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第8話 トーマ

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 小・中学校時代のような親密な関係が続いていたのなら、トーマは二人の関係にもっと踏み込んでいたかもしれない。大きなお世話と分かっていても、アバズレに友が弄ばれているのを放置してはおけない。
 しかし、色恋というのは理屈が通じない場合も多々あって、何度裏切られても結局シンイチはあの女と別れられないのかもしれない、とも思っていた。トーマ自身にそのような経験はない。彼は己の欲望に誠実で、向こうにもその気があるとみればそのチャンスを逃さない男だが、深追いはせず、長く特定の誰かとつきあうということはなかったから。
 だが、世の中にはいくら言っても――遠回しでは通じないからと「お前のことはこれっぱかも好きじゃねえ。気持ち悪いからつけまわすのやめろ。今度やったら警察呼ぶぞ。お前と寝るなんて、ありえないから」とド直球で拒絶しても――認めない・諦めないストーカー気質の人間が実際に居る。よりにもよってあのシンイチが欲望や嫉妬に溺れてバカげた犯罪行為に走る姿は想像がつかなかったが、恋愛でおかしくなった場合はその限りではない、とも。生臭い色恋沙汰の前には友情は無力なものである。
 それで、折を見てやんわりと注意を促す(「ああいう女相手にのぼせすぎるとロクなことにならないぞ」)程度に留めていた。どうせ、最終的にはあの女が糞真面目なシンイチに愛想を尽かして去っていくに決まっているとトーマは確信していたのだし。

 しかしトーマの予想に反してシンイチが大学を卒業し就職したあとも二人の交際は継続していた。アヤという女は、じきにチャラい年上の男に転ぶだろう、大学の将来有望な准教授にでも乗り換えるだろう、会社の広報という華々しい役職を通じて出会ったIT企業の社長なんかとくっつくだろう、というトーマの予想をことごとく裏切ってきた。少なくとも、これまでは、そうだった。もしかして、自分の読みが間違っていたのかもしれない、とトーマは思い始めていた。いやらしい体つきの女だからと、男は身勝手な妄想を抱く。アヤはその幻想の被害者なのではないか、と。
 だから、しばらくぶりに再会したシンイチから破局の話を聞いた時は、複雑な気持ちになった。やはり見た目通りの淫乱だったのか、それとも、ただ長過ぎた春が終わっただけなのか。

「お前ら、まだ続いてたのかよ」
「ああ」
「そりゃあ、びっくりだ。で、ついに捨てられたのか?」
「……」

 口の重いシンイチから事の次第を聞き出すのは一苦労で、一通り理解したときには、ジョッキを三杯空けていた。酒には滅法強いトーマだが、その顔は怒りのために赤く染まっていた。

「それでお前は、何もしないで逃げてきたのか? ふざけた話だな。よりによってお前ん家《ち》に男を連れ込むなんて。一緒に行ってやるから、叩き出してやれよ。あいつの荷物をまとめて、外に放り出してやればいい。男がまだ居やがったら、おれがぶちのめしてやる」

 トーマとは対照的に、最初のジョッキの泡がすっかり消えてもまだ半分以上中身が残っているシンイチの方は、カウンターの上に視線を落として黙っている。場が持たないので、トーマはジョッキを口に運ばざるを得ない。

「お前は、昔からそうだよな。辛いとか苦しいとか絶対に言わない。他人の悪口も言わない。いつまでたっても優等生のまま」

 だからトーマとも長い間交友関係を保ってこられたのだ。中学校でトーマが様々な問題を起こしても、表立って友達であることを公表していなかったにもかかわらず、シンイチは表でも裏でも、トーマを擁護する立場を崩さなかった。

「あいつは、本当は悪いやつじゃないんです」

 と生徒指導の教師の前で臆面もなく言い放ち、周囲がざわついても平然としていた。いい格好しいのいやなやつ、と他の生徒から陰口を叩かれても。

 自分を信じてくれる人間の存在が、トーマにとってはとてつもなく大きかったのだ。他には誰も、彼の母親ですらトーマのことはできそこないの屑だと思っていたのだから。
 それでも、生真面目なシンイチは、トーマをただ甘やかしたわけではない。二人きりになると、シンイチは度々辛辣な言葉でトーマを叱りつけた。彼の素行の悪さを非難する時の彼は、非情で容赦なく、誰よりも深く彼の心を抉る言葉で切り付けてきた。

「喧嘩だの煙草だの、お前は親に復讐しているつもりかもしれないが、結局自分を痛めつけているだけだ。お前がそこまで甘ったれたガキだとは思わなかったよ」

 そういう友がいてくれたということが、トーマにとってどれだけありがたかったことだろう。スポーツ枠の推薦で高校に進学できたのも、シンイチの影響があってこそだ。残念ながら膝の故障でプロを断念し再び荒れ始めたトーマが、最後の最後で決定的に道を踏み外すことを逃れられたのもそう。高校をどうにか卒業したあとはしばらくアルバイトを転々としたものの、現在は町工場に就職をして職人として修行中の身だ。トーマは一番必要なときに支えてもらった恩を忘れていなかった。

「じゃあ、このまま何事もなかったみたいに続けていくのか? これからだって何度でもお前を裏切るかもしれない女と。そんなことが可能だと思うのか?」
「正直、どうしたいのかわからない」

 うなだれるシンイチの隣で、トーマは四杯目のジョッキを勢いよく空けた。
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