魔法学校の城に囚われている想い人♡を救い出して結婚したい天才有能美形魔術師(強火執着)の話

ぱふぇ

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 俺は自分で言うのもなんだが極めて優秀な魔術師だ。
 謙遜しても始まらないので素直に認めることにしている。
 二十六歳にして、秘術省マギストリー秘術統制局レギメンの最年少上級職位。専門は呪い解き、いわゆる解術師ってやつで、まあ腕には自信がある。局が半世紀かけても解けなかった呪いを入局三年目で解いたのは俺だし、六世代にわたってある公爵家を苦しめていた血統呪いを断ち切ったのも俺だ。重層呪術解術に関する俺の論文は十七の学術誌に引用されている。去年の春には勲章を賜った。式典では王太女殿下ご自身が俺の手を取って「王国にとって計り知れない財産」と呼んでくださった。
 ……ちなみに美形だとも評される。漆黒の髪に青い目。どちらも効果的に使う術は心得てる。

 さて、ここでひとつ断っておきたいことがある。
 見目がよく才能にも恵まれていると、誰もが俺の人生は完璧に違いないと思い込む。さぞかしおモテになるんでしょう? 王国中の誰でも選り取りみどりでは? そんな目で見てくる。
 否定はしない。確かにモテる。選択肢には困らない。
 ただ問題がある。十二年前に恋した相手が、いまだに俺のものになってくれないってことだ。

 俺はパドリグ・ウインズロー。華やかな経歴にしては田舎くさい地味な名だと思ったならその通り。逆名前負けってやつだ。
 今は馬車に揺られ、小窓の外を流れていく鬱蒼とした森を眺めてる。
 月に二度、都合がつけば三度、俺はこの道を行く。王都から王立魔術学院へ。国で最も格式高い教育機関であり、俺の母校でもある。
 王都の転移門を使えば森の入口までは一瞬だが、そこから馬車で一時間かかる。どんどん深くなっていく森を抜け、やがて樹冠があまりに厚くなって真昼なのに夜が来たのかと錯覚するほど。俺にはたまらなく心躍る道のりだ。
 木々が疎らになり、見えてくるのは七つの尖塔が鉛色の空を貫き、不機嫌な老竜がうずくまるように鎮座するゴシック建築の威容。たいていの人はこの城を陰鬱だと感じる。俺は大好きだ。七年間を過ごした我が家なんだから。人生でもっとも幸せな時期だったと言える。田舎の孤児院で過ごした極貧生活を思えば尚更だ。魔力だけが有り余った行き場のない孤児に、ある日突然王室の慈善事業による奨学金制度が差し伸べられたら……それはもう救いの手としか思えない。

 表向きの話をすると、俺は統制局レギメンの上級解術師として学院の保管する複雑な呪物の案件に対応するために訪れている。
 本当の目的は別にあるんだけど、それについては追々。

 馬車が止まり、御者がドアを開ける前に俺は局の制服の襟を正し、髪を撫でつけて、それなりに威厳のある表情を作った。よし完璧だ。今日も俺は俺であるべき姿をしている。天才にして有能、おまけに美形の稀代の魔術師だ!
 学院の中庭はローブ姿の生徒たちでにぎわっていた。噴水の縁に腰掛けていた女子の一団が、秘術省マギストリーの紋章入り馬車に気づいて顔を見合わせる。三年生かな。もしかしたら四年生かもしれない。俺が降りると、ひそひそ話は控えめではなくなった。

「うそうそうそ、あれって……」
官報ガゼットに載ってた天才呪い解きの……」
「ほら言ったでしょ、第二と第四の週末にいらっしゃるって!」
「実物の方が断然……」

 俺はニコッと、最高に感じのいい笑顔を召喚した。卒業生が後輩に愛想よくするのは礼儀だからね。

「やあ諸君」

 三人が頬を染め、一人は教科書を盾のように抱えて悲鳴を上げた。かわいいね。

「こっ、こんにちは、ウインズロー様!」
「勉強頑張ってるかな? もうすぐ学科試験だよね」
「はっ、はい!」
「よろしい。その調子で。王国は優秀な魔術師を必要としているからね」

 俺はウインクする。十代の女の子たちがリンゴみたいな色になるのを見るのが好きな、趣味の悪い大人だから。
 その結果生じたキャーキャーは、おそらく最上階の教室まで届いただろう。

「あ、あのっ! 公爵家の血統呪いの記事、魔術時報で読みました! 二世紀分の重層呪術を一回の施術で解いたって……」
「ああ、あれね」

 あの呪いを解くのに一年四ヶ月の調査、二ヵ月の術式構築を要し、十六時間ぶっ通しの解呪作業で目から血が出て、片耳が一時的に聞こえなくなった。呪い解きとはそういう仕事だ。理論は研究室で組み立てるが、実際の解呪は演算能力と体力勝負。脳を絞りすぎれば血管が破れるし、下手したら精神汚染されて廃人になる。または死ぬ。わりとあっさり。

「厄介な案件だったよ。重層呪術を解くコツはね、どの層が構造全体を支えているかを見極めることだ。順序を誤ると内側から崩壊する。術者の正気を道連れにしてね」

 彼女たちは食い入るように聞いてる。悪い気はしない。

「論文も素晴らしかったですっ。授業の課題で拝読して……私、初級解術理論を取ってるんです」
「光栄だな。呪い解きを専門にすることを考えているのかい?」
「は……はい、実は……」
「素晴らしい。正直死亡率を考慮すると給料は侮辱的な水準だけど、やりがいだけはあるよ」
「計算処理の適性が足りるかわかりませんけど……」
「訓練できるよ。入局試験は厳しいけど、学院は省庁への橋渡しにかなり協力的だ。まず標準課程を上位の成績で修了すること。算術系で受講できるものは取れるだけ取ること。……あとひとつ、今のうち良い治癒師を見つけて友達になっておくのをお勧めするよ。君をこの先何度も『修繕』してくれる人間が必要になるし、どうせなら君のことを心から気にかけてくれる誰かのほうが心強いだろ?」

 俺が軽やかに微笑むと、彼女の顔が青くなった。あ、引かれたかな。いいよいいよ、この仕事はちょっとネジが緩んでないと続かないから。
 最高の解術師というのは、強大な魔力の持ち主でも天才的な学者でもない。極度の肉体的苦痛に耐えながら複雑な算術ができる人間だ。エレガントな職業だと思わない?

「六年生になったら省の予備審査プログラムに出願するといい。前提条件はペンブローク先生に確認して。提出する論文ができたら――この住所に俺宛でふくろう便を送って」

 名刺を一枚抜き出す。裏には秘術省マギストリーの紋章と、連絡窓口が小さく印字されている。

「その時は、目を通してコメントつけて返すよ」
「本当ですかっ!? そこまでしていただけるなんて……」

 それをきっかけに他の子からもキャリアパスや推薦状についての質問が始まり、矢継ぎ早に飛んでくる問いにひとつひとつ答えていく。

「……っと、残念だけどそろそろ失礼しないと。長々と引き止めてしまったね」
「ウインズロー様、今日は省庁のお仕事で?」
「そんなところかな。ハウベオル先生とお約束があるんだ」

 その名前を出した途端、目に見えて集団に波紋が広がった。

「ドゥーガル・ハウベオル先生……?」
「戦闘術師の……あの『攻城崩しジャベリン』の?」
「その通り」
「あの人、ワイバーンを素手で殺したって噂……本当なんですか?」
「実際はコカトリスで、折れた杖を物理的に使ったそうだけど、まあ概ねそうだね」
「敷地から出られないって本当ですか、例の――」
「悪いね、本当に行かないと」

 コートの裾を翻す。

「いつか局で会えるのを楽しみにしてるよ」

 少女たちの憶測を残して、俺は颯爽とその場を去った。
 なんで行政執行官が隔週で学院の防衛術教官を訪ねてくるのか、不思議に思ってるだろうね。

 真相はいたってシンプルだ。俺は職権乱用して好きな人に会いに来ている。それだけ。
 そう。俺は昔の恩師に恋をしている。
 かれこれ十二年間、片思い。普通なら諦めると思うだろ?
 残念でした。俺は粘り強いのだ。

 最終学年向けの上級クラスは、本館から回廊で隔てられた東の塔で行われている。城が学校ではなく要塞だった時代の名残だ。
 講義中につき施錠されてるドアを静かにすり抜けて(学生時代の数々の不品行で身につけた技だ)、円形劇場式の階段席の一番後ろにそっと腰を下ろした。近くの生徒がこちらに気づいて目を丸くしたので、俺は共犯者めいたウインクとともに唇に指を当てる。
 懐かしいなあ。俺もこのクラスを受講してた。当時の俺は最前列に座ってたけど。上級防衛・戦闘応用は執行官を目指すには必修だ。
 さて。前方の講壇に杖を手にして立っているのは、俺の心を奪って離さないその人。
 ドゥーガル・ハウベオル先生。今年で四十八歳になる。
 でかい。それがいつも最初に目につく。現役を退いても衰えない、190センチの肉体による圧倒的な存在感。髪は今では鋼のような灰色で、何かの難解な理論に頭を悩ませながら手で何度もかき上げたかのように、いつもどこか乱れている。俺の指でもっとぐちゃぐちゃにしてあげたい。

 ハウベオル先生は防御陣について説明を続けている。

「――盾の陣は反撃に先立って確立しなければならない。同時ではなく、先に。つい攻撃術式を優先したくなるが、それでは0.5秒の隙が生まれる」

 生徒の一人が手を挙げる。

「実戦の混乱下なら、0.5秒の遅延は有意な差にならないのでは?」
「いいや」

 補足説明はなかった。その必要がない。先生は教職に就く前は王立戦闘術師団WARDENの筆頭術師だった。その人が0.5秒の差で死ぬと言うなら信じることだ。
 先生の目が教室全体を見渡し、生徒たちの理解度を測っている。
 目が合った。

 どうも先生。俺です♡

 口の形だけで伝える。
 一秒にも満たない時間、先生の背後で黒板に板書をしていた自動書記のチョークが止まる。そしてまた何事もなかったかのように動き出す。
 返事は期待してない。講義中には絶対にくれないってわかってる。真面目すぎる人だから。そういうところも含めて好きなんだけど。まあ先生のことは何もかも好きなんだけどね。正直なところ。
 ドゥーガル・ハウベオルという男の好きなところを列挙したら、きっと書物の何巻分にもなる。特に好きなのはわからない冗談を言われたときの、眉をひそめて小首を傾げる困惑した表情。この人は同世代で最も傑出した野戦術師ウォーデンで、術師の一個小隊を単独で足止めできる実力者なのに、その厳つい見た目に反してびっくりするほど天然なところがある。

 かわいい。
 結婚したい。
 法的に結びつく以上のこともかなりしたい。

 十分後に講義が終わる。俺は席から立ち上がり、コートを正す。秘術統制局レギメンの正装、袖口に上級職位を示す銀糸の刺繍。生徒たちが退出し始め、何人かは通りすがりに俺をまじまじと見ている。

 俺たちだけになった。
 ハウベオル先生はこちらを見ない。几帳面な手つきで黒板を消している。

「……パドリグ」
「はい先生♡ 俺が来ましたよ♡ お元気そうでなによりです」

 俺は階段教室の段を一段ずつ降りていく。余裕のある足取りで、洗練された雰囲気を心がけて。

「もう学生じゃないんだ。そう呼ばなくていい」
「でも呼びたいんです。『先生』って響きがいいじゃないですか。スキャンダラスな感じが好きなんです♡ 想像してみてください。『あのパドリグ・ウインズロー、元教え子のくせに恩師にしつこく言い寄って。恥というものがないのか』、なんて噂が立ったら最高じゃないですか」

 先生が振り向いて、じっと見てくる。生徒たちを震え上がらせるあの眼差し。俺には逆効果だ。ああもう、かわいいな。何時間でも見つめ合っていられますよ。

「……生徒に聞こえる場所でそういうことを言うな」

 先生は諦めたように黒板に向き直り、残りの術式図を必要以上の力で消しにかかる。
 俺はこの機会にじっくりと後ろ姿を堪能する。広い肩幅。教員用のゆったりしたローブを着ていても隠しきれない元軍人の身体。

「何を見ている」
「先生です。先生ってすごく見ていたくなります。誰かに言われたことありませんか?」
「……」

 返事はない。先生は黒板消しを定位置に戻し、教卓の書類を手早く揃えた。

「土曜日に来ると思っていたが」
「案件が早く片付きまして。先生から離れていられる時間にも限度があるんですよ」
「今日は食べたか?」
「まだです。局から直行してきたので」
「私の部屋にパンとチーズがある。乾燥リンゴもあるかもしれん」

 これがハウベオル先生流の遅い昼食へのご招待だ。

「先生、今、先生のお部屋で二人きりで食事しないかって誘ってます? すっごくスキャンダラスですね。噂になりますよ♡」
「誰も噂しない。誰も気にしていないからだ」
「俺は気にしてますよ、すごく。先生のお部屋の敷居をまたぐたびにちょっとした興奮を覚えます」

 先生は無言のまま資料を小脇に抱え、俺がついてくるかどうか確認もせずにドアへ向かった。

 先生の居室は城でも最古の塔にあって、訪問者を思いとどまらせるためにわざと選んだんじゃないかと思うような狭い螺旋階段を上らないとたどり着けない。
 部屋の中は昔と変わらない。学生の頃、訪ねる口実を必死に考えては足繁く通っていたあの頃のまま。質素だけど落ち着く。元軍人らしくきちんとしている。書き物机、暖炉の前にテーブルと椅子が二脚、棚という棚には高度解術理論の専門書がぎっしり。
 奥のドアが少しだけ開いていて、整えられたベッドの端が見えた。……俺はまだあの部屋に招かれたことがない。そのことが静かに俺を焦がしている。入りたい。具体的にはベッドに、二人とも服を着ていない状態で。
 
 行儀が悪いとは思いつつ、俺は先生に促されるより先に肘掛け椅子の片方に腰を下ろした。とはいえこれはほぼ俺専用席だ。十年通い詰めればそのくらいの権利は発生するものだと思いたい。
 先生は魔法陣の上にやかんをかけ、戸棚からパンを取り出した。慣れた手つきで耳を落とし、薄く切り分けていく。
 俺はその後ろ姿を眺めながら、また性懲りもなく脳内で先生の好きなところを数え上げていた。俺が飯抜きで来るたびに、何も言わず紅茶とサンドイッチを出してくれるところ。七年前にたった一度「耳なしのほうが好きです」と言っただけなのに、こうして当然のようにパンの耳を落としてくれるところ。クソッ、駄目だ。本当に結婚したい。それって贅沢な望みかな? 俺はいい相手だと思いますよ、先生。顔も稼ぎもキャリアの見通しも素晴らしい。俺養いますから全然。家事だって喜んでやります。掃除も洗濯も得意です。どうですか。

 やがて先生が聞いた。

統制局レギメンはどうだ」
「相変わらずですよ。今月は解術案件が二件。一件目は例のごとく屋敷の相続財産がらみの呪物で欠伸が出るほど退屈だったんですが。二件目は大臣閣下の朝のダージリンになかなか凝った暗殺呪が編み込まれてましてね、まあまあ面白かったです」
「財務卿の件か」
「ご存知なんですか? さすが耳が早い」
「お前の仕事の話は全部聞いている」

 先生は何でもないことみたいに言った。俺の活躍を追ってくれているとそういうことですか先生。俺は衝動的にテーブルを飛び越えそうになる体を押さえるため、端を両手で掴まなければならなかった。

「先生……ッ!! そういうことをさらっと言わないでください」
「なぜだ? 事実だ」
「だって死にますよ俺。ここで、先生の居間で、俺が死んだらどうするんですか。秘術省マギストリーに最高の解術師が心臓発作で死んだ理由を説明する羽目になりますよ」
「死なん」
「わからないじゃないですか。俺はこう見えてとても繊細なんです」
「お前は以前等級五の呪いの解除中に三箇所から出血しながらも意識を保っていただろう」
「感情的に繊細なんです。肉体的には不滅ですが。先生はそんな俺の心を猫が毛糸玉を転がすみたいに弄び続けてるんですよ。自覚あります? ないでしょうね」

 先生はやれやれという風に首を振った。でも俺にはわかる。口元がほんの少し緩んでいる。気を許しているときのサインだ。かわいい。キスしたいな。耐えろ。十二年待ったんだからもう少し待てる。でもああ、つらい。

「今週はいかがでしたか?」
「問題ない」
「問題ないだけですか? 前回から何か変わったことは? 奇妙な夢を見たとか。あるいはそうですね、先生を崇拝してやまない献身的な元教え子について、真夜中にふと思うところがあったとか」
「いいや」
「どれに対してですか?」
「全部だ」
「んー、信じませんね。絶対に真夜中の気づきはあったはずです。目を見ればわかりますよ♡」
「ない」
「最近何か面白いもの読んでます?」
「結界調和論に関する論文を」
「スリリングですね。俺以外の来客は?」
「学院長が書類を持ってきた」
「きらびやかな社交生活ですね」
「私は孤独を好む」
「嘘つき。先生が好むのは選択的な人付き合いです。人混みは嫌い、中身のない世間話をする人も嫌い。でも一緒に沈黙を共有できる誰かがいるのは嫌いじゃない。俺がここにいる間、答案を採点するの、お好きでしょう。俺が王都から持ってくる話を聞くのも。城の外の世界なんか興味ないふりしてますけど、絶対気にしてる」
「私が何を好むか、随分わかっているつもりだな」
「十二年間研究してきましたから。あなたに関しては、俺がこの世で一番のエキスパートです♡」

 楽しいお喋りの合間にサンドイッチが完成した。先生が皿に載せてローテーブルまで運んでくれる。厚切りのブラウンブレッドにハムとチーズ、リンゴのスライス。昨夜上司に引きずられて出席させられたディナーパーティーのどの品よりも格段に美味しそう。
 先生は次にティーポットとカップを手に取った。注ごうとしたその瞬間、手が小さく震えた。

「おっと、」

 俺は反射的に杖を抜き、無詠唱の静止ステイシスを放つ。先生の指から滑り落ちたカップが石畳に激突する寸前、凝固した時間の膜に包まれて止まる。

「……」

 ハウベオル先生は思い通りにならなくなった指先を見つめながら、じっと立っていた。
 先生のお体は日によって調子が違う。今日は少し良くない日なのかもしれない。

「大丈夫ですよ。ほら? 問題なしです。こういうこともありますよ」

 俺は杖を弾いてカップを浮かせ、テーブルの上のソーサーに着地させながら明るい声を出した。
 先生は何も言わなかった。
 こういう時のために用意してきたものがある。

「そうだ、お土産を持ってきたんでした」

 鳴り物入りで鞄から取り出したのは、中身が潰れないように慎重に布で包んである、洒落た紙箱。

「何だ」
「シュークリームです。水銀灯通りに新しくできたパティスリーの。とても並ぶんですよ。先生の分を確保するためにちょっとだけ職権を乱用したのは内緒です♡」

 先生を訪ねる日は必ず流行りの菓子を持っていく。俺の中での鉄則だ。
 先生が甘いものに弱いと知ったのは全くの偶然で、三年生の時だった。冬至祭の贈り物にと思ってなけなしの金をはたいて上等なチョコレートを買った。買ってよかった。
 
「……毎回手土産は不要だと言っている」
「先生が美味しそうにお菓子を召し上がるのを見るのは俺の人生の喜びなんです。奪わないでください。さて、サンドイッチいただいても?」

 というわけで一緒に食べた。
 先生はシュークリームを、俺は先生お手製のサンドイッチを。ひと口ずつ愛情を噛みしめて味わった。ふと見ると先生が指先についたクリームをぺろりと舐め取っていた。かわいい。かわいすぎる。ありえないほどかわいい。この人に一生お菓子を食べさせたい。
 皿が空になり、紅茶のお代わりも冷めた頃。俺はカップをソーサーに戻して口を開いた。

「ご馳走様でした。……では、お約束がありましたよね?」

 先生の表情がすぐに硬く閉ざされた。予想通り。
 約束というのは、俺が先生の呪いを検査すること。これが秘術省マギストリーが俺の出張申請を承認する理由でもある。

「意味がない」
「いつだって意味はありますよ、先生。俺は毎日研鑽を重ねて上達してるんです。診させてください」
「パドリグ……」
「お願いします」

 「お願いします」が効いた。いつも効く。ドゥーガル・ハウベオルはいかなる拷問にも屈しない男だが、教え子の真摯なお願い(と俺の顔)には無力だ。
 先生は苦い顔でため息をつくと、部屋の隅へ歩いていった。石の床に恒久的に刻まれた術式陣。その中央に立ち、ローブの留め金を外す。シャツのボタンにも手をかける。
 先生の上半身裸は見慣れている。何度も。何年も。率直に言って猥褻としか形容できない量の筋肉が目の前に晒されているわけだが、今さら動じたりはしない。俺はいつものように、この人の現実と対峙する。先生の体は美しい。そしてそこに、腰から肩にかけて左半身に絡みつくグロテスクな花の蔦みたいに、呪いがある。

 過去わずか十二事例しか記録されていない、等級七指定の禁制呪。
 等級七。研究目的で文献を閲覧するだけでも秘術省マギストリーの特別許可が要る代物だ。それを体内に宿して持ち歩くなど言うまでもない。書類上、ドゥーガル・ハウベオルは秘術省マギストリー管理下の呪物ということになっている。
 犠牲者を内側からゆっくりと蝕みながら、その過程の苦痛を一瞬一瞬味わわせるよう設計された、悪意ある魔術工学の傑作だ。
 
 野戦術師ウォーデン時代、ハウベオル先生は直撃を受けた。先生が割って入らなければ蒸発していたはずの若い術師たちの部隊を庇って。
 先生は生き延びた。かろうじて。呪いは寄生植物のように全身に根を張り、それ以来先生を診た癒し手も解呪師も、誰ひとり除去できなかった。
 最終的な診断はこうだ。呪いを取り除けば先生は死ぬ。王国の対応は、先生を学院の敷地に閉じ込めることだった。霊脈レイラインを動力源とする城全体の防御結界が呪いの進行を鈍化させる。深刻な魔術汚染体の管理場所として安全要件を満たすのに十分な僻地で、ゆっくり死んでいく以外のやることを与えてくれる程度には学術的。
 だから先生はもう十五年もここにいる。王国は体裁を繕うために「保護」と呼んでいるが、実態は軟禁だ。国の英雄が、事実上の囚人として。去れない。旅もできない。王都にも、評判のパティスリーにも、俺が連れて行きたいと思う千もの場所のどこにも行けない。入学しては卒業していく生徒たちを教え、庭いじりをし、塔の小さな部屋で季節が巡るのを眺めている。

 俺はそんな人に恋をしている。

 俺は十三歳で学院に来た。死に物狂いでもぎ取った奨学金を引っ提げて、名家の子女たちの中に紛れ込んだ慈善枠。才能と野心はあったがそれ以外は何もなかった。家名も、コネも、落ちこぼれた時に受け止めてくれるセーフティネットも。俺の姓、ウインズローは家名じゃない。育った孤児院の名前だ。絶対にあそこに戻るつもりはなかった。だから勉強した。指から血が出るまで書き、魔力が枯渇するまで杖を振った。全ての試験で満点を目指した。血統がなくたって何者かになるんだという一心で。否定しようがないほど優秀に、卓越して、世界が俺のための席を用意せざるを得なくなるように。
 学期ごとの長い休みになると、寮生たちはトランクを詰めて家族のもとへ帰っていく。俺は空っぽになった寮に残って、傷つかないふりをした。
 先生に初めて会ったのは、二年生の冬休みだった。俺は閉架書庫に忍び込んでいた。触れる資格など欠片もない禁書を読もうとして、装丁に仕込まれた自動迎撃術式の解除に見事に失敗し、床に倒れて意識を失った。そして――
 目が覚めたら医務室だった。ベッドの横の椅子に、無愛想な男が座っていた。俺が盗もうとしていたあの恐ろしい本を読んでいた。

「馬鹿だな」

 本から目を上げずに言った。それが先生から貰った最初の言葉だった。
 ドゥーガル・ハウベオル。『攻城崩しジャベリン』の異名を持つ元王立戦闘術師団WARDENの筆頭術師。負傷で軍を退役し、今は学院で上級戦闘応用術の講師をしている。
 寮の上級生たちからそんな噂は聞いていた。でもまだ二年生の俺には雲の上の存在だった。

「禁書は理由があって指定されている。この本の迎撃術式が無許可の読者に何をするか知っているか? 最初の三日間は高熱と錯乱。次の三日間で短期記憶の劣化。最後の三日間で……呼吸の仕方を忘れる」

 先生はその時顔を上げ、俺を見た。感情の読めない静かな目。

「発動から十二時間の時点で解いた。お前の頭は無事だ。運が良かったな、ウインズロー」
「……ありがとう、ございます……」

 どうにか言えた。先生は去っていった。
 でもなんで誰もいないはずの城に、運よく先生が通りかかったのか? 冬休みは続き、俺は驚くべきことを発見した。ドゥーガル・ハウベオルも帰らない。帰れないのだと、後で知ることになる。
 俺たちは話をした。正確に言うと俺が迷子の犬みたいに先生の後をついて回って、先生が呆れ顔で構ってくれた。一緒に食事をとった。消灯時間を過ぎても勉強を見てもらった。追加の課題図書を山ほどもらった。チェスを教わって、先生は毎日最初の二局は勝たせてくれるけど、三局目で容赦なく叩きのめしてくる。先生は他の教師たちがどうしても隠しきれないあの憐れみの目で見ることもなかった。先生はただ……いてくれた。
 やがて先生の秘密を知った。等級七の禁制呪を肉体に宿しており、あまりに危険で解く手立てもないので、王国はこの人を事実上の永久軟禁下に置いている。他にすることもないから教壇に立っている。そういうことだった。
 先生は俺の姓の意味を知ると、名前ファーストネームで呼んでくれるようになった。学院では生徒はみんな家名で呼ばれる。互いの血統を認め合う作法だ。でも俺が先生から貰えるのは下の名前。低く、かすれた声で、パドリグと。
 好きにならない方がおかしい。
 どこかの時点で、先生は俺を救っていた。呪いからでも魔術的災厄からでもない。俺自身から。俺を蝕んでいた怒り。孤独。血みどろの執念。何者かにならなければという呪縛。先生はそういうものを静かに解いて、代わりにふさわしくありたいと思える誰かを与えてくれた。
 五年生になる頃には確信していた。俺は先生が好きだ。先生の呪いを解くための唯一の道だから解術師になると決めた。
 最終学年に告白した。

「先生が好きです。十四のときからずっと。先生と結婚したいです」

 もちろん断られた。
 先生は長いこと俺を見つめて、口を開いた。

「駄目だ」

 俺はそのお返事を尊重した。先生が正しい。駄目に決まってる。ここは学舎で俺たちは教師と生徒。
 だから首席で卒業し、秘術省マギストリーに入り、呪い解きに没頭した。二十一歳の時、統制局レギメンの審査委員会の前に立って「ドゥーガル・ハウベオルを解放できると信じています」と述べ、その場にいた全員に笑われた。

 今はもう誰も笑わない。

 不治の呪いを抱えた人を愛することには、こういう側面がある。
 ……呪いの解き方を学ぶ意欲が、とてつもなく高まるんだ。

 俺はシャツを脱いだ先生に近づき、袖から杖を引き抜いた。

「準備ができましたら」
「やってくれ」

 杖の先端を先生の肌に当て、魔力を流し、「見」始めた。
 禁制呪は脈打つ黒い管として浮かび上がり、先生の魔力経路に深く潜り込んでいるのがわかる。見ているだけで吐き気がするほど俺はこれが憎い。けれど同時に、俺は誰よりもこれを研究し、理解している。

「何か変化は?」
「いや」
「痛みの程度は」
「変わらん」
「俺がお勧めした運動はやってくださってますか」
「ああ」
「では通常通りの手順で。変化がないか確認したあと、安定性評価を行います」

 検査には一時間近くかかる。俺は注意深く呪いの構造をたどり、前回の訪問からの微妙な変化を記録していく。先生の体を蝕む呪術構造の成長は先月から約三ミリ。省が提供している抑制術式のおかげで進行は遅れている。それでいい、それでいいんだ。俺がこのクソッタレの呪いを殺す方法を見つけるまでの時間稼ぎができれば。
 局が回してくる案件のすべてから応用できそうな技術を探し、給料を資料につぎ込み、睡眠を削って研究を重ねている。それでもまだ足りない。

「もうすぐ終わります。……失礼」

 左肩近くの特に複雑な接合点を調べるために身をかがめ、俺の息が先生の肌をかすめる。

「パドリグ」
「はい、先生?」
「近い」
「この接合点は精密な分析が必要なので。徹底的にやらせてください」

 杖先で暗いエネルギーの線をなぞると、それに反応して呪いが脈打つ。

「それに、俺はあなたの近くにいるのが好きなんです。もうご存知でしょう」
「……ああ」

 ああ、持ちこたえろ俺の心臓。
 名残惜しさを振り切って体を起こし、一歩下がって杖をしまった。

「終わりました。新しい抑制術式が効いているようです。また省の対策部から更新したものを送らせます」
「核心部は?」
「低活性状態で安定してますよ、今のところは」

 先生は脱いだシャツに手を伸ばす。

「そういば、学術院連合コンソーシアムから新しい論文が出たんです」

 と、俺はさりげなく切り出した。

「術式逆流の共鳴崩壊を利用した解呪法について。禁制呪のような高位呪術に対して、術者が自身の魔力経路を導管にして呪いを排出する手法です。まだ予備段階ですけど、個人的にかなり期待してます」
「読んだ」
「おや、お早い。ご感想は?」
「机上の空論だ。著者自身が、実行すれば術者にとって致命的になる可能性が高いと認めている」
「可能性が高い、ですよね。確実に死ぬとは書いてない」
「駄目だ」
「俺の体です。俺がリスクを負う分には……」

 先生が最後のボタンを留め終え、灰色の目がこちらを向いた。

「お前には感謝している。だが私のために死ぬことは許さん」
「ご心配なく。俺は死なないのがとても上手いんです。数ある優れた資質の中でも特に自慢の一つです」

 軽口を叩いてはみたものの、内心では苛立ちが燻っていた。己の力不足に対するフラストレーション。

「正直に言って、この規模の呪術構造を解除するのは現状俺の手に余ります。でも、確実に近づいてはいる。俺が研究している重層呪術解術をベースに、主要なアンカーポイントを一つずつ分離して、適切な順序で局所的に不安定化を適用できれば――」
「パドリグ」

 俺は口を閉じた。先生を見る。
 すでにきちんと身支度を整えた先生が、複雑な表情でこちらを見ている。

「期待するな。この件に労力をかけすぎだ」

 先生は静かに言った。

「等級六以上の禁制呪を生きた宿主から除去した例は一つもない。進行を遅らせたところで、いずれは……」
「いいえ俺が解きます。他のどんな結末も受け入れる気がないので」

 俺はきっぱりと言った。

「希望しかないんですよ。いつか先生を救えるくらい俺が上達するって。先生が救わせてくれるって。救った後で、残りの人生をあなたを幸せにすることに捧げたいって言ったら、ようやく真剣に受け止めてもらえるって。そうでしょう、先生」
「お前は若い。人生がまるごと待っている。この敷地から出ることさえできない人間に固執して、起こらないかもしれないことを待って時間を無駄にするな」
「違います。あなたはどこにでも行くんです。この呪いを解いたら海を見に行きましょう。俺たちは海岸に行って、あなたは海を見て、俺はあなたが海を見ているのを見る。人生で最高の日になりますよ」

 先生は俺を見つめた。
 俺も見つめ返した。

「それから結婚しましょう。結婚したいんです、俺。これについては非常に明確にしてきたつもりですけど、先生が頷くか俺が死ぬかするまで言い続けますからね。毎朝あなたの隣で目を覚ましたいし、一緒に歳を取りたい。……まあ確かに先生の方がだいぶ先行してますけど、俺も追いつこうと頑張ってます。先週白髪を見つけて大喜びしました」

 先生が露骨に狼狽えて先に目を逸らした。手応えがある反応が返ってくるのは心強い。
 この長きにわたる片思いの厄介なところは、先生が俺の気持ちに応えてくれているのか本当にわからないことだ。
 俺を気にかけてくれているのはわかる。それは明らかだ。他の人間を寄せつけないくせに俺の訪問だけは許してくれる。俺の好物を覚えていて、体調を気遣ってくれて、局の政治についてのとりとめのない愚痴を黙って聞いてくれる。
 でも先生は俺を愛してくれているんだろうか。
 俺が次の訪問までの日を指折り数えるように、先生も数えてくれているんだろうか。会っている間ずっと、どうしようもなくあなたにキスしたいと俺が思っていること、わかってくれているんだろうか。
 ……わからない。この人は何十年もかけて感情を読み取らせない術を身につけていて、恐ろしく上手だ。
 でも俺はパドリグ・ウインズロー。天才にして有能、おまけに美形の稀代の魔術師だ。何もないところからのし上がり、好きな人の隣に立つにふさわしい男になるために自分を作り上げた。諦めるつもりはない。
 だから俺は続ける。お菓子を持って訪ねて、公然と頻繁に求婚して、解呪法を研究して。
 想い人が振り向いてくれるのを待っている。十二年と、まだ続く。

「……私を待つべきではない」

 先生がぽつりと言ったので、俺はつい笑ってしまった。

「待つべきじゃない?」
「私は四十八だ。こうしている間にも五十を超える」
「算数は得意なので大丈夫です。それに先生が何を言おうとしてるかもわかります。同年代の相手を見つけろって言うんでしょう。面倒ごとのない誰かを。普通にデートに行ける誰かを」
「そうだ」
「そして俺はいつも同じことを言いますよね。あなたがいいんです」
「……私はお前の教師だ」
「七年前に卒業しました。不適切の時効はとっくに切れてます」
「私はお前の父親になれる年齢だ」
「でも俺の父親じゃないですよね、だから何の関係が?」
「俺はお前より二十二歳も年上だ」
「先生が七十歳で俺が四十八歳になっても、きっと先生は変わらず素敵ですよ。老後はしっかりお世話しますから♡ モチベーションなら十分あります」

 先生が頭痛を堪えるように長いため息をついた。聞き慣れた音だ。でも止めろとは言わない。

「先生、俺もう子供じゃないんです。二十六歳にして秘術統制局レギメンの最年少上級職位。論文も何本か発表しました。税金もそれなりに払ってる。王都にはなかなかいいアパートを持ってて……でもほとんど使ってない。空いてる時間は全部ここで過ごしてるから」

 先生は黙っている。

「あと性欲のこともありますからね、ちなみに。先生は俺がからかってるだけだと思ってるでしょうけど、俺は本気で先生を性的に魅力的だと思っていて、あなたにとんでもないことをしたいと常々思ってます。念のため言っておくと」

 先生の眉がぴくりと動く。俺は構わず続けた。

「先生のことを絶え間なく考えてます。あなたにしたいことが山ほどあって、実際に仕事のパフォーマンスに影響が出てます。俺はかなり忍耐強い方だと思いますけど、それにしたって限界はあるんですよ? 俺は二十六歳で、十二年間先生を想い続けて、そのうち三年は禁欲までしてる。さすがに少しおかしくなりそうです」
「……禁欲?」
「え? はい。局に入りたての頃は……えっと、誰かと関係を持ったりはしてました。大したことじゃなかったですけど。でも先生の呪いに本格的に取り組み始めてから……できなくなったんです。本当に欲しいのは先生だけなのに他の人をベッドに連れ込み続けるのは、先生にも相手にも失礼だなと思って」

 先生が信じられないものを見る目で俺を見つめる。

「お前は二十六歳だ」
「はい」
「それで……していない?」
「はい」
「三年間?」
「……先生、今、赤くなってます?」
「なっていない」
「なってます。なってますよ! ドゥーガル・ハウベオル、元王立戦闘術師団WARDEN筆頭が、俺があなたとセックスしたくて三年我慢してるって聞いて赤くなってる!!」
「……」
「これはすごい。一生忘れないですよ。日記に書きます。『禁欲を告白してついに先生を赤面させることに成功した』って」
「パドリグ」
「すみません、直接的すぎました? まあこういう状況なので。もっと直接的にもなれますよ。一言いってくれればお見せします。ベッドにお連れして、この数年間先生の体についてどれだけ考えてきたか、正確にお見せすることも――」

 先生の腕が上がった。大きくて温かくて、タコのある手のひらが俺の口を塞ぐ。

「んむっ!」
「不確かなことを約束はできない。だが」

 先生は目をそらした。

「お前がもし呪いを解いたら。……お前の申し出を、考える」

 ……。
 …………。
 ………………嘘だろ?
 先生は今まで一度もそんなことを言わなかった。「駄目だ」以外の答えをくれたことなんてなかった。
 俺は口を覆っている先生の手のひらを舐めた。

「――なッ!?」

 先生がとても威厳に欠ける声を上げた。
 引っ込めようとしたその手を逃さず掴み、傷だらけの指の関節にそっとキスを落とした。純潔な、ほとんど何でもないような口づけ。でも先生の指先がぴくりと震えるのがわかる。これで十分だ。俺はこれであと何年でも頑張れる。

「見ててください」

 先生の手を両手で包んだまま、俺は言った。

「あと一年かかるかもしれない。五年、十年かも。でも必ずやります。成功したら先生をこの塔から抱えて出て、王都に連れて帰って、十五年間見逃してきたもの全部見せます。そして結婚してもらいます」
「……」
「社交界のパーティー全部に連れていきます。みんなの前で夫として紹介して、王国で最も素晴らしい人を俺が射止めたんだって、顎が外れるくらい驚かせてやるんです」

 俺の声は少し震えていたかもしれない。でも構わなかった。
 先生は長い間俺を見つめていた。あの灰色の瞳に何が映っているのか、読み取ることはできなかった。呆れか、困惑か、それとも……もしかしたら、ほんの少しだけ、期待のようなものか。
 やがて先生は小さく息を吐いた。

「……お前は本当に、馬鹿だな」



 いつも長居しすぎてしまう。できることなら先生の居間に簡易ベッドを置いて永住したいところだが、残念ながら俺には職務と責任というものがある。
 俺は扉のところで振り返った。

「二週間後にまた来ます。俺がいない間あまり寂しがらないでくださいね。夜はよく寝てください。俺の夢を見たら……存分に楽しんでいただいて構いませんよ♡」
「するわけがないだろう」
「もう遅いです、許可は出ました。今夜は良い夢を、先生」

 俺はおどけて深々とお辞儀をした。
 さて、いつもの反応を待つとしよう。呆れたため息か、追い払うような手振りか。「さっさと帰れ」という素っ気ない一言か。
 顔を上げた俺の視界に予想外のものが映った。先生の手が上がってきて、節くれだった太い指が俺の頬に触れ、包み込むように添えられる。
 先生が身をかがめる。灰色の目がゆっくりと近づいてくる。何が起きているのか理解する暇もなく、俺の唇に柔らかなものが触れた。
 短かった。かすめただけ。始まりを認識した頃にはもう終わっていた。
 先生は静かに身を引いた。いつもと変わらない涼しさで俺を見下ろしている。

「気をつけて帰れ」

 声が出ない。
 空気を吸おうとして喉が引きつった。

「……え」

 一歩後ずさる。二歩。三歩目で自分のコートの裾を踏んだ。体が大きく傾いで、咄嗟に手を伸ばして石壁を叩く。

「先生。先生が。今。俺に……キス、した」

 先生は眉一つ動かさない。

「嫌だったか」
「いえっ、そうじゃ……違くて……」

 言葉が続かない。
 ファーストキス。この人との。ずっと、ずっと夢見てきた。
 十四歳のあの頃、消灯時間後の寮のベッドで、まさにこの場面を事細かに想像していた。ああ、いたいけな俺……。あの頃は先生とイチャイチャする無害な妄想だけで本気で興奮できた。頭を撫でてもらうとか、ちょっと触りっこするとか、その程度でシコシコやっていたのだ。
 それから思春期が本格化して……まあ、内容は無邪気とは程遠いものになっていったが……それでも初キスネタは何千回と想像してきた。俺の思春期を通じて、ついに先生の唇を奪う妄想で自分を慰めた夜が何度あったか。
 どんなふうに始まるか。何を言うか。どれだけスマートに、余裕たっぷりに振る舞うか。先生の襟を掴んで引き寄せる、そんな大胆な自分さえ思い描いた。
 それが今。一瞬で始まって終わった。何の前触れも、高まる期待もなく。
 膝が持たない。壁に沿ってずるずると崩れ落ちて、床にへたり込んで両手で顔を覆う。

 唇に、まだかすかな吐息の熱が残ってる、ような気がする。
 たったあれだけの接触で、俺が十二年かけて積み上げてきた妄想の城が、跡形もなく崩れ去った。
 そのどれひとつとして、現実の先生には敵わなかったわけだ。

「せめて……せめて心の準備くらいさせてくれてもよかったじゃないですか……ッ!! 十二年ですよ……!? 十二年間夢見てきた……!! 計画があったんです! 『段階』を踏むはずだった!! それを先生がいきなり……不意打ちで……こんな……」
「お前が言葉を失うのを見たのは初めてだな」

 見上げると、先生がこちらを見下ろしていた。190センチの長身がへたり込んだ俺の上に影を落としている。俺は腰が抜けたも同然で、我ながら無様な姿だった。この人の前でだけは、こんな俺を絶対に見せたくなかったのに。
 落ち着け。品格を保て。チャーミングでいろ。どんな状況でも余裕を崩さない。気の利いた台詞がいくらでも出てくる。天才で有能で美形の……そういう自分でいろ。
 俺は立ち上がってコートを払った。

「……っ、こういうことに関しては俺、本来すごくスマートなんですよ!?」
「そうか」
「言っておきますけど、俺は上手いんです。キス。上手いって何度も言われてきました。複数人に」
「そうか」
「あの……もう一回やらせてください。お願いします。もっとうまくできます。さっきのはキスですらなかった、せいぜい挨拶です。もう一度チャンスをもらえれば適切なテクニックをお見せできます」
「駄目だ」
「でも……」

 口を開けて反論しようとした。
 そして先生の表情を見た。
 あ。
 ああ。
 先生も俺と同じくらい動揺してる。

「……おやすみ、パドリグ」

 低い声がそれだけ告げて、目の前でドアが閉まった。
 俺は廊下にひとり取り残された。古い木と錆びた鉄の蝶番を見つめて。
 螺旋階段を三段降りたところで膝から力が抜けた。冷たい石壁にもたれかかって、片手を心臓の上に押しあてる。

 頬が熱い。耳まで熱い。きっと今俺の顔は見られたものじゃないだろう。
 だけど誰も見ていない廊下で、俺はひとり笑っていた。
 百年だって戦えそうだった。








 二年後、ドゥーガル・ハウベオル先生は十七年ぶりに城壁の外を歩くことになる。
 聞いた話では、その日の空は雲一つなかったらしい。聞いた話では、先生は秘術省マギストリーの封蝋が押された手紙を、くしゃくしゃになるほど強く握りしめていたらしい。正門の前で永遠のように長い間立ち尽くしてから、ようやく一歩を踏み出したらしい。

 残念ながら全部伝聞だ。俺はその間ちょっと取り込み中だったから、そんな素晴らしい瞬間に立ち会えなかった。
 瞼の裏に、晴れた空の下を歩く先生の姿が浮かんだ気がした。見てもいないのに、その光景はやけに鮮明で、美しかった。

 呪い解きは過酷な仕事だ。前にも言ったように。
 解呪中は常に呪詛の反撃にさらされる。演算負荷が許容量を超えれば脳の血管が破裂する。精神防壁を突破されれば、汚染が意識の深層に流れ込む。治癒師でも手の打ちようがないこともある。どんな治療術式をもってしても、壊れた精神は元には戻せないからだ。運が良ければ昏睡で済む。そうなったら長い長い持久戦だ。術者は自分の意識の深い場所に潜って、呪いの残滓と正面から殴り合う。打ち勝てば、いつか目を覚ます。最悪の場合は……まあ。

 でもそのいつかがようやく来て、重い瞼をこじ開けたときに最初に見るものが、あの日みたいに膝の上に本を置いて、傍らに座っている先生だったとしたら。

 悪くない目覚め方だ。 

(了)
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