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親子の肖像
隣人
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翌日、時間を見つけて井田親子が住んでいるアパートへ出掛けた。目的は母親の千鶴子に会うことではなく、千鶴子が夜勤のときに千佳を預けているという隣人に話を聞くためだ。
隣人が井田親子には何の問題もないと言えばそれまでだ。通報はどこかの子供のいたずらだったとして片付ければいい。
――だが、問題があったら?
千鶴子が実際に虐待をしていれば行政として適切な措置――児童施設に一時保護などをしなければならないだろう。千鶴子ではなく、千鶴子の別れた夫が関与しているということであれば、親子を保護しなければならなくなるだろう。
しかし問題が千佳だったら……と考えが及ぶとすぐに頭を振って、その思考を頭の隅へと追いやった。考えたくない。それこそ不毛な話だ。子供がどれほど残酷な生き物になれる存在であれ、たかだか十歳程度の子供になにができるというのだ。そんな幼い子供が人殺しでもするのではないかと考えること自体、せんないことはない。それに香奈枝が信じている以上は信じていたかった。子供自身を信じたいというよりも、香奈枝の目を信じたいのだ。いや、信じるべきだ。どれほど己の心が違和感を訴えようとも。
アパートが近づくにつれて重くなる足を引きずるようにして向かうと、アパートの正面には軽トラックが一台停まっていた。不用品の引き取りなのか、青い帽子を被った中年男性二人がせっせと荷台に古い箪笥を積んでいるところだった。
その脇を通ってアパートの敷地内に入るとすぐのところに、野良猫の死体を庭に埋めていた老人が立っていた。彼は二階の扉の開いている部屋をぼんやりと見上げている。
「あの……こんにちは」
おずおずと老人に声を掛ける。彼はちらりと振り返ると「また、あんたか」とぶつっとこぼした。
「井田さんのお隣の方、お引っ越しされるんですか?」
片山の質問に、老人はふんっと鼻を鳴らして「そんなんじゃねえよ」と答えた。
「俺らみたいな身寄りのない独りもんの年寄りが、そう右に左にぽんぽん引っ越しなんざできるかよ」
たしかに……と納得した。八十近くの老人が後見人もなく賃貸契約はできないだろう。いや、それどころか今は四十代でも独り身の場合、賃貸契約を渋られるという。だから早めに分譲住宅を購入したほうがいいと同僚が言っていたのを思い出した。
荷台を見る。箪笥の他に小さな食器棚が積まれている。引っ越しでもないのに大きな家具が運ばれている。二階に上がった中年男性たちが、今度は古い二層式の洗濯機を抱えて出てくる。
「亡くなられたんですか?」
「それならいいがね」
老人は二階をじっと見つめたまま、吐き捨てるように答えた。
「どんな……方だったんでしょうか?」
「あんた、それを聞いてどうするね?」
老人が怪訝そうな表情を浮かべた。
「千佳ちゃんが……お母さんが夜間勤務のときにお泊りにいっていたと言うもんですから」
「あの子に会ったんかね?」
実際に会って話をしたのは香奈枝だ。自分は話を聞いただけである。
だが、嘘も方便だ。事実、老人の言葉が少しばかり和らいだような気がするのだから。
「ええ。とっても利発ないい子でした。お母さん思いですよね、あの子。実際に会ってみて、どうして虐待なんて通報が来たのかなって不思議に思いまして。その出所をちょっと探しているんですよ。ほら、そういう噂が広まって、いじめの対象になったら困りますから」
思ったよりも口が回った。老人は片山の嘘を信じたようだ。
彼は長くて深いため息を落とした後「重田の婆さんも寂しかったんだろうよ」とつぶやいた。
「重田の婆さん……」
「そうさな。あの人の生活自体もわびしかったろうが、なにより一人娘に先立たれて萎れてたからなあ。孫もいなかったし。そういう意味で、隣の親子の役に立てたのはこれ以上ないくらいうれしかったんだろうがね。ありゃあ、いかんわ」
「あの……重田さんはどうされたんです? 亡くなったんじゃないなら……」
「あんた、ナメクジを生で食べたらどうなるか知ってるかい?」
「え?」
唐突な問いかけだに咄嗟に答えを用意できなかった。ぽかんと老人を見返すと、彼はやれやれと言わんばかりに肩を落として続けた。
「まあ、ナメクジじゃなくてもいいや。カエルでもカタツムリでも。生で食べちゃならんもんを食べたらどうなるか、知ってるかね?」
「いえ……」
正直に答える。そもそも、そんなゲテモノを食べたいと思ったこともない。爬虫類や虫を素手で触るのも気色悪いのだから、食べるなど以ての外だ。こういうことを言うと、香奈枝は『男の子なのに』と笑うのだが、男だろうと女だろうと、苦手なものは苦手なのだ。
老人も同じように思ったのだろう。「そうだろうな。あんた、そんな顔してるよ」と苦笑した。
「寄生虫に感染しちまうのさ。そいつらはな、体の中でいろんな悪さをするんさ。早いうちに見つかれば対処もできるだろうけどな。訪問してくれる人もほとんどいない、家の外にも滅多に出ない年寄りさ。見つかったときには手遅れだ。あれじゃあ、生きていてもつらかろうがな」
もう戻って来られないだろうと老人は言って、ふうっと一息吐くと困ったように笑った。
「いたずら好きの子供になにかを食わされた……なんてことじゃなきゃあ、いいけどな。まあ、悪いことは言わん。あんたももう、ここには来ないことだよ。さもなきゃ、俺らみたいに身動きとれんくなるよ。自分が可愛いなら、ここらでやめときな」
ポンポンと老人は片山の肩を叩くと、自分の部屋に戻っていった。
動けなかった。老人の言葉が頭の中で何度も何度も再生される。
『いたずら好きの子供に何かを食わされた』
それは故意なのか。過失なのか。それともただの戯言なのか……
隣人が井田親子には何の問題もないと言えばそれまでだ。通報はどこかの子供のいたずらだったとして片付ければいい。
――だが、問題があったら?
千鶴子が実際に虐待をしていれば行政として適切な措置――児童施設に一時保護などをしなければならないだろう。千鶴子ではなく、千鶴子の別れた夫が関与しているということであれば、親子を保護しなければならなくなるだろう。
しかし問題が千佳だったら……と考えが及ぶとすぐに頭を振って、その思考を頭の隅へと追いやった。考えたくない。それこそ不毛な話だ。子供がどれほど残酷な生き物になれる存在であれ、たかだか十歳程度の子供になにができるというのだ。そんな幼い子供が人殺しでもするのではないかと考えること自体、せんないことはない。それに香奈枝が信じている以上は信じていたかった。子供自身を信じたいというよりも、香奈枝の目を信じたいのだ。いや、信じるべきだ。どれほど己の心が違和感を訴えようとも。
アパートが近づくにつれて重くなる足を引きずるようにして向かうと、アパートの正面には軽トラックが一台停まっていた。不用品の引き取りなのか、青い帽子を被った中年男性二人がせっせと荷台に古い箪笥を積んでいるところだった。
その脇を通ってアパートの敷地内に入るとすぐのところに、野良猫の死体を庭に埋めていた老人が立っていた。彼は二階の扉の開いている部屋をぼんやりと見上げている。
「あの……こんにちは」
おずおずと老人に声を掛ける。彼はちらりと振り返ると「また、あんたか」とぶつっとこぼした。
「井田さんのお隣の方、お引っ越しされるんですか?」
片山の質問に、老人はふんっと鼻を鳴らして「そんなんじゃねえよ」と答えた。
「俺らみたいな身寄りのない独りもんの年寄りが、そう右に左にぽんぽん引っ越しなんざできるかよ」
たしかに……と納得した。八十近くの老人が後見人もなく賃貸契約はできないだろう。いや、それどころか今は四十代でも独り身の場合、賃貸契約を渋られるという。だから早めに分譲住宅を購入したほうがいいと同僚が言っていたのを思い出した。
荷台を見る。箪笥の他に小さな食器棚が積まれている。引っ越しでもないのに大きな家具が運ばれている。二階に上がった中年男性たちが、今度は古い二層式の洗濯機を抱えて出てくる。
「亡くなられたんですか?」
「それならいいがね」
老人は二階をじっと見つめたまま、吐き捨てるように答えた。
「どんな……方だったんでしょうか?」
「あんた、それを聞いてどうするね?」
老人が怪訝そうな表情を浮かべた。
「千佳ちゃんが……お母さんが夜間勤務のときにお泊りにいっていたと言うもんですから」
「あの子に会ったんかね?」
実際に会って話をしたのは香奈枝だ。自分は話を聞いただけである。
だが、嘘も方便だ。事実、老人の言葉が少しばかり和らいだような気がするのだから。
「ええ。とっても利発ないい子でした。お母さん思いですよね、あの子。実際に会ってみて、どうして虐待なんて通報が来たのかなって不思議に思いまして。その出所をちょっと探しているんですよ。ほら、そういう噂が広まって、いじめの対象になったら困りますから」
思ったよりも口が回った。老人は片山の嘘を信じたようだ。
彼は長くて深いため息を落とした後「重田の婆さんも寂しかったんだろうよ」とつぶやいた。
「重田の婆さん……」
「そうさな。あの人の生活自体もわびしかったろうが、なにより一人娘に先立たれて萎れてたからなあ。孫もいなかったし。そういう意味で、隣の親子の役に立てたのはこれ以上ないくらいうれしかったんだろうがね。ありゃあ、いかんわ」
「あの……重田さんはどうされたんです? 亡くなったんじゃないなら……」
「あんた、ナメクジを生で食べたらどうなるか知ってるかい?」
「え?」
唐突な問いかけだに咄嗟に答えを用意できなかった。ぽかんと老人を見返すと、彼はやれやれと言わんばかりに肩を落として続けた。
「まあ、ナメクジじゃなくてもいいや。カエルでもカタツムリでも。生で食べちゃならんもんを食べたらどうなるか、知ってるかね?」
「いえ……」
正直に答える。そもそも、そんなゲテモノを食べたいと思ったこともない。爬虫類や虫を素手で触るのも気色悪いのだから、食べるなど以ての外だ。こういうことを言うと、香奈枝は『男の子なのに』と笑うのだが、男だろうと女だろうと、苦手なものは苦手なのだ。
老人も同じように思ったのだろう。「そうだろうな。あんた、そんな顔してるよ」と苦笑した。
「寄生虫に感染しちまうのさ。そいつらはな、体の中でいろんな悪さをするんさ。早いうちに見つかれば対処もできるだろうけどな。訪問してくれる人もほとんどいない、家の外にも滅多に出ない年寄りさ。見つかったときには手遅れだ。あれじゃあ、生きていてもつらかろうがな」
もう戻って来られないだろうと老人は言って、ふうっと一息吐くと困ったように笑った。
「いたずら好きの子供になにかを食わされた……なんてことじゃなきゃあ、いいけどな。まあ、悪いことは言わん。あんたももう、ここには来ないことだよ。さもなきゃ、俺らみたいに身動きとれんくなるよ。自分が可愛いなら、ここらでやめときな」
ポンポンと老人は片山の肩を叩くと、自分の部屋に戻っていった。
動けなかった。老人の言葉が頭の中で何度も何度も再生される。
『いたずら好きの子供に何かを食わされた』
それは故意なのか。過失なのか。それともただの戯言なのか……
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