怪奇幻想恐怖短編集

春泥

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堕人間(1)

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 夫婦にとって待望の第一子だった。だが、子をとりあげた産婆は、低い唸り声をあげた。
「どうしたの、まさか――?」
 汗だくでいまだ荒い息をつく若い母親は体を起こして我が子を見た。先ほどまでの体を引き裂く痛み、今も出血をしていることは頭から吹き飛んでいた。
 柔らかなランプの灯りの下で、ぬめぬめとした液体に包まれてはいたが、白く透き通るような美しい赤ん坊だった。きゅっと目をつむり、長く水に浸かっていたために皺皺の細い指をもそもそと動かしている。
「とてもかわいい男の子だわ。何も問題ない、そうでしょう?」
 産婆の節くれだった手が、赤子の体を反転させた。
 思わず口から飛び出した叫び声を、母親は慌ててかみ殺した。
 寝室のドアが開いて、夫が心配そうな顔を覗かせた。ずっと扉の前を右往左往していたのだが、ついに我慢できなくなったのだ。
「一体、どうなっているんだ」
 だが、夫の眼も、赤子の背中を見るや、言葉もなく膝から崩れ落ちた。
「ああ、そんな、そんな」
 絶望のすすり泣きに、小さな体から発せられたとは思えない叫びが加わった。
「いいかい」産婆は赤子に産湯をつかわせ、清潔な布にくるんで母親に手渡すと、言った。
「あんたたちが今後どうするのであれ、その子がこれからもお天道様の下を生きていくっていうのなら、あたしはなんにも見ちゃいない。その子にそれが出たのは、生まれ落ちた後の話だよ。いいね」
 夫婦の暗い瞳にわずかな光が宿った。
「なにぼうっとしてるんだい。赤ん坊を飢え死にさせる気かい」
 母親の乳房から懸命に乳を吸う我が子を眺めている間に、夫婦の決意は揺るぎないものになった。お互い、口に出して告げる必要はなかった。
 この子は、手放さない。絶対に。

 突然流行り出した奇病、症状はまちまち。
 町中を歩いていたとある紳士、弁護士だ。誰にでも礼儀正しく、評判はすこぶる良い。紳士の紳士たる所以。彼が道行く人々に親し気に挨拶し、青果売りのおかみと軽口を叩きながら青りんごを四つ、育ち盛りの子供たちと妻のために買い、家路へ急いでいると、突然
「ぐあっ」
 と紳士らしからぬ叫び声をあげた。道行く人々が驚いて足を止め見つめる中で、紳士の手からりんごを入れた紙袋が落ちる。
「かあああっ」
 苦し気に長身を二つに折って、彼は石畳の上に手をつく。上品な背広の背中が波打っている。もう間違いない。ばりっと布と皮膚を破って、鮮血と肉片がこびりついた翼が現れる。この不吉な翼を目にした者や、その家族が後日同じ病に侵されるという噂があるため、人々は千々に逃げ出す。青果売りのおかみも、肉屋のおやじも、新聞売りも、通行人も、全員。
 それと入れ違いに、はやくも市民の発病情報を入手した役人たちが、巨大な網や縄、麻酔銃などを手に駆けてくる。
 紳士は紳士らしからぬ苦痛の叫びをあげながら、石畳の上に両手をついて、嘔吐した。翼の急激な成長に、身体がついていけないのだ。といっても彼の背中に生えたそれは、どう見ても彼の二メートル近い長身を浮遊させるには小さすぎ、まるで昨今新聞を賑わせる風刺画そのものだ。これまで、背中に生やした翼で空を飛んだ者はいない。それでも、彼らの捕獲には儀礼的に網――虫取り網を巨大化させたもの――が用いられる。四つん這いの姿勢のまま巨大な網を頭から被せられた紳士は、専用の病院に送られた。
 これなどは非常に劇的な例で、通常は、背中のかゆみや湿疹にしばらく悩まされたあと、背中の皮を破って、ごく小さな羽、それも雀の羽よりも小さな羽か、単に羽毛が飛び出てくることで発症が確認される。この時点でしかるべき治療を受ければ、完治も見込まれるという噂だが、あくまで噂である。人々は仮に感染が疑われたり実際に発症したりしても、どうにかそれを隠そうとするようになった。
 お役人は、市民による善意の通報を推奨し報奨金もかけられたが、明日は我が身であるため、よほど動かし難い証拠がない限り、隣人同士はお互い知らぬ存ぜぬを通すのが普通だった。それでもまれに、ライバルの失脚を狙って偽りの密告を試みる者もいた。嘘が発覚すれば虚偽の告発者は、社会の秩序をいたずらに乱したと厳しい罰を科せられるのだが、それで邪な心の暴走が抑止されることは滅多になかった。
 この病に関する研究はまだ歴史が浅く、判明していることは少ない。即ち、遺伝なのか、伝染性なのか、なんらかの外的要因(怪我や精神的ショック)や、生活習慣が影響するのかしないのか、ほとんどわかっていない状態だ。こんな状況で「治療が早ければ云々」というのは詭弁であるとみな見抜いている。だが、めぼしい治療方法すら確立されていない状況では、ひとは、特に感染者やその家族は、藁にもすがるようになる。怪しげな民間療法が横行し、これも取り締まりの対象となっているが、あまり効果はない。

 不穏な空気が国内で醸成されつつあるなか、ささやかな農地を耕す働き者の両親の下に生まれた男の子は、すくすくと育っていった。彼が背負っている秘密を知るのは、両親と、産婆、そして神父だけ。
 信心深い両親は、大きな秘密を神にだけは告解せずにいられなかったのだ。神父は決して口外しないと約束をした。
 神父という役目柄、彼は若い夫婦と同じ悩みを抱える者が村に少なからずいることを知っていたが、絶対に他言はしない。たとえそれが、同じ悩みを共有する人々の大きな慰めになるのだとしても。約束は約束。口の軽い神父に誰が魂の悩みを打ち明けられようか。
 秘密を背負って生まれてきた男の子の名はシェイといった。幼い頃から大層美しかったが、それを奢ることなく、働き者の両親の手伝いをよくし、学校では常に優秀な成績を収めた。そして隣人にも誰にでも親切で、教会の慈善活動にも積極的だった。
 シェイの背中の秘密は、彼が成長しても、小さいまま留まっていたので、衣服をすっかり脱いでしまわない限り、露見する心配はほぼなかった。血管が透けるほど色白で日光にあたると火ぶくれを起こすほど肌が敏感だったため、他の子供たちのように夏になっても裸で走り回るようなことはせず、それが不自然とも思われなかった。
 それに、例の奇病は、このような田舎町にも影を落としていたから、皆背中を不用意にさらして、「おや、その痣はどうされました」とか「あれ、ここ、ちょっと固くしこりみたいになってる?」なんて指摘を受けることを恐れるようになっていた。
 シェイが十三歳になろうという年、神父も交えて、彼の進路を話し合うことになっていた。優秀な彼は、大学への飛び級入学と奨学金が許されていたが、彼はあっさりそれを断っていた。
「父も歳をとって、母と二人きりで畑を耕すのは大変だと思うのです」
 きらきらと瞳を輝かせてシェイは言った。
「それに、ニニィのこともありますし」
 ニニィは、彼の五つ下の妹だ。賢く容姿にも恵まれた兄とは正反対に、ニニィは最初の言葉を話したのが三歳のときで、見た目も――ほんとうのところ、家族の誰とも似ていなかった。それでも兄はこの妹を溺愛し、いじめっ子にからかわれれば、珍しく頬を赤く染めて反撃をしたりした。といっても、礼儀正しく相手の所業を非難し、「神様がお許しにならない」ときっぱり断言するにとどまっていたが。
 どうやら妹の世話も自分の役目と思いつめているシェイの説得は容易ではなかった。

 その頃、城下町では、奇病に起因する不穏な空気がいっそう濃くなっていた。鶏や七面鳥を食べるだけでも発症の原因になるのではないかと肉屋が焼き討ちにあい、卵やそれを使った製品も食料品店の棚から姿を消し、同志を募って養鶏場を襲撃する者まで現れた。
「お前、顔がちょっと鶏に似てきたぞ」
 などと不吉なジョークを同僚に飛ばした男が袋叩きに合い、後日実際にその同僚が発症した際には、軽口を叩いた男は広場でロープに吊るされた。奇病の発症者を収容する施設は超満員で、「鳥人間」と陰で囁かれる病人たちは、毎日数百人規模で「殺処分」されているという噂だ。
「だが……実際、何が問題なんだ。背中に羽が生えたからといって、それ以外何ら変わることはないのに。病院に収容するのはやめて、羽ぐらい自由に生やさせておけばいい」
 そんなことを議会で提案した議員は、夜道で暴漢に襲われて、上半身を裸に剥かれ、背中に大きな硝子の破片を二枚、翼のように突き刺された姿で発見された。
 実際、彼の言うとおりだった。背中に羽が生えたからといって、その羽は持ち主を自由に飛び回らせるほどの大きさや力がなく、せいぜいが訓練によってわさわさと自力で揺らして見せることができるようになるぐらい。このご時世ではサーカスの見世物にすらならないが、特に害をなしているようには見えなかった。ただ、背中の羽の大きさによって、羽を外に突き出せるタイプのシャツや上着のデザインが必要で、ベッドを共にする夫または妻が発症者の場合は、寝ている間の翼の処理について話し合いが必要となるという程度のことだった。
 だが一旦根付いてしまった偏見と差別の払拭は困難で、いまや集団ヒステリーに達していた。「鳥人間どもは、結託して羽なし人間を駆逐するつもりでいる」などといった噂が流布されたりもした。
 けたたましい悲鳴が日中、町中で起きることも珍しくなくなった。鳥人間撲滅を掲げた自警団が、女を捕まえて、公衆の面前で衣服を引き剥がし、背中に兆候が表れているか確認するようなことが横行していたからだ。警官はこのような行為に遭遇すれば、口頭で注意を与えるものの、厳しく取り締まることはなかった。
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