怪奇幻想恐怖短編集

春泥

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不幸図書館(2)

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 若い頃のシュテファンは、どこにでもいるような、気弱な青年でした。大学を卒業した後は司書となって、この図書館――当時は別の名前の市営図書館でした――に勤務していました。彼は、内気な青年らしく、人と話すよりは本を読んでいる方を好むという質でしたが、好きな本のこととなると目を輝かせて熱弁を振るうという一面もありました。だから、人付き合いが苦手でも、図書館の利用者からある小説について尋ねられたりすると、それはもう親切丁寧に教えてやり――彼の書物に関する知識は実に豊かだったそうです――即答できないようならば、丹念に調べ上げて回答を探し出しました。書物に関して、彼が見つけられない答えはない、というのがもっぱらの評判でした。

 そんな彼が、殊更に力を入れていたのが、移動図書館でした。馬車の荷台に書棚を積んで、図書館がない地域を回り、住民に本を貸し出すというあれです。

 今でこそそんな不届きなことを口にする者はおりませんが、当時は、移動図書館の運営費を捻出することによい顔をしない者がかなりいたのです。彼らの言い分は「この市にそんな予算はない」でした。それに対しシュテファンは、気弱な性格に似合わず、強固に反論しました。

「図書館を利用できる環境にいない人々の所には、こちらから本を届けるようにしなければならないのです」

 彼は、市議会の同意を得られないとなると、自らボランティアとして仕事が休みの日に移動図書館ホタル号を駈って、図書難民が生活する区域を回ることを志願しました。

 たった一台の馬車から始まったホタル号は、今ではシュテファン号と名前を変えて数を増やし、図書館まで足を運ぶことができない人々が暮らす辺縁の地を漏れなく巡回しています。この国の住人は、定期的にこの不幸図書館の蔵書を読むことが義務付けられていますし、勿論、シュテファンの『不幸全集』以外の本を読む自由も保証されています。

 ええ、『不幸全集』というのが、シュテファンの残した膨大な遺稿を含めた著作群につけられた名前です。最初に彼の原稿を出版することにした好事家アルフィ・ブカウォーム――ええ、お察しの通り、アルフィは私の祖父です――が、彼の偉業を称え、彼の死後、その六千を越えるエピソードを『不幸全集』として全三百五十巻にまとめました。この国でかつて起きた不幸の貴重な記録です。最も、『全集』三百五十巻は一冊一冊が大きく、重い。これを老人や子供に読めというのは酷ですから、通常国民が読むのは四五篇のエピソードを小冊子にまとめたエディションです。

 一人の人間がそんなに大量の物語を記すことができるのか。

 しごくもっともな疑問です。シュテファンは、この『不幸全集』を書き上げるために、自らの寿命を縮めて挑みました。それはもう、とり憑かれていたと言っていいほどの打ち込みようだった、と祖父アルフィは申しておりました。そして、彼がこのような大作を書き記すに至ったきっかけは、移動図書館ホタル号で貧民街に出向くことも多かった彼が、胸の破れるような不幸な出来事に多く遭遇したからだったといいます。

 彼はまず、あるご婦人の身に降りかかった不幸を記すことから始めました。飲んだくれの夫に毎日暴力を振るわれ、子供を三人流産したあと、ようやく生きて生まれた子をそれはそれは慈しんでいたのに、仕事をしない夫の代わりに夫人が夜の酒場で働いている間に酔っぱらった夫が眠り込んだ部屋で赤ちゃんが凍死するという悲劇に見舞われ、絶望のあまり井戸に身を投げた女房。これが後に『不幸全集』第一巻にエピソード1として収録されることになる「ミセス・Dの悲劇」です。

 私の祖父アルフィが、シュテファンの書いた原稿を読んで、出版するよう強く勧めました。嫌がる彼に、このような悲劇を世に知らしめて再発防止を訴えることには多大な意義がある、必要な資金は自分が援助しようと説得したと言います。どうにか承諾させ出版したところ、これが大評判となりました。

「客が判断力を失うほど泥酔するまで酒を飲ませてはいけない。また、アルコール依存が疑われる客に酒を売ってはならない」という酒場法第二十九条が生まれたのは、この『ミセス・Dの悲劇』の影響です。

 莫大な印税の収入が祖父とシュテファンにもたらされましたが、祖父はそのお金をシュテファンの次の著作『ABC長屋の倒壊』の出版費用や、本を買うことができない人々への無料配給、更には読み書きができない貧しい人々に教育を受ける機会を与えるために使いました。シュテファンは自分の取り分で図書館の蔵書を増やしました。更に、図書館のない地域に新たに図書館を建て、その恩恵に預かれない人々のために馬車を何台も購入してをホタル号を増やして移動図書館員を雇用し活動範囲を広げることに費やし、残った全額を困窮家庭を救済する基金に寄付しました。

 彼の書く市井の人々の不幸は、次々とベストセラーになり、印税が入るたびに祖父とシュテファンはそれを不幸な人々の救済のために使いました。彼が本を書くたび、そして人々が彼の本を読むたび、一般市民の教育水準が上がり、経済が潤い、貧困に苦しむ者の数が少なくなり、人々の心が慈悲と慈愛に満たされて、この国は以前より少しずつよくなるのです。それはあたかも、彼が書き記すことによってその不幸が書物の中に封印され、現実世界から姿を消していくかのようでした。そうしてシュテファンはいつしか、恵まれない人々の様々な不幸を書き記す作業にのめり込んでいきました。

『まるで、何かにとり憑かれているかのようだった。他者の心の痛みに共感し、彼自身が身を切られるような痛みにもだえ苦しみながら、見る見るうちに痩せ衰えていくのに、彼を止めることができなかった』

 晩年の祖父は折あるごとに悔しげにそう申しておりました。気弱で、生きている頃は友人がほとんどなかったシュテファンの唯一の友が私の祖父アルフィでした。祖父は相当に成功した実業家でしたが、当時は既に隠居の身で、時間を持て余してよく市営図書館に通っており、そこでシュテファンと知己を得る幸運に恵まれました。彼の私利私欲を捨てた生き方に感銘を受けた祖父は、自身の財産の大半をこの不幸図書館の設立に費やしました。お陰で今では全く裕福ではなくなった我が一族ですが、この国の社会福祉は大した財産を持たない私の老後をも保証してくれますから、何ら問題はありません。

 いけない、また話が逸れでしまいました。

 これらの逸話は追々あなたの耳に入るでしょうから、今長々と話す必要はありますまい。とにかく、なぜこの国の住民はシュテファンが短い生涯を通じて取り組んだ未完の大作『不幸全集』を読み続けなければならないのか、概ねご理解いただけたものと思います。この国の犯罪の発生率が非常に低いのも、社会福祉がどこの国よりも手厚いのも、全てこの『不幸全集』のお陰なのです。

 それでは、こちらの三冊をお渡ししておきます。期限は先ほど申し上げた通り、最長で一ヶ月プラス二週間です。あとのことは、仮住民センターの職員が面倒をみてくれますから、どうぞご心配なく。あなたは既に手に職をお持ちなので、すぐに仕事に就くことができるでしょう。

 では、一ヶ月後にまたお目にかかりましょう。
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