以上に他人の目を気にするし、日光や蛍光灯の光、大きな音も苦手です。特に人前に出るのが苦手で、計画通りにいかないとパニックを起こします。とはいえ、妻として、母親としては充分すぎるくらいがんばっていたと思います。

 熱が出ても解熱剤を飲んで家事をするような女でした。自分の用事よりも子供たちや俺のことを優先してくれました。今思うと、いろいろ酷だったような気もします。俺は仕事ばかりで、彼女とゆっくり語らう時間も持ちませんでしたし。そんな中で、隣の久保田さんの世話をしてやりたいという彼女の優しい気持ちは尊重してやりたかったんです。そのときはあの男があんな卑劣なヤツだと思ってもいませんでしたから。

 家事代行の代金を払ってくれるなら――と俺は久保田に言いました。久保田が了承したので、週二回、妻を手伝いに行かせました。まさか、彼女があの男に凌辱されるなんて思ってもいませんでした。それを動画に撮られて脅されていたことも、俺はなんにも知らなかったんです。

 ある日、久保田がその動画を持って、うちへ押しかけえてきました。恐喝ですよ。アイツはパチンコや競艇で奥さんの生命保険も使い込んで、金が尽きていて、それで動画をバラまかれたくなかったら金を出せと脅してきました。半殺しにしてやりましたよ。だって、妻はあの男に無理やり体を売らされていたわけですからね。

 それを知って以来、俺は彼女を抱けなくなりました。そんなときに、みのりに……杉田さんに慰めてあげると言われ、関係を持ったのは俺の弱さからです。みのりとの関係ですか? 二年前からです。でも半年前に別れました。俺のほうから切り出したことです。

 だから妻がコロ丸に指を食われたと聞いたときは背筋が凍りつきましたよ。俺のせいだと思いました。みのりがコロ丸をけしかけたんです。みのりは離婚して俺と再婚するつもりだったんです。そのために妻が邪魔だったんだと思います。飼い犬にそんなことをやらせるんだから、怖い女でしょう? 

 そういう俺の軽率な行為のせいで妻は取り返しのつかない病原菌に感染してしまったんですよ。この事件以来、彼女は見る見る人間じゃなくなっていったんだから。

 だけど刑事さん。これだけは信じてほしいんですが、俺にとって彼女は自慢の妻だったんです。本当です。器量がよくて、オシャレで、家事もそつなくこなす女性。少し足りないところもありましたが、それだってかわいいと思っていたんです。母親になっても、彼女は素晴らしい女性のまんまでした。子供たちを実に愛情たっぷりに育ててくれて……あんないい子たちになったのも、妻のおかげだって心から思っているんです。

 それなのに、妻は本当に人が変わってしまった。俺の革靴を水洗いして、びしょびしょのまま玄関に並べて「こんなに濡れていちゃ靴下までダメになっちゃうわね」ってゲハゲハ腹を抱えて笑うんですよ。俺が黙って別の靴を靴箱から取り出そうとすると、妻は俺の前に立ちはだかって「させない」と怒鳴り声を上げるんです。

 妻を力任せにどけると「やめてよ!」と叫んで玄関の三和土に転がりました。そんな力を入れたつもりはなかったんですが、結果的に転ばせてしまった事実は変えようがありません。妻は倒れた拍子に掴んだ俺の革靴で何度も、何度も自分の額を打ち続けました。それこそ渾身の力だったのでしょう。額の薄皮がぱっくりと裂けて、そこからじわじわと血がにじみ出しました。俺はガタガタと震えながら見つめることしかできませんでした。

 しばらくそんなことをしたのち、空しくなったんでしょうね。妻は「アハハハハ」と空笑いしたあと、ふらりと立ち上がると、自室へ戻っていきました。そんなことが毎日繰り返されるんです。どうしてこんなことになってしまったんだろうと悲しい気持ちになりました。

 特に妻とふたりになるときは気が重たかった。子供たちが自分たちの部屋へ戻ってしまって、夫婦だけがリビングに取り残されます。妻は俺の座っている隣に腰を下ろすと「今の私は例えるなら、虹色風船みたいじゃなくて? ほら、肌の色もこんなに色とりどりよ?」とシャツを捲って、腹を見せました。青、青紫、黄色、黄緑、赤。新しいものから古いものまで、皮膚は様々な色の痣で覆われています。

 俺はあまりにもつらくて、目を逸らしました。それから「そんなかわいいもんじゃない。早く病院へ行くべきだ」と彼女を諭しました。彼女は「チャーミングだって笑ってくれるかと思ったのに」と悲しそうに目を伏せました。俺は彼女が笑わせようと気を遣って口にしたジョークも受けとめてあげられない己に絶望し、早めに休みました。こんなことはいつまでも続けていちゃいけない――そう思いました。

 そんなある日のこと、家へ帰ってくると、子どもたちがリビングで肩を落としています。なにかあったのかと妻に聞くと「みいちゃんが出て行った」と言います。俺は「きっとそのうちに帰ってくるから、あとで玄関にご飯を置いてやろう」と子どもたちをなぐさめました。そうしているうちに、クリームシチューのいい香りが漂ってきました。妻は俺たちの話を聞きながら「かわいそうね」と涙をこぼしました。ああ、妻はやっぱりまともだとそのときはホッとしたものです。

 しかし、本当はそうじゃなかった。妻は俺の前に赤飯を出しました。しかし、いつもと少し色が違う気がします。茶碗を手に取り、妻を見て、身震いしました。ニタニタと笑いながら「早く食え」と目で訴えてくるんです。子供たちが怪訝な目でこちらを見ています。彼らの前には焼きたての食パンが置かれています。俺だけが米派なんです。震える口に米を放り込みました。その瞬間の妻の満足げな笑みは目に焼き付いて離れません。あの、してやったりというねっとりとした、恐ろしい笑顔。妻と結婚して二十年になるが、あんな笑顔は一度だって見たことがなかった。

 俺は米を噛まないようにして「いつもの赤飯と違うね」と訊きました。本当は訊くのも怖かった。だけど、そうせずにはいられなかった。妻は「そうなの! パパはすごいわ! それはね、みいちゃんの血なの! パパはみいちゃんのこと、かわいがっていたでしょう? みいちゃんもパパのお役に立てたって喜んでいるわ」と得意げに言ったんです。

 俺は妻に向かって茶碗を投げつけました。子供たちが軽蔑するような目で見たけど構いやしません。それどころじゃなかった。それ以来、妻の作るものは怖くて口にできません。弁当も作らなくていいように、会社で頼むようにしました。夕食は外で済ますようにしました。子供たちにはこっそり弁当を買って帰るようにもしました。

 こうなると、もう一刻の猶予もない。妻を強制的に施設へ入れるべきだと腹をくくりました。
警戒されないように、一旦会社へ行くふりをして、忘れ物をしたと帰宅しました。妻はちょうど出かけるところでした。戻ってきた俺を見てすごく驚いたようでしたが、すぐに笑って「よかった」と小躍りしました。

「これから北村さんのうちのジョンを捕まえに行くから手伝って」

と、妻は言いだしました。

 「ジョンをどうするって?」と問うと、妻は手にしたエコバッグから鉈を取り出して「肉を調達しに行くの」としまりなく笑いました。それを聞いた瞬間、天地がひっくり返りました。全身にぶるぶると震えが走りました。心臓がこれまで感じたことがないくらい激しく弛緩しました。耳の奥がぼうっとなって、頭がくらくらしました。ここで俺が止めなかったら、妻は本当にジョンを捕まえて、殺してしまうだろう。そしてその血でまた米を炊くにちがいない。そう考えました。だって、みいの件があります。あんなにみんなで大事にしていた家族だったのに――妻はさらに言いました。

「赤犬はね、とっても美味しいらしいのよ。韓国でも中国でも、田舎のほうだと犬を食べるらしいの。だから日本で食べちゃいけないってことじゃないと思うの。ほら、北村さんちのジョン、若くて、ちょうど脂が乗っている感じがするでしょう? あれは柴犬だったかしら? 十キロくらいあるって聞いたから、家族四人なら充分よね。ねえ、パパはなにがいい? ステーキ? それとも卵といっしょに煮ようか?」

 もう絶望的でした。妻は鉈の刃を見て、ガハガハと操り人形みたいに肩をゆすぶって笑っています。家族が喜ぶと信じて疑っていない母親の顔でした。そのとき、確信に変わりました。今はまだペットで済んでいるが、そのうち人間を手に掛けるんじゃないか。家族のためならなんでもやってきたのが妻なんです。いや、人間どころか、家族ですら殺しかねない。そんな底寒さがあったんです。

 俺は覚悟を決めました。ふうっと大きく深呼吸したあと「手伝わない」ときっぱりと断りました。「おまえの作ったものなんて気持ち悪すぎて二度と食べたくない」とハッキリと言ってやりました。妻は我に返ったみたいに目を見開いて、俺を見ました。笑みが消えていました。表情の乏しい、のっぺりとした顔がそこにぼおっと浮かんでいました。

「やっぱり反抗するのね。思う通りにいかないわ」

そう言うと、妻は俺に向かって鉈を振り下ろしました。とっさに身を翻し、上がり框を駆けあがって、妻の背中側に回り込みました。それからすぐにこぶだらけの背中に体当たりしました。すると妻は「ぎゃあああ」と叫び声をあげて三和土に前かがみに倒れました。鉈を持っていたので手をつけなくて、顔面をぶつけたんでしょう。ぶちゅっと嫌な音が耳にこびりつきました。妻はなかなか立ち上がれなくて、暴れています。ここまでは上手くいきました。あとは自由を奪えばいいだけです。

 俺はすばやく周囲を見回しました。すると靴箱の上に白いビニール紐の束を見つけました。これで縛ろうと手を伸ばしたときです。玄関の扉が開いたんです。思わず、身を屈めました。
入ってきたのは子どもたちでした。彼らは驚いたように俺と妻を交互に見ました。状況を理解した息子が慌てて、もがもがと動く妻から鉈を取りあげました。娘も靴箱の上のビニール紐で妻の手首と足首を縛りました。

「パパ! なにをグズグズしているの! エコバッグを片付けて!」

 娘に言われて、すぐに三和土に落ちているエコバッグを拾いました。拾ってみて、言葉を失いました。バッグの中にはむき出しの状態の大きな包丁が入っていたんです。肉切包丁、牛刀です。ああ、妻は本当にジョンを殺すつもりだったんだ――俺は震える手に包丁を構えました。ためらっちゃいけない。ここで俺がやらなければ、誰がこの狂人をとめられるだろう――そう、強く、強く思いました。

 妻は手首と足首を縛られて、ぎゃあぎゃあ叫んでいます。「こんなことをしてタダで済むと思うな」「おまえらも同じ目に遭わせてやる」「この鬼畜たちが!」という妻の絶叫が家中を震わせるようでした。

 俺はグッと包丁の柄を握りしめると「はああっ」と声を上げて、妻の背に飛び乗って、何度も、何度も包丁を突き立てました。「やめろ、親父! 死んでしまう!」「こんなことしちゃダメよ!」と子供たちが止めようとしましたが、俺はそれを振り払って刺し続けました。

 どれくらいそうしていたか、気が付くと妻はこと切れていました。三和土は真っ赤な血の海になっています。俺は包丁を持ってフラフラと立ち上がりました。子供たちが俺に抱きついて「パパは悪くない」「パパにやらせてごめん」と泣いてくれました。息子が鉈で妻の手首の紐を、娘が俺から受け取った包丁で足首の紐を切りました。そうして妻の死体をみんなで廊下まで移動させて、家を出ました。それぞれ、行くべき場所に向かいました。家の前で誰かとすれ違ったような気がしますが、誰だったのか覚えてませんよ。

 俺が悪いんです。不甲斐ない俺がぜんぶ……子供たちは巻き添えを食っただけです。ふたりは大した罪に問われませんよね?

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