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二章
62
ザイダは流れ落ちる額の汗を、手拭いで拭った。
汗っぽくなった長い黒髪の紐をほどいて、頭をぶんぶんと振る。地肌に風が入って気持ちいい。
街はずれにあるこの診療所には、少し離れた近隣の村々からも患者が来ることが多い。とっくに日は中天を回っていたが、ザイダは昼飯を食べる暇さえなかった。
午前の最後の患者を送り出して、思わずため息をつく。
どうも異生物の出現が最近多く、怪我人が増えている。何人かの退異師がこの街にも近隣の村にも駐留してくれてはいるのだが、それでも間に合わないほどに発生が多いのだ。
こういった異生物の発生増加は何年かおきに見られる現象らしく、近隣の人々はそこまで脅威には感じていないようだった。発生する異生物も小型のものが多く、命にまで関わるような怪我を負うものは少ない。
ただ、異生物によってもたらされる外傷は、放っておくと後々どのような後遺症を残すかもわからないので、なるべく早い治療が望ましいとされているのである。
今日の午前中も、小型の虫型異生物にやられた村人たちが十五人ほどいて、その治療で大わらわになっていたのだ。
マリキシャであるザイダがこの診療所に来てから五年近くになっている。これまで高能力者の医師がいなかったようで、ザイダがやって来た時には随分と歓迎されたものだ。三十八歳というザイダの若さも歓迎された理由の一つだっただろう。
志破れ、婚約者をも失い、ボロボロになってやって来たザイダを、ここの人々は優しく受け入れてくれた。
もう、政治の世界に関わりたくない。
五年の間、この辺縁の地で医師として働いたザイダの、それは偽らざる気持ちだった。
ザイダは疲れた身体を起こして立ち上がった。今日はもう自分で何か作る気にはなれない。まだ何かの屋台が広場に出ていればそこで買うか。そうでなければタンカイの店で何か適当に作ってもらうか、などと考えながら扉から出ようとしたとき、その扉が叩かれる音がした。
思わずうんざりとしてザイダは応えた。
「午前の診療はもう終いだ!すまねえが後にしてくれ!」
しかし、扉を叩いたものはそれが聞こえなかったのか無遠慮に扉を開け、一歩中に入ってきた。そこには隆とした体格のレイリキシャが立っていた。豊かな白髪を編み上げて後ろに流しており、むき出しの肩の筋肉は盛り上がっていて肉体の強靭さを感じさせる。半面、その顔には厳しいばかりでもない何かを浮かべており、文句を言おうかと思ったザイダの心をくじいた。
「休憩してるところだったか?すまない、俺も時間がないもんでな。俺はイェライシェン請負人協会副会長をやってる、ヤーレってもんだ。あんたはカラッセ族のザイダで間違いないか?」
大柄なレイリキシャは一息にそう言った。ザイダは一瞬呆気にとられたが、「カラッセ族のザイダ」という呼び名が心をざわめかせた。
ザイダは整った眉を顰め、ヤーレにも負けぬ逞しい腕でどんと相手の胸を突いた。不意のことにヤーレは足元をよろめかせた。ザイダはそのままもう一度どんとヤーレの胸を突いて押し、扉の外に追い出した。
「カラッセ族のザイダなんてのはいねえ。帰れ」
そう言ってバタンと扉を閉めて厳重に鍵をかけた。
鼻先で閉められた扉を見て、ヤーレはため息をついた。‥すぐには受け入れてもらえないだろうとは思っていたが、全く話も聞いてもらえない状況は想定していなかった。
(こりゃあ随分と、カラッセ族内でのあれこれが堪えてるんだろうな‥出奔したのは五年ほども前だと聞いていたが、まだ傷は塞がってねえってところか)
ヤーレは固く閉じられた扉を見て思案した。しばらく考えてから、もう一度扉を叩いて言った。
「どうもあんたの古傷を抉っちまったようで申し訳ねえな。だが、こっちもいろいろ事情を抱えてここまで来てるんだ。あんたに関係ねえと言われりゃそれまでだが、謂れなく命を狙われてる若者のためにも、このヤーレの話を聞いてくれねえか?」
ザイダは立ったまま、ヤーレの声を聞いていた。‥『謂れなく命を狙われている若者』、という言葉はザイダの胸に迫ってきた。それは、かつての自分の身の上に当てはまるものであったからだ。
ザイダは知らず扉に手をかけようとしている自分に気づいた。その手をぎゅっと握って引っ込めると、大声で怒鳴り返した。
「そんな話は間に合ってる!帰れ!」
ザイダのその声に、返事はない。扉の向こうはしんとしたままだ。耳をすませているとザシュザシュと歩き去っていく足音が聞こえた。
ザイダはほっと気が抜けて粗末な椅子に座り込んだ。こんなに疲れているのに、気疲れまでさせられるとは。どうも今日はツイていない。もう少し経ったら今日は奮発して、タンカイのところで肉の煮込みでも買ってくるか。それか久しぶりに具だくさんのコモ麺でもいいな。
自分でも料理はするが、このところ忙しくてほとんど作る暇がない。材料の買い出しにもろくに行けていないので、家には何もなかった。朝飯は駐留している退異師がもってきてくれた、あっさりめのパルジャで済ませただけだった。
ヤーレという請負人が去ってからたっぷり二十分は経った。そろそろ行き会うこともないだろうとそろりと扉を開けてみる。薄く開けた隙間からはヒトの姿は見えない。
ザイダはほっとして財布を隠しに突っ込み、家に鍵をかけて歩き出した。空はまだ雲が厚い。こんな天候の時には異生物が発生しやすいものだ。おそらく午後にも患者は押しかけてくるのだろうと踏み、夜の食事の分も買い込んでおこうと決める。
広場通りに向かって歩いていくと、まだちらほらと屋台がたっているように見えた。しかし今日はタンカイの煮込みだ。夜のためにコモ麺も買おう。そう思って広場を抜けようとしたとき、いきなり「よう!」と声をかけられ後ろから肩を叩かれた。
驚いたザイダが振り返ると、何やら大きな包みを両手に提げたヤーレが笑って立っている。こいつ、まだいたのか、とザイダは身体を引いた。
「‥まだいたのか。さっさと帰れ」
「まだ飯食ってないんだろ?ほれ、いっぱい買ったから食おうぜ。俺もまだ今日は昼飯食ってないんだ」
ヤーレはそう言って大きな包みをひょいと顔の高さに上げてみせた。ザイダはふいと顔を逸らして冷たく答えた。
「結構だ。自分で買うから」
そう言って歩き出そうとしたザイダに、ヤーレは後ろから明るい声をかけた。
「おっと、今から惣菜屋に行ってももう何も残ってないぜ?‥俺が全部買い占めちまったからなあ」
ザイダはキッと後ろを向いてヤーレを睨みつけた。ヤーレはそんなザイダの視線に怯むことなくにこにこと笑っている。
「‥屋台で買うからいい!」
「ああ、屋台ももう全部売れちまったようだ。今は店じまいの途中らしいぞ」
言われて広場の方を振り返ってみれば、確かに台や鍋などの道具をしまう作業をしている者たちばかりだった。屋根をたたみ屋台を片づけている者もいる。
「‥~~~っ」
ヤーレはザイダの傍まで来て、またぽんと肩を叩いた。
「俺の奢りだから!‥早く食べようぜ!」
そう言うとさっさとザイダの家の方に向かって歩き出した。ザイダは睨み殺せるもんなら睨み殺す、くらいの勢いでヤーレを睨んでいたが、空きっ腹には勝てず仕方なく自宅の方に向かって歩き出した。
タンカイの店で売れ残っていたのは高価な惣菜ばかりだったようで、ザイダが食べたいと思っていた肉の煮込みもコモ麺もあったし、タンカイが気が向いた時にしか作らないボファンという菓子まであった。
ザイダは遠慮することなくがつがつと貪り食った。朝から働きづめで本当に空腹だったし、ヤーレの分まで食ってやる、という気持ちがあったからだ。
腹いっぱい食うと、残っている惣菜を全部かっさらって台所にしまった。
「おいおい、俺まだ食ってたのに~」
「俺の晩飯にする。もともとそのつもりだったんだからな」
理不尽なザイダの言い分にも、「仕方ねえなあ」と言いながらヤーレは笑っていた。
思いがけない豪勢な昼食が終わり、ザイダは仕方なく茶を淹れて出してやった。ヤーレは遠慮することなく「おっ、悪いな」と言いながらそれを飲んだ。
半分ほど飲んでから茶器を机に置いて、ヤーレは居住まいを正した。
「で、俺の話を聞いてくれねえか」
ここまで来ると、ザイダはどうにもヤーレを憎めなくなってきていた。深いため息をつきながら茶を飲み、頷いてみせた。
「‥‥言うだけ言ってみろよ」
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