怪奇幻想恐怖短編集

春泥

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トランクケースの中の女

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 角ばった旅行鞄、トランクケースと呼ばれている。大きさは、そう、わたしの用途に丁度いいぐらい。

 ねえお願い、ここから出して、と女が囁く。肉厚で官能的な唇には、紅が差してある。化粧用の小さな筆で、女が愛用していた口紅からその毒々しい色を女の形のよい唇にうつしたのは、わたし。

 わたしは絵描きだった。この女をモデルに、何枚も絵を描いた。女のことは、体の隅々まで知り尽くしていた。形の良い鎖骨の窪みや、豊満過ぎてやや垂れた乳房の下に浮き出たあばらにできた影さえも。わたしは女のすべてを、その退廃的美しさを写し取ろうとやっきになっていた。

 奔放な女に他に愛人がいることは知っていたし、意にも介さなかった。だが、画商をしているわたしの弟、血を分けた肉親と通じていると知ったときには、己を失った。

 弟は、別のトランクケースに詰まっている。怒りに駆られて、ほっそりした繊細な体つきだったとはいえ百七十センチほどはある成人男性を詰め込むためには、四肢を無理な角度に折り曲げ、体を押し潰さなければならなかった。

 ばきっ、ぐちゃっ。あのときの不快な音は、今もわたしの夢の中に現れる。

 ねえ、誘ってきたのはあなたの弟の方なのよ。トランクの中から女が囁く。
 弟に何をしたのか、鉄臭く粘つく液体や肉片が溢れ出た大きな水溜りの上に鎮座するトランクケースを前に、少し自分を取り戻したわたしは、赤黒く染まった両手を見下ろし、考えた。室内は手がかじかむほどの温度だったが、それでも甘みを帯びた腐敗の臭いが既に漂っており、わたしは吐き気を催した。

 くぐもった悲鳴に振り向くと、両手足をベッドの支柱に縛り付けられた全裸の女が訴えかけるような瞳でこちらを見ていた。猿轡のせいで、言葉を発することは叶わず、ダ・ヴィンチの人体図を思わせるポーズで四肢を拘束されているため、首をねじるぐらいしかできない女が、必死に何かを訴えている。

「ああ、そうだな。お前の美しい顔や体を潰し、四肢の骨をばきばきに折って詰め込むなんて、おれにはできない」

 女の顔に、安堵が浮かんだのを見て、わたしは言った。

「手足を、切断することにしよう。肩と、腿の付け根のところで。ほら、このトランクは、お前の頭と胴体がやっと入るぐらいの大きさじゃないか? まあやってみなければわからないが、胴体も少しは削ることになるかもな」

 ベッドの上で女が失禁したが、そんなことは大した問題ではなかった。生命を失ったヒトの筋肉が弛緩しきった肉体からは、色々な物が飛び出てくるものだ。
 それは、弟のときによくわかった。

 弟には、妻子があった。売れない絵描きとして自堕落な日々を過ごすわたしとは対照的に、堅実で誠実な人柄で、未だ世間に認められるに至らない不遇に喘ぐわたしを支えてくれた。わたし以外にも、彼に才能を見出され、精神的かつ経済的援助を受けている画家は少なくない。彼らは、衰えぬ情熱で作品を生み出しながら、世に出る機会を窺っている。
 それらをすべて、破壊してしまったわたしは当然破滅の道を進む以外ないとして、この女は――

 カンバスの中で艶然と微笑み続ける。それだけで、十分だろう。女はわたし以外の画家のモデルも務めていた。時には聖女や女神として、多くの場合は淫らな笑みを浮かべた淫婦として、女の姿は写し取られている。
 もっとも、画商である弟の援助を失った彼らが今後も制作を続け、いつか世に認められるという保障はない。たちまち生活に困窮して、無名の画家のままで生涯を終える可能性の方が高いかもしれない。彼らの絵は、二束三文でも買い手がつかず、納屋の穴を塞ぐためぐらいにしか、用途がないのかも。

ノコギリを取ってこよう」

 わたしの呟きに、女は再び激しく身をよじり、くぐもった悲鳴を上げ始めた。
 部屋を出るときに、わたしは二つのトランクケースに目を向けた。ひとつは、部屋の中央で今にもはちきれんばかりに膨張したトランクケース、もう一つは、部屋の隅でぱっくりと口を開けたまま、まだ中身は空のトランクケース。大量の錆び臭い液体が飛び散った室内に、衣類や本などが散乱しているのは、わたしの元から永遠に去るつもりだった二人のトランクの中身を、わたしが放り出したから。 
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