少年少女

雪路よだか

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僕が憧れた彼女は

人間

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「遠慮しなくていいんだぞ? 並……いや大盛りでも構わないんだ。見てくれもこんなだから貧乏に見えるだろうけど……金は必要最低限しか遣わない暮らしをしてたから、割とあるし」
 俺がそう言うと、リタは小盛のラーメンをすすりながら冗談めかして言った。
「遠慮なんかしてませんよ。起き抜けにたくさんのラーメンなんて普通は食べられないんです。弘樹さんがおかしいんですよ」
「確かに起きたばかりの胃にラーメンは重いか……? 悪い、気が利かなくて……」
「いいんですよ、気にしなくて! でも、弘樹さん、普段からそんなに食べるんですか?」
 俺の器に盛られた、麺もスープも具材もマシマシのラーメンを物珍しそうにまじまじと見ながら、リタは俺にそう訊いた。
「ん? ああ、いや……」
 俺は少し考えた。普段の俺の食事。そういえば、己の生活リズムを考えるなんてこと、これまでずっとしていなかった。ただ惰性で生きていたのだから。
「どうだったかな……あんまり覚えてねえけど、こんなに食うのは久々だな」
 やや特殊な関係といえども、他人と一緒に食べる飯は不思議と美味く感じられるものだ。それは、自分はすっかり人の心を失くしたと思っていた俺も同じだった。俺もまだ、一応人間らしい。
「そうなんですか? 普段からこれだけ食べるのかと思ってました。あ、でも、それならこんなに痩せてませんね」
「……俺、そんなにガリガリ?」
「え? ええ、それはもう。人間ってそんな体でも生きていけるんだな、って思うくらいです」
「……そんなにか?」
 俺は自分の身体を服越しに眺めた。そして、そっと腹部を撫でてみる。
 その骨ばった身体に、俺は酷いショックを受けた。これまで容姿などまるで気にしてこなかったが、こんな若い女の子と共に食事をしているとなると違う。彼女は俺なんかといて恥ずかしくないのだろうか。
「あはは。そんなにショックでした? 悪いこと言っちゃいましたね。でも、羨ましいですよ、細くて」
「……筋肉あったほうがかっこいいだろ」
「まあ、それは確かに?」
「……否定しろよな」
「だって本当のことですし」
 彼女は、今日はやたらとよく笑う。今日は、といってもまだ二日にも満たない付き合いではあるが。こんなふうに笑う人が、自殺を考えたのだ。にわかには信じがたい、とさえ思った。しかし、兄貴だって自殺するような人間には見えなかったのだから、人は見かけによらないのだろう。俺は、兄貴ならばどんな逆境も理不尽にも耐えて、上手くやっていくだろうと思っていた。……勝手に。何の根拠もないのに。
「……あの、弘樹さん」
「ん? どうかしたか?」
「もしよければ……教えてくれませんか? 弘樹さんが、昨晩、雨継商事のビルにいた理由」
「ああ……」
 そういえば話していなかった。リタには聞いておいて、自分だけ話さないというのは、なにか狡いような気がする。彼女には話してもいいだろう、そもそも隠すことでもない。そう思った俺は、話すことにした。
 しかし何から話したものだろうか。俺が考えていると、リタが先に口を開いた。
「……でも、あそこにいたってことは、私と同じ──自殺が目的だったんですよね」
「……あそこは、自殺の名所とかなのか?」
「黒い噂が絶えないとはいえ、一応、あそこも大手企業ですから、名所ってほどではないですけど。このあたりでは珍しい高い建物ですし、管理がわりと杜撰で屋上の鍵が開いてることが多いので、飛び降り自殺の場所に選ぶ人が、毎年一定数いるんだそうです」
「そうなのか……」
 俺の頭に、兄貴の自殺がよぎった。
「……俺の兄も、あそこから飛び降りて死んだんだ。雨継の社員だった。パワハラを受けていたらしい。兄貴は俺に助けを求めていたのに、俺はそれを無視した……。俺が殺してしまったんだ。兄貴は、両親ですら手がつけられないと諦めた俺の世話を、ずっと焼いてくれていたのに」
 一度話し始めると、もう止まらなかった。まるで、誰かにずっと話を聞いてほしかったかのように、この時を待ち侘びていたかのように──言葉が俺の意思に反して、俺が考えるより早く、口から飛び出していくような感覚。ぐっと涙が目尻のあたりまでこみ上げてきて、俺はそれをこらえるために手のひらに爪を立てた。
「だから俺も、もう死のうと思ってあそこに来たんだ。兄貴と同じ場所で、同じようにして死のうと思った」
 リタは何も言わず、ただ黙って俺の言葉を聞いていた。
「でも……なんでだろうな。君のことが放っておけなかった」
「……それって、私が可哀想に……惨めに、見えたからですか?」
「えっ……」
 驚いてリタの顔を見た。リタはただ真剣な瞳で俺を見つめている。責めているふうではない。
「……そうだな……そうなのかもしれないな。俺は人を救ったんだって思い込むことで、罪の意識を減らそうとしたのかもしれない……」
 そう口に出すと、その感情は確信に変わっていき、俺は自分のエゴイズムの醜さに顔をしかめた。
「……悪い。最低だな」
 しかしリタは俺とは対照的に、明るい笑みを浮かべてみせた。
「弘樹さん、"人間"って感じですね」
「な、なんだそれ……」
 俺は腕を組んで、少し考えてみた。しかし、生まれつき頭はいい方ではないし、文学的だったり哲学的だったりする表現にも正直疎い。俺にはまるで分からなかった。
「そんなに真剣に考えなくてもいいですよ。深い意味なんてないです」
 リタはそう言ってクスクスと笑う。
「ほら、弘樹さんも早く食べ終えてくださいね。ケンちゃんに会いに行くんでしょう?」
 気づくとリタはもうラーメンを食べ終えていた。そうだった、と俺は言って、ラーメンに再び口をつける。
 この店イチオシの豚骨スープらしいが、生憎あまり味は分からなかった。この後のことを考えると、どうしようもなく胸騒ぎがして味わうどころではなかったのだ。人目もはばからず音を立てて麺をすすり、スープを器を持ってガブガブ飲んだ。急いでいるとはいえ、腹が減ってたまらなかったのも事実だった。
 なんだかんだで、昨日の昼ぶりの食事なのだ。
「うし、食い終わった。じゃあ行くか」
 俺はそう言って立ち上がる。リタもうなずいて、席を立った。
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