怪奇幻想恐怖短編集

春泥

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 女は大罪を犯した。
 その罰は、無慈悲で過酷なものだった。

 目の前に森があった。
 いや、女の周辺をぐるりと木々が囲んでおり、鬱蒼と茂る葉のせいか、陽がささず空気が湿っぽい。女は裸足だ。素足の下の苔の柔らかさや、ごつごつした木の根の感触が生々しい。
 だがそんなことに気を取られている暇はなかった。
 方角などは、はなからわからなくなっている。それでも、闇雲に歩く。探しているものがあるからだ。
 何しろ暗いので、藪に突っ込んで衣服は破け、根っこにつまずいては転び、素足だけでなく体のあちこちから血が流れているが、それすらよく見えないのは幸いなのだろう。気に病んだところでどうにもならない。これも罰の一環なのだから。

 どれくらいの時間が経過しただろう。全身を引き裂かれてぼろぼろになった彼女の眼が、光り輝くものを捉えた。近づいていくとそれは、ほの白い耳、左側の耳だった。
 胸が高鳴った。
 掌に載せたそれは彼女の恋人のものに違いなかった。毎夜毎夜、睦言を囁いたそれを、見間違うわけがなかった。

 ――お前の恋人を千々《ちぢ》に裂いて、この森にばらまいた。おまえは、すべてのパーツを集めなければならない。

 無慈悲な声からそう告げられたのだった。
 女は震えるもう片方の手を重ねて、愛しい男の耳を包み込んだ。

 それから、眼球(片方)、唇、右の爪先、親指、腎臓(片方)と、暗い森のあちらこちらに散らばって落ちているパーツを女は夢中で拾い集めた。時には高い枝からぶら下がっている腸を手に入れるために登った木から落ちて骨を折ったりしたが、もはや女の目に映るのは、うっすらと光を発する愛する男のあれやこれやのみ。
 まだ足りない部分がいくつかあるものの、引き裂かれた部位でどうにかヒト型が形成されると、それはぎくしゃくと歩行するようになった。まだ一言も発することはなかったが、女の後をついて回る男の肉体を眺め、女は、全てのパーツを集めたら、昔のように彼女をその逞しい腕に抱き、愛の言葉をささやくのではないかと胸を躍らせた。
 
 残るパーツは、唇のみ。
 そしてついに。暗い森のなかで、柔らかな光を発し、苔のベッドの上に落ちているそれを発見した。女は震える手を伸ばした。
 背後で微かな音がした。
 この森は、耳が痛くなるような静寂で満ちており、それを破るのは、女自身の息遣いと、まだ少しぎこちない動きであとをついてくる男の体――この最後のパーツをはめれば元通りになるはずだ――が立てる足音ぐらいのものだった。
 しかし、明らかにそれらとは異なる異質な音が。

 ぱた、ぱた、ぱた……

 振り向けば、彫像のように美しかった肉体から、耳が、鼻が、指が、次々と剥落していた。
 女の口から絶望の悲鳴がほとばしり出た。
 それに後押しされたかのように、男の体は、寄木細工の要の部品を引き抜いたかのように、一気に崩落し、四方八方に飛び散った。
 それとほぼ同時に、ぱたぱたと女の頭上の葉を打ちながら、上から降って来たものがある。女の目の前に落ちて弾んだそれは、左手――正確には手首から下の部分――だった。
 女の眼が大きく見開かれた。それは、彼女の愛人の手とは似ても似つかない、武骨な労働者の手だった。
 葉を鳴らす音が大きくなり、次々と人体の一部が降ってきたが、そのどれもが、彼女がよく知る男のものではない。幼児の足首、若い女の乳房、老人の臀部、大きな大腿骨、肺臓の片方、脳など、明らかに複数人のパーツが、ざあざあと降り注いだ。
 呆然と目を見張る女の頭を、肩を、背中を打つそれがようやく止んだ時には、木々の枝は一斉に花が咲いたみたいに様々な人体のパーツをぶら下げていた。下まで落ちてきたものは、地面や低い茂みの上に降り積もっている。

 我に返った女は、自身の頭に誰のものとも知れぬ胃から食堂にかけての部分をひっかけたまま、先ほど男の唇があった辺りに重なる他者の身体部位を次々放り投げたが、目当てのものは見つからなかった。

 女の周囲では、バラバラにされた肉体が早くも悪臭を発し始めていた。 
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