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弐 巣伏・栄光の後
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延暦八年(七百八十九年)六月。大和は五万の大軍を以てこの地・胆沢に押し寄せた。
しかし、衣川の辺りに布陣すると、秘かに軍使を送って来た。
一人の武者に二人の随員と案内役として、大和に下った蝦夷の男一人がやって来た。降伏勧告である。
殺してしまえという皆の声を抑えて『何を言いに来たのか聞いてみようではないか』と阿弖流爲はその者達と、場所を選び互いの人数を決めて会う事にした。
軍使は阿弖流爲に会うと、尊大な態度でこう切り出した。
『この度、朝廷は五万の大軍を繰り出して、この地を囲んでおる。これ以上手向かい致さば、女子供を含めてその方らすべての夷賊は根絶やしになるであろう。畏れ多くも帝はこれ以上辛抱ならぬとお怒りなのだ。
しかし、我等が総大将・征夷将軍・紀古佐美様はお情け深いお方でのう。最後の機会を与えようと申された。
依って、麿がそのお言葉を伝えに参った。心して承れ。書状を遣わされたが、その方ら文字も読めぬであろうから読み聞かせて遣わす。良っく承れ』
そう言って、手紙を取り出して読み始めた。
『その方ら蝦夷は、古より此方、我が良民を苦しめ、田畑を荒し、馬を奪い、非道を重ねてきた。朝廷よりの慈愛に満ちた説諭にも応じぬまつろわぬ者共を、これ以上許す訳には行かぬ。畏くも帝の命により、この道の奥まで討伐に参ったが、特別の温情を以て最後の機会を与えようと思う。
もし、武器を捨て一旦、縛に付き心を改めるならば、その罪一等を減じ特別の計らいに依って、この地に留まり、安寧な暮らしをすることを差し許す。御法を守り命に従うならば帝の臣民として命を永らえることが出来よう。くれぐれも心して思案致せ』
そして、手紙を巻きながらこう付け加えた。
『これは内々のことじゃが、もしその方ら素直に恭順の意を示さば、阿弖流爲には大墓公、副首・母礼には盤具公と名乗ることを差し許すとのご内意も得ておる。無用な戦はやめて、我等に下れ。その方が良いぞ』
軍使が手紙を差し出すと、阿弖流爲は無言で受け取った後、こう言った。
『言われる通り、我等は文字は読めぬ。そればかりで無く、大和の言葉も難しいことは分からぬ。今言ったこと、難し過ぎて吾には何のことやらさっぱり分からぬわ』
その場に居た日高見の者達は、始めはクスクスとやがてはゲラゲラと笑い出した。
『うぬ、我等を愚弄するか! 夷族共めが』
軍使は怒り出した。阿弖流爲は黙って手紙を破り捨てた。
『己、許さぬ!』
と軍使の男は太刀に手を掛けた。その瞬間、日高見の者達が襲い掛かり三人の大和の者達は、体中を差されて息絶えた。
ひとり残った案内役の男は、『好き好んで、大和に従っていた訳ではない。機を見て逃げ出し、もう一度大和と戦うつもりでいた。大和の者達は我等を人として扱ったりはしない。騙されてはならない。吾をここに置いてくれ。きっと役に立って見せる。頼む』
と泣き着いた。阿弖流爲は暫く、黙ってその男を見下ろしていたが、やがて、
『大和の手先となって何人の日高見の民を殺した?』
と尋ねた。そして、
『もしあの男が我等を見下したことを申している間に刺し殺しておれば、ここに残ることを許しただろう。
だが、今となっては遅い。同胞ゆえ命までは取らぬ。大和の者達のところへ帰れ。そして伝えよ。例え吾ひとりとなっても日高見の民の誇りは守るとな』
それは、何としても日高見の地と民を守り抜くという、阿弖流爲の強い決意の籠った言葉だった。項垂れて男が去った後、阿弖流爲は、
『奴らは楽をして勝とうと思っておる。ならば、楽に勝てると思わせてやろうではないか』
と言った。
案内の男がその後どうなったかは不明である。
当時の胆沢は、稲作も行われ、縦横の道が整えられて、両側には田が広がる豊かな地であった。阿弖流爲は、何としてもこの地での戦いを避けたいと思案を巡らし、日高見川(現北上川)の東岸に拠点が有るように大和軍に思わせることから策を始めた。
当時、大和に下った者達の多くが『夷を以て夷を制す』との大和側の方針に基づき、先頭を切って日高見の者達と戦うよう仕向けられていた。
その扱いに耐え切れず離反し大和に背く者達も多くなっていたが、仕方無く大和に従いながらも、同朋と戦うことに苦しんでいる者達も多く居た。
まずは、そうした者達を通じて、阿弖流爲の拠点は日高見川の東側に有るという偽りの情報を流した。
開戦の当日、攻撃開始の合図と共に、まずは四千人の大和軍の精鋭が川を渡る。迎え撃つ日高見軍は三百人ばかり。
この三百の兵。実は囮だった。
少し戦っては退き、また少し戦っては退きと、徐々に大和軍を北へ北へと誘って行く。
日高見川(北上川)の東岸は、南の平地は広く北へ行くに従って山が迫り、一旦狭くなっている。
大和軍は戦いながら進み、再び広くなる辺り、対岸の巣伏村(現・岩手県奥州市江刺区、四丑)から日高見川を渡河して来る別働隊と合流しようとしていた。
しかし、その別働隊は、既に日高見軍に依って、渡河を阻まれていたのだ。
十分に敵を北に誘った後、三百の日高見軍は八百の本軍と合流する。
更に、阿弖流爲は東の山にも手勢を伏せていた。
大和軍が通り過ぎた東の山から、四百の日高見軍が現れ、大和軍を挟み撃ちにする。罠に掛かったと悟った大和軍は混乱に陥り、狭い川原でごった返し次々と討ち取られて行く。
日高見軍は大和軍の大将首二十五を挙げ、多くの兵を弓矢の餌食とした。
この戦いによる大和朝廷軍の被害状況。
弓矢により命を落した者は二百四十五名だが、日高見川に追い落とされ溺死した兵が千人余りに上った。
鎧を脱ぎ捨て何もかも捨てて、裸身にて泳ぎ渡った者のみが助かった。
この戦いに依って阿弖流爲の名は陸奥中に鳴り響き、日高見付近の族長達は元より、遠く津軽や渡島(北海道)の族長達までもが使いを送って来て、阿弖流爲は押しも押されもせぬ頭領と成った。
しかし、大和に支配されぬ日高見国を作るという望は、現実には遥か彼方にあった。
大和は、決してそれで諦めたりはしなかった。この戦いに大勝したことが、果たして良かったのか悪かったのか。この事が、晩年の阿弖流為を苦しめることになる。
映画であれば、日高見川に浮かぶ数多くの大和朝廷軍の兵士の遺体の映像に続き、阿弖流為や部下達の笑顔が大写しとなり、エンドロールが流れ始めるのだろうか。
だが現実は、映画や小説のように、都合の良いところで終わったりはしない。
五年後の延暦十三年(七百九十四年)には、大和は倍の十万の軍を以て攻めて来ることになる。
阿弖流爲は奇襲を掛け、策を以て対抗し、山に潜み野に伏せて半年ほども戦った。そして、遂には、再び大和軍を撃退する。
しかし、前回と違い日高見の民も大きな痛手を蒙る事になる。
数多くの戦士が死に、胆沢の地も荒れ果ててしまう。
前回の失敗に懲りて用心深くなっていた事も確かなのだが、この戦いでは、大和の帝側近の若き副将軍、坂上田村麻呂という男が前線で直接指揮を執っていたことが、その前の戦いとは大きく違うところろだった。
田村麻呂は、それ以前の指揮官達と比べ、愚かでも怠慢でもなかった。田村麻呂は阿弖流爲の仕掛けた罠にそう簡単に嵌ることは無かった。
そして田村麻呂は、ただ攻めるだけではなく、一方で、大和に下った者達を使って、阿弖流爲に対して、投降を呼びかけた。
「仮にこの戦いを凌いだとしても朝廷は決して諦めない。繰り返し大軍を送って来るだろう。そなた達にも理があろう。されど、一人残らず殺されるまで戦うつもりか。愚かなことである。麿が指揮を執っている間に降伏すれば、悪いようにはしない。多くの民のために聞き分けよ」
田村麻呂は、繰り返しそう呼び掛けて来た。しかし、阿弖流爲に降伏するつもりは全く無かった。
大和軍を追い払ったものの、村々は荒れ果て、多くの者が命を失い、冬を前にして十分な食料を確保することも出来ない。餓死する者も跡を絶たない。
阿弖流爲の許、皆が力を合わせ、大和に支配されぬ日高見国を作ろうという気概だけは盛り上がっていた。直接戦戦に拘わらなかった北の者達が、胆沢に食料を送って来たりもして、嘗て無かった連携が生まれて来ていた。
だが、それは長く続くものではなかった。
北の寒い冬。それが二年三年と続くうち、どの部族も自分達が生きることに精一杯となって行き、とても他を助ける余裕など無くなって来る。
そんな中、またもや、大和が大軍を送り込んで来るという噂が聞こえて来た。
いずれ来ると覚悟はしていても、それが目前に迫って来ると動揺する者達も出て来る。
あと何度戦ったら安穏な日々が訪れるのか? あと何人死ねば子供達に安らかな日々を与えられるのか?
そう思うと、せっかく盛り上がった気運もしぼみがちになる。中には、自分達のみの安寧を願い、大和に通じる者達も出て来る。
日々追いつめられて行く生活は現実のものとして目の前に有る。誰も明日に希望を持つことが出来なくなっていた。
しかし、衣川の辺りに布陣すると、秘かに軍使を送って来た。
一人の武者に二人の随員と案内役として、大和に下った蝦夷の男一人がやって来た。降伏勧告である。
殺してしまえという皆の声を抑えて『何を言いに来たのか聞いてみようではないか』と阿弖流爲はその者達と、場所を選び互いの人数を決めて会う事にした。
軍使は阿弖流爲に会うと、尊大な態度でこう切り出した。
『この度、朝廷は五万の大軍を繰り出して、この地を囲んでおる。これ以上手向かい致さば、女子供を含めてその方らすべての夷賊は根絶やしになるであろう。畏れ多くも帝はこれ以上辛抱ならぬとお怒りなのだ。
しかし、我等が総大将・征夷将軍・紀古佐美様はお情け深いお方でのう。最後の機会を与えようと申された。
依って、麿がそのお言葉を伝えに参った。心して承れ。書状を遣わされたが、その方ら文字も読めぬであろうから読み聞かせて遣わす。良っく承れ』
そう言って、手紙を取り出して読み始めた。
『その方ら蝦夷は、古より此方、我が良民を苦しめ、田畑を荒し、馬を奪い、非道を重ねてきた。朝廷よりの慈愛に満ちた説諭にも応じぬまつろわぬ者共を、これ以上許す訳には行かぬ。畏くも帝の命により、この道の奥まで討伐に参ったが、特別の温情を以て最後の機会を与えようと思う。
もし、武器を捨て一旦、縛に付き心を改めるならば、その罪一等を減じ特別の計らいに依って、この地に留まり、安寧な暮らしをすることを差し許す。御法を守り命に従うならば帝の臣民として命を永らえることが出来よう。くれぐれも心して思案致せ』
そして、手紙を巻きながらこう付け加えた。
『これは内々のことじゃが、もしその方ら素直に恭順の意を示さば、阿弖流爲には大墓公、副首・母礼には盤具公と名乗ることを差し許すとのご内意も得ておる。無用な戦はやめて、我等に下れ。その方が良いぞ』
軍使が手紙を差し出すと、阿弖流爲は無言で受け取った後、こう言った。
『言われる通り、我等は文字は読めぬ。そればかりで無く、大和の言葉も難しいことは分からぬ。今言ったこと、難し過ぎて吾には何のことやらさっぱり分からぬわ』
その場に居た日高見の者達は、始めはクスクスとやがてはゲラゲラと笑い出した。
『うぬ、我等を愚弄するか! 夷族共めが』
軍使は怒り出した。阿弖流爲は黙って手紙を破り捨てた。
『己、許さぬ!』
と軍使の男は太刀に手を掛けた。その瞬間、日高見の者達が襲い掛かり三人の大和の者達は、体中を差されて息絶えた。
ひとり残った案内役の男は、『好き好んで、大和に従っていた訳ではない。機を見て逃げ出し、もう一度大和と戦うつもりでいた。大和の者達は我等を人として扱ったりはしない。騙されてはならない。吾をここに置いてくれ。きっと役に立って見せる。頼む』
と泣き着いた。阿弖流爲は暫く、黙ってその男を見下ろしていたが、やがて、
『大和の手先となって何人の日高見の民を殺した?』
と尋ねた。そして、
『もしあの男が我等を見下したことを申している間に刺し殺しておれば、ここに残ることを許しただろう。
だが、今となっては遅い。同胞ゆえ命までは取らぬ。大和の者達のところへ帰れ。そして伝えよ。例え吾ひとりとなっても日高見の民の誇りは守るとな』
それは、何としても日高見の地と民を守り抜くという、阿弖流爲の強い決意の籠った言葉だった。項垂れて男が去った後、阿弖流爲は、
『奴らは楽をして勝とうと思っておる。ならば、楽に勝てると思わせてやろうではないか』
と言った。
案内の男がその後どうなったかは不明である。
当時の胆沢は、稲作も行われ、縦横の道が整えられて、両側には田が広がる豊かな地であった。阿弖流爲は、何としてもこの地での戦いを避けたいと思案を巡らし、日高見川(現北上川)の東岸に拠点が有るように大和軍に思わせることから策を始めた。
当時、大和に下った者達の多くが『夷を以て夷を制す』との大和側の方針に基づき、先頭を切って日高見の者達と戦うよう仕向けられていた。
その扱いに耐え切れず離反し大和に背く者達も多くなっていたが、仕方無く大和に従いながらも、同朋と戦うことに苦しんでいる者達も多く居た。
まずは、そうした者達を通じて、阿弖流爲の拠点は日高見川の東側に有るという偽りの情報を流した。
開戦の当日、攻撃開始の合図と共に、まずは四千人の大和軍の精鋭が川を渡る。迎え撃つ日高見軍は三百人ばかり。
この三百の兵。実は囮だった。
少し戦っては退き、また少し戦っては退きと、徐々に大和軍を北へ北へと誘って行く。
日高見川(北上川)の東岸は、南の平地は広く北へ行くに従って山が迫り、一旦狭くなっている。
大和軍は戦いながら進み、再び広くなる辺り、対岸の巣伏村(現・岩手県奥州市江刺区、四丑)から日高見川を渡河して来る別働隊と合流しようとしていた。
しかし、その別働隊は、既に日高見軍に依って、渡河を阻まれていたのだ。
十分に敵を北に誘った後、三百の日高見軍は八百の本軍と合流する。
更に、阿弖流爲は東の山にも手勢を伏せていた。
大和軍が通り過ぎた東の山から、四百の日高見軍が現れ、大和軍を挟み撃ちにする。罠に掛かったと悟った大和軍は混乱に陥り、狭い川原でごった返し次々と討ち取られて行く。
日高見軍は大和軍の大将首二十五を挙げ、多くの兵を弓矢の餌食とした。
この戦いによる大和朝廷軍の被害状況。
弓矢により命を落した者は二百四十五名だが、日高見川に追い落とされ溺死した兵が千人余りに上った。
鎧を脱ぎ捨て何もかも捨てて、裸身にて泳ぎ渡った者のみが助かった。
この戦いに依って阿弖流爲の名は陸奥中に鳴り響き、日高見付近の族長達は元より、遠く津軽や渡島(北海道)の族長達までもが使いを送って来て、阿弖流爲は押しも押されもせぬ頭領と成った。
しかし、大和に支配されぬ日高見国を作るという望は、現実には遥か彼方にあった。
大和は、決してそれで諦めたりはしなかった。この戦いに大勝したことが、果たして良かったのか悪かったのか。この事が、晩年の阿弖流為を苦しめることになる。
映画であれば、日高見川に浮かぶ数多くの大和朝廷軍の兵士の遺体の映像に続き、阿弖流為や部下達の笑顔が大写しとなり、エンドロールが流れ始めるのだろうか。
だが現実は、映画や小説のように、都合の良いところで終わったりはしない。
五年後の延暦十三年(七百九十四年)には、大和は倍の十万の軍を以て攻めて来ることになる。
阿弖流爲は奇襲を掛け、策を以て対抗し、山に潜み野に伏せて半年ほども戦った。そして、遂には、再び大和軍を撃退する。
しかし、前回と違い日高見の民も大きな痛手を蒙る事になる。
数多くの戦士が死に、胆沢の地も荒れ果ててしまう。
前回の失敗に懲りて用心深くなっていた事も確かなのだが、この戦いでは、大和の帝側近の若き副将軍、坂上田村麻呂という男が前線で直接指揮を執っていたことが、その前の戦いとは大きく違うところろだった。
田村麻呂は、それ以前の指揮官達と比べ、愚かでも怠慢でもなかった。田村麻呂は阿弖流爲の仕掛けた罠にそう簡単に嵌ることは無かった。
そして田村麻呂は、ただ攻めるだけではなく、一方で、大和に下った者達を使って、阿弖流爲に対して、投降を呼びかけた。
「仮にこの戦いを凌いだとしても朝廷は決して諦めない。繰り返し大軍を送って来るだろう。そなた達にも理があろう。されど、一人残らず殺されるまで戦うつもりか。愚かなことである。麿が指揮を執っている間に降伏すれば、悪いようにはしない。多くの民のために聞き分けよ」
田村麻呂は、繰り返しそう呼び掛けて来た。しかし、阿弖流爲に降伏するつもりは全く無かった。
大和軍を追い払ったものの、村々は荒れ果て、多くの者が命を失い、冬を前にして十分な食料を確保することも出来ない。餓死する者も跡を絶たない。
阿弖流爲の許、皆が力を合わせ、大和に支配されぬ日高見国を作ろうという気概だけは盛り上がっていた。直接戦戦に拘わらなかった北の者達が、胆沢に食料を送って来たりもして、嘗て無かった連携が生まれて来ていた。
だが、それは長く続くものではなかった。
北の寒い冬。それが二年三年と続くうち、どの部族も自分達が生きることに精一杯となって行き、とても他を助ける余裕など無くなって来る。
そんな中、またもや、大和が大軍を送り込んで来るという噂が聞こえて来た。
いずれ来ると覚悟はしていても、それが目前に迫って来ると動揺する者達も出て来る。
あと何度戦ったら安穏な日々が訪れるのか? あと何人死ねば子供達に安らかな日々を与えられるのか?
そう思うと、せっかく盛り上がった気運もしぼみがちになる。中には、自分達のみの安寧を願い、大和に通じる者達も出て来る。
日々追いつめられて行く生活は現実のものとして目の前に有る。誰も明日に希望を持つことが出来なくなっていた。
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