愛宮

青木 航

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愛宮

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『父が死に、姉が死に、みかどがお隠れになった今、御前ごぜんは蓑を剥がされた蓑虫のように頼り無い存在となってしまった。あの、お人好しと思われた伯父の実頼さねより様にさえもあしらわれてしまったということか』
 愛宮は前に置いた脇息に腕を乗せ、そんなことを想って小さく息を吐いた。
 光輝いていた源氏の星がその明るさを失うのは、つるべ落としの秋の陽のごとく、あっと言う間のことであった。愛宮は不意に薫物たきもの(練香)の香から僅かに漏れる老人の体臭を思い出して、自らの鼻と口を袖で覆った。そして、乳母めのともとにある生まれたばかりの男子の行く末を案じ、あれこれと思いを巡らせる。

 夫・源高明みなもとのたかあきらの最初の正室は伯父・実頼さねよりの娘であった。早逝した為、愛宮の姉が後室となった。この時代、大病をすれば皆早死した。特に女は出産に際して死ぬ者が多かった。愛宮は、姉の死後、高明たかあきらの三番目の正室となった。十五年前の事である。当時三十代後半の高明は歳よりもかなり若く見え顔立ちも整っていたので、後添えとなるよう父に勧められた時も嫌とは思わなかった。愛宮、十四歳になる直前のことであった。
 嫁いだ年、高明は大納言となり、その二年後には従三位じゅさんみから正三位しょうさんみに昇叙していた。目覚ましい勢いで出世し、意欲的に仕事をこなしている男は輝いて見える。歳の差など気にもならなかった。
 当時、伯父の実頼さねよりが左大臣、父・師輔もろすけは右大臣の職に在り、姉・安子あんし中宮ちゅうぐう(皇后)。朝廷の頂は、全て愛宮の親族達で占められていた。源高明は、父が特に目を掛けいずれその地位を継がせたいと思っている男だ。そして、みかどと摂関家を繋ぐ絆でもある高明の後室となることは、愛宮に取って自分の居場所をそこに作ると言うことであった。
 父・師輔と高明は共に学問や朝議に造詣が深く馬が合っていた。高明は臣籍降下したとは言え、故・醍醐天皇の第十皇子みこである。父から後室の話を持ち掛けられた時に、身分の点でも愛宮に否やは無かった。

 夫・高明は父・師輔を通じて摂関家とも良い関係を築いており、みかども兄である高明に深い信頼を寄せていたし、中宮である姉・安子あんしも父・師輔と共に高明の出世を扶けていた。高明の人生は順風満帆であり確かな未来が約束されていると思えた。

 思えば、天徳四年に父・師輔が五十三歳で薨去した時から瓦解は始まっていたのだ。その四年後の応和四年に中宮である姉・安子あんしが崩御し、更にその三年後にはみかど(村上天皇)が崩御した。
 不幸が続いたが、それらが高明の人生に取ってどれほど大きなことであったのかは、今になって分かったことであって、その当時は高明も愛宮もことの重大さに全く気付いていなかったのだ。後から思えば、高明は出世、権力、摂関家との絆。それらを支えていた人達の全てを失っていた。

 高明は己の力を過信していた。村上天皇や中宮・安子あんし、妻の父・師輔を失っても、いずれ朝廷の実権を掌握出来ると思っていた。
 村上天皇の後は皇太子・憲平のりひら親王が跡を継ぎ冷泉れいぜい天皇となったが、虚弱体質のうえ子が無かった為、急いで皇嗣を立てる必要があった。候補は為平親王、守平親王の二人の帝の弟であったが、年長の為平親王を皇嗣とすることが当然と思われていた。高明は、先妻である愛宮の亡き姉との姫を為平親王に嫁がせてその姫は正室となっており、男子を設けていた。
 
 つまり、冷泉天皇の跡を受け為平親王が天皇になれば、高明は天皇の妻の父となり、その子が天皇となった時には、みかどの外祖父となる。当時の朝廷に於ける最大の権力者となり得る条件は、幼年のみかどに代わってまつりごとを行う摂政が外祖父である場合なのだ。師輔の父であり愛宮の祖父に当る忠平がそうであった。忠平はみかどが成人した後も関白と立場を変えて実権を握り続けた。

 高明は摂関として権力を独占するつもりは無かった。朝廷の実態を帝親政みかどしんせいに戻し、皇孫である源氏を代表して、みかどを補佐する体制を築き上げたいと思っていたのだ。

 みかど。中宮・安子。右大臣とは言え左大臣である兄・実頼を凌ぐ実力を持っていた師輔。この三人の強力な後ろ盾を失った後、高明がすべきは為平親王の立太子りったいしを滞りなく行うことであった。

 村上天皇崩御の前年の康保三年、高明は師輔の後を受けて右大臣に任じられていた。
 実頼と師輔とで取り仕切っていた朝廷を、今度は実頼と高明とで動かすことになる。年長でもあるし、ある程度は実頼を立てて摂関家との軋轢を生まないようにして、為平親王の立太子まで持って行く必要が有ると思った。その後は高齢の実頼が致仕ちし(引退)するのを待てば良い。高明はそう考えていた。
 ところが、実頼は立太子の件を中々言い出さず先延ばししている。せっつきたい気持ちは強く有ったが、変に実頼を刺激して関係をぎくしゃくさせたくは無かったので、高明はじっと辛抱していた。

 或日、朝議が終わった後、高明は実頼に呼び止められた。折り入って相談が有ると言う。いよいよ立太子の件かと、高明は思った。
「いや、呼び止めて済まぬ」
 席に付くと実頼はそう切り出した。
「いえ、そのようなことは御座いません。何なりと承ります」
「実はな……」
と言い掛けて、実頼は一旦言葉を切った。
「はい」
 高明は実頼の表情を読もうと見詰めた。思い詰めたような実頼の表情から、ひょっとして、致仕ちし(引退)の相談ではないかと思った。しかし、実頼がこんなに早く致仕の申し出をして来るとは、高明は思ってもいなかった。
「左大臣をみことに譲り、太政官の差配を全てお任せしたいと思う」
 実頼は、高明の目を見詰めてそう言った。
「麿に左大臣を譲って、どうなさるおつもりか?」
 致仕の意思を確認しようとそう聞いた。
「うん。……関白に推してはくれぬかな」
 実頼は言いにくそうにそう言った。高明は驚いた。いずれ摂関制度を廃止して帝親政を実現したいと思っている高明の思惑とは真逆の申し出であったからだ。
お上おかみには、やはり補佐が必要であろう」
 実頼が言った。そう言われれば確かにそうなのである。成人しているとは言え、冷泉天皇は政治が執れるお方ではない。高明とて、今上帝の代で帝親政を実現出来るとは思っていなかった。
 実頼も関白として最後の花道を飾りたいに違いない。ここで反対して関係を悪化させては、為平親王の立太子に支障が出て来る。例え関白を認めたとしても、冷泉天皇の御代みよは長くは無いと思われるし、実頼の歳から考えても、関白として絶対的な権力を確立される心配は無いと高明は思った。
 故・師輔は村上天皇に遠慮して、摂関の座に付こうとはしなかった。形の上では帝親政を復活させていたのである。立場は上であっても、実質的に太政官を取り仕切っていた師輔に、実頼も異を唱えず同調していた。だが、師輔が死んだ今、実頼は最後の花道を飾りたくなったのだ。高明はそう思った。
 摂政は幼い天皇に代わって政務を司る職であり、関白は成人している天皇を補佐してまつりごとを行う職である。その権限は大きく違うように見えるが、天皇を飾り物にして実権を握ることに付いては、実態としては関白も摂政と変わりなかった。
「もし関白となれば、太政官の決を経た奏上を、左大臣から受ける立場。だから、左大臣の職は貴公にお任せしたいのじゃ」
 暗に『そなたとて左大臣になりたいであろう』と言っているのだ。
『本意では無いがやむを得ない』と高明は思った。
「分かりました。他のお歴々ともはかってみましょう」
 そう答えた。
「そうか。かたじけない。なに、形だけのものじゃ。宜しくお願い致す」
 満足気に頷くと、実頼は席を立って部屋を出て行こうとしたが、ふと立ち止まり、
「立太子の件、遅くなっていて申し訳ない。気を揉んでいらしたであろう」
と言った。
「いえ、そのようなことは……」
「実は、人の差配のことで色々悩んでおってな」
「人の差配のことでしたら、ご相談頂ければお役に立てると思いますが」
「いや、それが身内のことじゃから、右大臣殿に相談と言う訳にもいかんのよ。承知の通り弟の師氏もろうじ師尹もろただ。下の弟の師尹が上になってしまっている。関係が余り良くなくてな。それと、甥の伊尹これまさのことでも頭が痛い。アレの父・師輔には生前色々と扶けてもらったので、昇進させてやりたいと思っておるのじやが、伯父を伯父とも思わぬ男で、言いたい放題言いおる。全く、今時の若い者は礼を知らん」
「それは、色々と大変なことで御座いますな」
 高明はそう言いながら、『摂関家にも出入りしている源満仲の報告通り、やはり、摂関家はバラバラなのだな』と思った。
「左大臣を譲り、太政官の仕切りをお願いする以上、そんな状態でお渡しする訳にも行かん。そう思って色々人の差配を考えていて、立太子の件も遅くなってしまっておる。申し訳無い」
『そう言う事情だったのか』と高明は安心した。最後の花道として、実頼の関白就任を認めることで為平親王の立太子が滞り無く進むならば、長い目で見れば賢明な選択と言える。師尹や師氏が異論を挟まぬよう実頼も苦心してくれているのだと思った。
 
 実頼に謀られたと高明が気付いたのは、皇嗣を決める詮議の席だった。
 右大臣となった師尹が為平親王ではなく守平親王を皇嗣とすることを主張し、摂関家の者達が諸手を上げてそれに賛成して、他の参議達も大勢に従う形となった。何時の間にか摂関家は結束しており、他の参議達への根回しもしっかり行われていたのだ。詮議を取り仕切る一上いちのかみである左大臣・高明も圧倒的多数の意見を覆すことは出来ない。
 決議が終わると『体調が悪い。済まぬが、結果は貴公が代わりに上奏してくれ』と右大臣・師尹にそう言い残して急いで議場を退室した。とても、関白・実頼の顔を見る気にはならなかった。
 去って行く高明の後ろ姿を、師尹もろただ伊尹これまさはニンマリとして見送った。

 ところで、平安時代の中期以降、婚姻の基本は一夫一妻制なのだ。通い婚と思われるが、子が出来ると正式に結婚した妻とは同居し、妻以外の女性、即ち妾とは同居しないのが原則である。從って愛宮は高明の館に住んでいる。 
 高明が戻ると「御前ごぜん様がお戻りに御座います」と侍女が、愛宮の居室である北の対屋まで声を掛けに来る。すると愛宮は、侍女達を従えて高明の居室の有る母屋まで渡り挨拶する。しとねを共にする時は、逆に高明が対屋まで渡って来る。
 その日は、「御前ごぜん様お戻りで御座いますが、本日は挨拶に及ばずとのことで御座います」と侍女が言って来た。
「如何したのじゃ?」
と愛宮が侍女に尋ねる。
「直ぐにお休みになられました。お戻りになった際、従者ずさの千晴殿から、御前ごぜん様は酷くお疲れ故、急いでしとねを整えるよう言われました。それ以上のことは分かりかねます」
「そうか。ならば、お目覚めになられたら知らせよ」
かしこまりました」
 そう言って、知らせに来た侍女は下がって言った。為平親王の立太子が覆された日のことである。

 それからと言うもの、高明は愛宮を避けて会おうともしない。家人けにんや侍女達も口が重くなり、何か館全体にピリピリした雰囲気が漂うようになった。
 暫くして、やっと家人けにんの一人が口を開いた。
御前ごぜん様が落胆されているのは、為平親王様を皇嗣とすることが出来なかったからで御座います」
「なんと……」
と言ったきり、暫く愛宮は後の言葉を継げなかった。
「守平親王様を推したのはどなたじゃ」 
と、やがて聞いた。
「摂関家の方々が挙って推されたと言うことです」
 愛宮も藤原摂関家の生まれである。一族の歴史は知っている。摂関家に謀られて、夫・高明が朝廷の中で何の力も無い存在になってしまったことを悟った。

『夫を嵌めたのは兄の伊尹これまさに違いない』
 脇息にもたれながら、愛宮はそう考えていた。どう考えても伯父・実頼はそんな細工の出来るような性格でも無く、仮に実頼が企んだにしても、皆が素直に従うほどの力を持ってはいない。企むとしたら、この年の始めに権中納言となった長兄の伊尹であろうと思った。伊尹は権力欲が強く、頭も切れる。父・師輔の無欲さに不満を漏らしていた男である。伯父との関係は良く無いと思っていたが、目的の為には、強引に実頼を口説き落とすくらいの事はやりかねない。現在、藤原摂関家一の策士と愛宮は思っていた。

 もし、夫を嵌める謀の首謀者が伊尹であったとすれば、その妹である自分に高明が不快な感情を抱いたとしても不思議は無い。遣り切れない想いを、他の女子おなごもとへ通うことで晴らそうとしているのかも知れないが、事情が分かれば、それを悋気りんきする訳にも行かないと愛宮は思った。
 摂関家の繁栄の為にやったことであれば、自分が何かを頼んだとしても兄は聞くまい。なにも出来ない自分が、高明を慰めることなど出来ない。無理に会おうとすれば関係を悪くするだけである。どのような扱いを受けてもじっと辛抱するしか無いだろう。愛宮はそう思った。
「お方様、何か御前ごぜん様にお伝えする事は御座いますか?」
家人けにんが聞いた。
「いや、良い。下がれ」
「はっ」と返事して、家人は下がって行った。

 その二年半ほど後の安和二年三月二十六日のこと。兄・伊尹これまさ家人けにんが面会を求めていると侍女が言って来た。
「何用と申しておる?」
と愛宮は聞いた。
「要件を尋ねたところ、お方様にお目に掛かって申し上げると申しております」
「分かった。通せ」
と愛宮が応じる。通された男は深く頭を下げ、丁寧に挨拶した上、伊尹が愛宮の身を案じていると伝えた。
「機嫌伺いに参った訳ではあるまい。用件を申せ」
「恐れながら……」
と言って、男は手紙様のものを取り出した。愛宮の侍女がそれを受け取って、御簾みすの前まで持って来る。それを、御簾の中に控えている愛宮の身の回りの世話をする別の侍女が御簾の隙間から受け取って愛宮に渡した。
 開くと、離別状であった。
「なんじゃ、これは。こんなものを渡される覚えは無いし、万一渡されるとしても、何故なにゆえそなたが持って来るのか?」
「左大臣様のお方様に対するお気遣いに御座います」
「何を申しておるのか分からん。またも、何か兄上の企みか?」
 愛宮の甲高い声が響いた。その時である。母屋の方が急に騒がしくなった。
「見て参れ!」
 愛宮の声に弾かれるように侍女は母屋の方に早足で去った。そして、間もなく、
「大変で御座います! 大勢の検非違使けびいしが……」
 見に行った侍女は、そう言ってへたり込んだ。
「御簾を上げよ!」
 側仕えの侍女が御簾を上げ、侍女と伊尹の家人が慌てて脇に寄り、中央を開けるやいなや、愛宮は打ち掛けの裾を捌いて小走りに渡殿から母屋に向かった。
 母屋では高明が検非違使に囲まれている。今にも泣き出しそうな表情で、検非違使の指揮を取っている者に何かを訴えようとしているところだった。
「左大臣を辞して、嫡男共々麿は出家する。今後、まつりごとには一切関わらん。だから、都に残れるよう関白様にお取りなし下され」 
 検非違使のおさは困ったように言った。
「手前は、めいに從って謀叛人を捕らえに来ただけ。取り成しと言われても関白様にお会いすることすら出来ぬ身分の者に過ぎません。悪しからず」
 高明は崩れ落ちた。遠目でその姿を見た愛宮は『これが、あの輝いていた夫の真の姿だったのか』と思った。所詮は元皇子みこ。海千山千の摂関家の敵ではなかったのだ。輝いていたのも、愛宮の身内である摂関家の人々の力有ってのことと悟った。強い風にすべての花びらは散り、見えるのはただ枯れ木のみ。そんな心象風景の中で、愛宮は鷲掴みにしていた離別状を畳み、静かに懐に仕舞った。伊尹が命じ、高明に書かせたものだった。 
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