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恵喜 どうこ

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親子の肖像

通報

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 社会福祉課への児童虐待に関する通報はここ近年、増加の一途をたどっている。通報義務が周知されてきた結果であり、児童保護の面からも、実に前向きで望ましい結果とも言える。

 しかし正直なところ、非常に面倒臭い。

 虐待をする親はまともじゃない。そんな家に通って説得を試みたところで、状況改善を促せるはずがない。「行政の犬には関係ない」「税金泥棒」と罵倒し、肝心の子供に会わせない親は多い。精神を削って帰路に就くのがオチ。結局のところ、骨折り損のくたびれ儲けで、労力を割くだけの成果らしい成果がほとんど得られないのがこの仕事だと思う。

 とはいえ行政機関としては、『通報』という形をとられた場合、それがどれほど不毛な案件であれ、無視できないのが実情だ。ゆえにそういう面倒ごとは下っ端にお鉢が回ってくるのが定石となる。ガセでもなんでも一度は『確認した』という既成事実を作っておかねばならない。これは最悪の事態になった場合の保険だ。仮に保護しなければならない対象が命を落とすようなことになった場合、ギリギリではあるが責任を免れる。把握はしていたが手を出せなかったということと、把握もしていなかったでは責任の大きさが変わって来る。
自分たちの保身のための仕事か――零れるため息と一緒に、手にしたメモに視線を落とす。

『○○四丁目十五―一 美幸アパート二〇三』

「ここだよな」

 閑静な住宅街。入り組んだ細い路地を曲がった先にある昭和後半に建てられた築年数の相当古いアパート。ここの二〇三号室の住人、井田千鶴子が小学四年生になる娘の千佳を虐待しているという通報があったのは昨日の話。通報者は子供。聞けば、千佳の友達のひとりだという。彼女が虐待されているから助けてあげてという趣旨を伝えるだけ伝えると、電話は一方的に切れた。名前は聞けなかった。調査名目で学校に問い合わせたら、担任からは「仲良くしている友達はいない」と言い切られてしまった。
 担任によれば、千佳はいつもひとりでいるらしい。

「外で遊ぶよりも絵を描いたり、本を読んだりするほうが好きみたいで。この間も熱心に絵を描いていたんですが……」

 担任は言いづらそうに言葉を切った。

「彼女は赤い色を使うんですよ。他の色は見たことがないです」

 担任は「黒」ならわかると言った。黒は恐怖の表れだから、彼女が本当に虐待を受けているのなら、そういう形で表に現れるだろう。

「その……赤い色はなにを表しているんですか?」
「赤はエネルギッシュな気持ちの表れなんですよ。なにかをしたいと強く思っている気持ちの表れなんです。虐待を受けている子がそんな前向きな気持ちを抱くでしょうか? もっと落ち込んで、なにもする気にならないのではないでしょうか? 千佳ちゃんはとても利発な子ですし、わざと明るく振舞っているという感じにも見えないです」

 だから千佳の場合、虐待を受けているという通報自体、母親に対する嫌がらせなのではないかと担任は勘繰った。

「いつもきれいな服を着てますし。お風呂に入っていないとか、給食費の滞納をしているとか、そういうこともありませんよ。千佳ちゃんのお母さんは女手一つでよくやっていると思いますけどねえ」

 玄関側から裏へ回る。管理人だろうか。八十くらいの白髪の老人が庭の隅に座り込んでいた。その足元に、新聞で包まれたものが置かれている。新聞におびただしい数のハエがたかっていて、思わず顔をしかめた。
 老人からなるべく距離をとって、件の部屋を見上げた。ベランダに洗濯物が干されている。女性ものの他に子供用の衣服が熱気と湿気を含んだ風に揺られていた。たしかに担任が言う通り、ぱっと見、虐待している様子は見受けられない。

 スマホを見る。午後十六時半。夏休み。母子家庭で、近所に親戚縁者もいない。学童保育を利用しているという話もない。母親は近所の介護施設で午前八時から午後五時までパート勤務。友達もいないというのなら、家にいる可能性は非常に高い。それなのにこの暑さの中、エアコンの室外機が動いていないのはどういうわけか。電気代の節約のためにエアコンを切れるほど、今の日本の夏は生易しくない。

「あの……」と老人に声を掛けた。老人がゆっくり振り返る。眉を寄せ、怪訝な面持ちでこちらを見た。

「管理人さんでいらっしゃいますか? よかったら上の階にお住いの親子について、ちょっとお話を……」と切り出したところで、老人は皴深い顔をさらにしわくちゃにさせて嫌悪の表情を作った。

「知らんよ」

と、そっぽを向く。傍らの新聞紙にたかるハエを手で追い払うと持ち上げた。持ち上げた拍子に中身がズルっと滑って、包まれていたものが顔を出した。

「うわっ」

と、声が出て、その場に尻もちをついた。

 新聞から出て来たのは、黒い猫の頭だった。頭蓋骨が陥没して、飛び出た眼球がぶらぶらとぶら下がっている。割れた頭やら眼窩から白い小さなウジ虫たちが這いだしていた。
 そう言えばここの近所で野良猫やカラスが殺されて、死体がいくつもゴミとして捨てられていると話を聞いたような気がする。老人の手にしているものはまさにそれではないのか。
 こみ上げる悪心を飲み込んで老人を見る。老人はこちらを一瞥したあと、新聞から落ちかけたそれを「すまんな」と優しい声音で謝りながら中へと戻した。背を向けたまま「これは俺がやったんじゃないよ」と言った。

「部屋の前にこいつらを置いていくやつがあるんだよ。それも全部、避妊してあるやつだよ。立派な地域猫ってやつさ。それをな、殺して回る輩がいるんだよ。しかも俺が、その子らの面倒を看ているってのも知っててな。ひどい嫌がらせだろう?」

 老人はそう言って、新聞紙を丁寧に土の中へ置いた。手を合わせているのか、うつむき加減でしばらくじっとしたあと、掘り起こした土を戻していく。
 土を掛け終わると、老人は「よっこらせ」と立ち上がった。腰をぐんっと伸ばすようにして拳で二度ほどトントンっと叩いた。それから腰を抜かしたまま座り込むこちらを見て「あんた役所のもんかね?」と尋ねた。

「ああ……はい」

 答えながら立ち上がる。老人はしげしげとこちらを見たあと

「あの親子になんの用だね」
「お子さんが虐待を受けていると通報があったので、その確認に」
「そんなバカな話があるか、あの奥さんに限って」
「奥さん……千鶴子さんとはお知り合いなんですか?」
「俺はあの親子の下の部屋だからねえ。少しばかり話すことはあるよ。いつだったか、俺がこうやって猫の遺体を片付けていると、一緒に手伝ってくれたんだよ。かわいそうにってな。ポロポロ涙流しながらだぞ。あんな心の優しい人が自分の子供に手をあげたりするもんか」
「はあ。でも、虐待はなにも暴力をふるうことに限った話ではないので。育児放棄も立派な虐待ですから……」

 途端、老人はくわっと目を吊り上げて「とにかく」と強い調子で話を遮った。

「そんなもんはガセだ。わかったら、さっさと帰んな」
「自分も……そうしたいところなんですけど」

 来たくて来たわけじゃない。関わらなくて済むのなら、それが一番いい。苦笑いを浮かべて答えると、老人はふんっと鼻を鳴らして行ってしまった。
 いったいなんだったのか。腑に落ちないまま表に戻ると、老人の姿はすでになかった。

 やれやれとくたびれた思いで錆びついた鉄製の階段を上る。革靴でカンカンと階段を踏む音がやけに耳についた。
 階段をのぼりながら、それにしても……と思った。
 担任にしろ、先ほどの老人にしろ、母親の千鶴子に対する印象はすこぶるいい。彼らが言う通り、虐待の事実はないのかもしれない。ただ、さっき自分も言ったように、虐待の分類は多岐にわたる。肉体的な暴力だけが虐待とはみなされない。精神的なものも、経済的なものの、放置することも虐待にあたる。そういうことのほうが外には見えにくいし、得てして『そんな人には見えないいい親』が虐待をしているケースはまま多い。外には見えないように徹底して『良い母親』を演じることなどざらだ。だとすれば、どうやっても確かめるほかないではないか――半ばやけくそな気持ちで細く暗い廊下を進み、部屋の前に立つ。

 ふうっとひとつ息を吐き、呼吸を整えてからドアチャイムを鳴らした。喉が潰れたカエルの鳴き声のような汚い音がした。沈黙が落ちる。誰もいないのか。あらためて出直すべきか。迷って、もう一度チャイムを鳴らそうとしたとき、キイっと軋んだ音を立てて玄関の扉が開いた。

 数センチ開いた隙間から二つの目が見えた。薄闇に浮かんだ目は自分の目の高さとほぼ変わらない位置にある。開いた隙間からむあっとした空気が這い出てきた。生ごみが腐ったような饐えた臭い。思わず吐き気がこみ上げて、手の甲に鼻先を押し付けた。しり込みしたように自然と後ずさる自分へ「どちら……?」と怪訝そうな声で問われた。

「○○市役所福祉課の片山と言います。実はちょっとお伺いしたいことがありまして」

と説明するとすぐに「帰って!」とピシャリと跳ねのけられた。
 やはりか――と思った。出向いたところで「はい、どうぞ」と快く受け入れられる霊のほうが稀なのだ。

「あの……お時間は取らせませんから」

となおも食いついたが、相手の対応は素っ気なかった。

「必要ないです」

 相手はそう吐き捨てると大袈裟なくらいに派手に音を立てて扉を閉めた。扉の向こうは完全に沈黙し、徹底した拒絶の意を示している。こうなることが普通であり、想定の範囲内であることをすでに片山は承知している。
 郵便受けに名刺を入れて帰ることにした。とりあえず一度は訪問したという証拠は残しておかねばならないからだ。名刺を入れるとコトンッと乾いた音が響いた。

――これでいい。別に何もしなかったわけじゃない。俺はちゃんと話を聞こうとした。任務は完了だ。

 気持ちに折り合いをつけると、やってきた階段を降り、階下から件の部屋を見上げた。開く気配のない窓に、人の気配は感じなかった。
 また来ることになるのだろうか――そう思ったら、自然顔が曇った。ブンブンと頭を振る。開いた戸から漏れ出て来た腥い臭いが甦った。吐き気がこみ上げる。外でさえ、後ずさるくらいの臭いだった。いったい、中はどれほどだろう。冗談じゃないと思った。あの異臭の中に踏み込む勇気も責任もない。これ以上、率先して関わるのはやめよう。あとは上司に報告して終わりだ。

 振り返りもしなかった。ただ足早に帰路を急ぐ。その途中、スキップで通り過ぎるひとりの少女とすれ違った。年は十歳くらいだろうか。黒髪のきれいな面立ちの少女はおつかいの帰りらしく、重たそうなビニール袋を前後に振りながら片山の傍らを通り過ぎた。

「からすといっしょにかえりましょう」

という少女の可愛らしい歌声が耳に入った瞬間。

――え?

 片山の足は自然に止まっていた。ゆっくりと振り返って少女を見る。彼女は軽やかにステップを踏みながら、片山が来た道を辿っていく。白い半透明のビニール袋が彼女の歩調に合わせてガサガサと揺れ、その中身が浮き沈みする。大きく前後に揺れる袋。それを片山は凝視した。

 赤い汁みたいなものが底に溜まって、彼女の歩いた後に桃色の水滴の跡がぽちょん、ぽちょんと落ちていた。
 少女の後姿から目が離せなかった。すれ違いざまに一瞬嗅いだ血腥い臭いが、あの家の扉の奥から漂ったものに似通っていた。それにあの袋の中に押し込められた真っ黒い塊。袋の端からひょこん、ひょこんと見える黒光した羽先のようなもの。

 カアカア……空でカラスが鳴いた。息を呑んで空を見上げる。額から垂れる汗を拭いもせず飛んでいくカラスを目で追った。

――まさかな。

 引きつった笑みを浮かべながら、そんなわけがあるもんかと無理やり自分自身を納得させると、重い足を引きずるように再び歩き出した。


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