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第20話 シンイチ

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 自分の留守中に妹が使ったらしいベッドに横になる気になれず、体は泥のようにくたびれているにもかかわらず、シンイチは勉強机の椅子に腰かけ、両手に顔をうずめ、目を閉じた。
 一晩中街を徘徊していた自分の体も、妹ほどではないにしろ悪臭を発しているに違いなく、自分でもそれは嗅ぎとれたが、脱衣所の薄っぺらい引き戸のロックはいかにも頼りなく、現在の妹を閉め出すために必要な強度を備えているようには思えなかった。

 母親は一体どこにいるのだろうか。

 父親が家に寄り付かないのは、シンイチが家を出るよりもはるか以前からのこと。だが、その理由が仕事だけではないと気付いたのはいつだったろうか。
 父は卑怯だ、とシンイチは思う。自分だって母を置いて逃げた。それはわかっている。だが、自分は息子であり、責任の重さが違う。発情して襲いかかって来る妹の面倒は、自分には見きれない。妹を隔離してくれないなら、自分を遠ざける以外にない。母はすっかり貧乏くじを引かされたことになる。逃げ遅れたばっかりに、モンスターの世話を一人で引き受けなければならないなんて。産んだほうがより重い責任を担っているかのように振る舞うのは間違いだろう。親の責任は、両者に等しく分配されるべきだ。
 自分がいなくなってからの母親の生活を、今まで意図的に考えないようにしてきたことをシンイチは痛感していた。
「あいつは異常だ。精神科医に診せるべきだ」というシンイチの主張は無視された。みだりに騒ぎ立てたらお前の評判にも傷がつく、と脅迫めいたことさえ父からは言われた。

 おれの評判?

 それは、婿入り前に傷物にされたとかそういうことか。それとも、世間一般的には、大学生の兄が中学生の妹をたぶらかしたと考える方が自然だとか? どちらも、吐き気がするほど馬鹿々々しい。下衆で噂好きな人間がどう考えるかなんて知ったことか。
 母親は、昔からシンイチの味方ではあるが、家では発言権がなく、無力だ。父の決定には逆らったことがない。
 そして、妹。生まれた時から、宝物のように思っていた小さいハルカ。大切な、妹。「にぃに」と初めて呼んでくれた日のことは今でも鮮明に覚えている。一生そうして愛していくはずだった。妹として。幼少期のような親密さは長くは続かない。でも、お互い恋人ができようが、結婚、離婚しようが、兄妹であるという関係は変わらない、はずだった。

 自分は、どこかで、何かを間違えたのだろうか?

 およそ二年ぶりに再会した妹も、もう二十歳だ。あれは夢見がちな少女の一過性の気の迷いだったと思いたい。
 しかしシンイチはあの忌まわしい夜のことを忘れることができない。半覚醒状態で、てっきりそれは、アヤなのだと思った。昼間は確かに、彼女がいた。自宅に彼女を招いたのはそれが初めてで、恐らく最後ででもあったのだが、母や妹が在宅の状態で性行為に及ぶなど頑として承諾しないであろう堅物の彼氏の意向を汲んで、二人はただ、彼の部屋で並んでベッドに腰かけ、他愛もない話をした。話す以外のことも少しはしたかもしれない。彼だって若く、彼女は美しくて、彼の肩に頭を預けて寄り添う体は細身だが柔らかく、暖かだった。彼女は優しかった。
 だが、同じ日の晩に夢うつつで掛布団をめくって発見したのは、アヤではなかった。
 人生で初めて、怒りに我を忘れて、実の妹に暴力をふるった日。自分にもそんな一面があるのだと思い知った日。「かあっとなって」人を殺す輩と紙一重の自分。現にあのときだって――またあの白い裸体が甦ってくる――一瞬の混乱と怒りのなかで二人に対して沸き上がった殺意を、どうすることもできなかった。
 だけど、情痴のもつれ如きで犯罪者になるくらいなら、惨めな負け犬の方がよほどいい。アヤも、その相手の男も、好きなだけ自分を笑いものにすればいい。大切な人から裏切られた人間が、胸の内にどのような感情を押さえこみなだめているか、裏切った連中が見ることができたなら、とても笑ってなどいられないはずだが。

 それはひたすら、醜く、おぞましい

   *

 肩に手が置かれるまでシンイチは侵入者に気が付かなかった。知らない間に転寝《うたたね》をしていたのだった。はっと顔を上げると、自分のものではないすえた臭いに吐きそうになった。絞首刑の輪っかを首にかけられたかのように、ぞっとした。慌ててデスクの上に置いてあった眼鏡をかける。
「お兄ちゃん」払いのけられる前に、ハルカは兄の肩から手を離した。
「ノックしたけど、返事がなかったから」
 本当にノックしたのか疑わしいものだとシンイチは眉をひそめたが、黙っていた。妹と喧嘩になるのは御免だった。

「疲れているんだ。一人にしてくれないか」
「あの人に浮気されたんだってね」
 絶句するシンイチを見て内心ほくそ笑みながら、ハルカは言う。
「さっきあの人から電話があったよ。あの人、泣いてた。お兄ちゃんと話をさせてほしいって。ここにはいないって言ったのに、勝手にべらべらしゃべり続けて」

 シンイチは青ざめていた。電話の音などきこえなかったし、アヤがそんな内輪の事情をよりによってハルカに話すわけがないと思ったが、声が出なかった。ずっとスマホの電源を切っていたから、自宅に電話をかけてきた可能性は否定できなかった。普段は冷静過ぎるほど冷静で頭の切れる女だが、さすがに動揺しているのかもしれない。

 それは、あんな姿を交際相手に見られれば、誰だって――
 このぐらい、誰だってやってるわ、と彼女は言った。

 兄の唇が小刻みに震えているのがハルカにも見て取れた。その昔、兄が眠っているのを見計らって何度も自分の唇を重ねたそれが。もう二度とあの女が触れることはないのだと思うと、爽快な気分だった。これで晴れて、兄と二人きり。誰にも気兼ねなく、一つになることができる。

「可哀想にね。でも、これでわかったでしょ。お兄ちゃんのことを本気で思い続けているのは、ハルカだけだって」
「お前は、まだそんなことを言っているのか」

 シンイチは爆発しそうになる感情を抑えながら、何年かぶりで妹を直視した。
 最後にいつ洗ったのかわからないぼさぼさの髪。脂でテラテラ光る吹き出物だらけの顔。染みだらけのスウェット。むき出しになった歯は黄色く、運動不足のために不健康に太っている。日ごろの不摂生が祟ってぼろぼろになった肌のせいで、実年齢よりはるかに老けて、四十代に見える。かつて、ほっそりとした少女だった頃の面影は、ない。

「化け物」シンイチは吐き捨てた。
「鏡で自分の姿をよく見てみるといい。お前みたいなみっともない女に誰が惚れるんだ」

 返す言葉を失っている間に、ハルカは両肩を掴まれ強引に部屋から押し出されていた。

「一人にしておいてくれ。アヤと別れたとしても、お前とだけはないから。たとえ血が繋がっていなかったとしても無理だから」

 目の前で閉ざされたドアの前で、ハルカは呆然と立ち尽くす。何が起きたのか理解できるまで少々時間が必要だった。
 こんな理不尽なことってあるのか。妹の人生をめちゃくちゃにしておきながら、何という言い草。

 今に見ていろ

 ハルカは自分の部屋に戻って、テレビの音量をあげた。

 本棚越しに隣の部屋からかなり大きなテレビの音が聞こえてきたので、シンイチはひとまずほっとした。
 とりあえず、化け物は自分の部屋に帰った。
 もはやハルカのことを妹だと思うことができなくなっていた。あれは化け物。血の繋がった兄とまぐわうことしか考えていない、けだもの。

 やはり、こんな家に帰って来るべきではなかった。

 あの日、あのモンスターをベッドのなかから放り出して以来、自宅は安らぎの場ではなくなってしまった。妹が恐ろしくて母親が不在だと風呂にも入れない、転寝一つできないなんて、そんな我が家があるものか。あいつは、きっと一生この家を出て行かないつもりだろう。ならば自分は、もう二度と再びこの家の敷居は跨がないでおこう。アヤがマンションを出て行ったら、もう少し広い部屋を探して、母を呼び寄せてもよい。父が無責任にも愛人宅でのうのうと過ごしているのならば、母の面倒を見るのは息子である自分の役目だ。
 あとは、堕落しきった父娘だけで末永く暮らせばよい。
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