上 下
1 / 1
琥珀のブローチ

第1話

しおりを挟む
 ここにあって、ここではない場所。
 
 扉一枚向こう側。七色の橋を越え、水鏡のあわいを潜り、千年樹の洞を抜けた先に在る、もう一つの世界。もう一つの現実。
 
 人と神と妖が共に生きるその世界を、私達は『幽世かくりよ』と呼ぶ。
 

♢♢♢♢♢


 朝六時、太陽が昇り切る前に表の扉を開ける。
 よく手入れのされた扉はカラカラと音を立てて開き、薄暗い玄関にさっと眩しい朝日が差し込む。
 どうやら昨晩は雨が降ったらしい。燦々さんさんと降り注ぐ陽光の下、門扉へと至る滑らかな敷石と玉砂利は艶々と濡れた輝きを放ち、前庭ぜんていの隅に植えられた白水仙はその喇叭らっぱのような花を朝露に煌めかせている。澄んだ空気に甘く香るのは、門の脇に植えられた背の高い蝋梅ろうばいだ。今が盛りとばかりに咲き誇る梅の木のすぐ隣、未だ蕾の桜の大樹も、今朝ばかりはどこかあでやかに、その固い花芽に雨滴を纏わせていた。

 ――良かった、今日も良いお天気になりそう。

 下駄を履きながら出てきた少女――椎名ゆかりは、そんな朝の景色ににっこりと笑うと、箒片手にぐっと背筋を伸ばす。年の頃は十七、八程だろうか。柔らかな黒髪をお団子に結い上げ、華奢な体に淡い桜色の紬を纏った、愛らしい見目の少女である。彼女は早春の爽やかな風を胸いっぱいに吸い込むと、持っていた箒で玄関先を丁寧に掃き清め始めた。敷石の間に入り込んだ小石を一つ一つ取り除き、風雨で荒れた玉砂利を綺麗に均していく。合間に雑草を抜く手付きにも迷いはなく、堂に入った箒捌きは、彼女がこの作業に慣れていることを伺わせた。

 ――一つ。朝の始まりは、朝日と共に身近なところの掃除から始めること。

 ゆかりは胸中でそっと呟く。その言葉は、今となっては遠い昔、彼女がこの幽世で暮らし始めた頃に優しい神様と交わした、幾つかの『約束事』の一つだった。勿論、『身近なところ』であるから掃除する場所は玄関先でなくても良いのだが、屋敷の中でも一番最初に朝日を浴びられるこの場所を、ゆかりは殊の外気に入っていた。そのため、彼女の朝はいつもこうして、太陽に照らされた敷石と玉砂利の上から始まるのだった。
 
 一頻り掃除を終えたゆかりは、一つ息を吐くと額に滲んだ汗を手の甲で拭う。手早く箒とちりとりを玄関脇に片付けた彼女は、次いで軽い足取りで、門扉の脇に据え付けられた郵便箱へと歩いて行った。
 薄水色の郵便箱は、普通の家に付けられているものとは少しばかり形が違っていた。まず縦横共にとても大きく、まるで現世の郵便ポスト程も大きさがある。加えて、その側面には無骨な南京錠が取り付けられていて、広い片面が丸ごと開くように設計されているのだった。
 ゆかりは懐から鍵束を取り出すと、銀色の大きな鍵を選び出して南京錠に差し込む。かちりと音がして開いた郵便箱の中、ぽつんと入っていた薄茶色の封筒を手に取ったゆかりは、表に書かれた宛先を見て、その焦げ茶色の瞳をきらりと輝かせた。

一華いちか相談所 御中』

 どこにでも売っていそうな茶封筒には、角張った文字でそう書かれていた。切手も消印もないその封筒に、しかしゆかりは動じた様子もなくその場で封を切ると、黙って中身に目を通していく。便箋一枚に収まる短い手紙には、封筒と同じ筆跡で次のような文章がしたためられていた。

『拝啓 一華相談所 相談員の皆様

 長らくご無沙汰をしております。
 我楽がらく一座の小紫こむらさきでございます。

 さて、この度ご連絡を差し上げたのは、我が一座の変事ということではなく、私の妻に関するご相談を貴相談所にさせていただきたいと考えたためでございます。
 おヒイ様は御存知の通り、私は昨年人間の娘を伴侶に迎えております。彼女には頼れる身内がなく、私もこういった”困りごと”の際に頼る先が、貴相談所以外に思いつかなかった次第です。

 もしも詳しいお話を聞いていただけるようでしたら、明日××日の午後、妻と二人でそちらまで伺わせていただきます。
 難しいようでしたら、その旨を一座宛にお申し付けください。

 それでは、色よいお返事がいただけますことをお待ちしております。

 我楽一座 小紫 敬具』

 ゆかりは手紙を一度、二度と読み返すと、おもむろに懐から小さな木彫りの笛を取り出して音高く吹き鳴らした。甲高い汽笛のような笛の音は、門前から屋敷まで広く響き渡って、春の風の中に溶けて消えていく。その音色が鳴り止むのを待つことなく、少女は笛と一緒に取り出した一筆箋いっぴつせんに万年筆でさらりと了承の旨を綴ると、長細い紙を更に細く折り畳んで結び文の形に整えた。
 そこまで迷いなく行動してから、待つことしばし。パタパタと聞こえた軽い羽音に、ゆかりは顔を上げると屋敷の上空を仰いだ。青空の中、屋根の上から飛んできた一羽の烏の姿に、彼女は小さく笑って腕を差し出す。

「おはよう、烏。朝から呼びつけてごめんね」

 烏はゆかりの腕の上に止まると、カァ! と一つ元気な鳴き声を上げた。気にしなくていいよ、と言いたげなそれに穏やかな笑みを返したゆかりは、結び文を片手で器用に鳥の足に巻き付けると、「お願いできる?」と黒い嘴をつつく。

「我楽一座の小紫さんのところまで。急ぎでお願いね、烏」
「カァ!」

 任せて、と言っているのだろう。短い首を上下させて頷いた烏は、夜色の羽を広げて青空に飛び立っていく。黒い姿が空の向こうに飛んでいくのを見送ったゆかりは、郵便箱の扉を閉めると鍵束を懐にしまいこんだ。そのまま屋敷へ戻ろうとした彼女は、しかしふと感じた慣れ親しんだ気配に、キョトンと目を瞬くとぐるりと首を巡らせる。

 屋敷の前を通る道路は、車が二台すれ違えるほどに広く、立派なものだった。煉瓦敷きの表通りまで出て道の向こうを見つめていたゆかりは、やがて角を曲がって現れた姿に、パァッと顔を輝かせてそちらへ駆け寄る。

「おはようございます、水神様」
「あぁ、おはよう。我が愛し子や」

 果たして、通りの向こうから歩いてきたのは、ゆかりよりも頭二つ分は背が高い、美しい青年であった。しなやかな体を藍色の着物に包み、波打つ黒い長髪は襟元で無造作に束ねている。怜悧れいりな美貌は人間で言うなら二十代半ば程に見えたが、縦に瞳孔の開いた金色の瞳が、彼が人ではなく神であることを示していた。
 水神はゆかりの挨拶に唇を綻ばせて笑うと、大きな手を伸ばして彼女の頭を優しく撫でる。そのまま少女の手元に目を移した水神は、その手に握られた書簡に僅かに目を細めた。

「その封筒は……あぁ、が来たのだな?」
「えぇ、先程烏に返事を持たせたところです」
「そうか」

 ゆかりの返答に鷹揚に頷いた水神は、またくしゃりと彼女の髪を撫でると「頼んだぞ、我が愛し子よ」とどこか楽し気な口調で笑う。

「この幽世の『困りごと』は、私にとっても実に良い暇つぶしだからな。どうか楽しませておくれ」
「相談者の方にとっては真剣な『困りごと』なんですが……はい、善処いたします」

 神らしい傍若無人な言い草に、ゆかりは仄かに苦笑を浮かべて頷いた。そのまま二人並んで屋敷へ向かって歩き出しながら、彼女は手に持った書簡に反対の指先でそっと触れる。

 ――水神様が楽しいかどうかは、ともかくとして。折角私達を頼ってくれるのだから、助けになれればいいのだけれど。

 ひとまずは、今日の午後に話を聞いてからだ。考え、自身を落ち着かせるようにゆかりは深く息を吐き出す。そんな少女を面白がるように、けれど見守るように、水神は優しい瞳で彼女を見つめるのだった。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...