15 / 23
15・兄妹の絆、伝承を超えて
しおりを挟む部屋には、芳しい茶の香りが満ちていた。
少女は『この子をお願いします』とだけ言い残して席を離れ、初めて立つはずの炊事場へと、迷いなく向かい、慣れた手つきで茶を淹れた。男の腕に預けられた赤児は、先ほどまでの張り詰めた空気などどこへやら、無垢で安心しきった笑顔を男に向けている。
(……温かいな)男は、腕の中に伝わる小さな鼓動に、戸惑いながらも目を細めた。
少女が戻り、男の前に静かにカップを置く。赤児が香りに誘われて、興味深そうに身を乗り出して覗き込むが、男がそっと遠ざけた。
「美味いな。淹れ方が違うのか?」男は熱い茶を、一口含む。香りが鼻を抜け、凝り固まった思考を解きほぐしていく。
「茶葉が良いだけです」少女は照れたように、小さく微笑んだ。
その目は、隠しようもなく赤く腫れている。どれほどの涙を流したのか。男も少女も、そのことには触れなかった。それが、この場に漂う安らぎを壊さないための、暗黙の礼儀のようだった。
「……さて」男は表情を引き締め、腕の中の赤児を見つめた。
「大方のことは聞いているが、詳しい話を聞かせてくれ。特に、この子……いや、『妹』については、恥ずかしながら何も知らないんだ」
男の呼び方の変化に、少女の口角がぴくりと跳ねた。それは、男がこの赤児を『排斥されるべき黒髪』ではなく、『愛すべき妹』として受け入れた証左でもあった。
(今更ですか? でも、言葉にされると…‥嬉しいな)少女は込み上げる熱いものを隠すように、困ったような苦笑を浮かべた。
「あぁ、先に言っておくが、妹に危害を加えるつもりは毛頭ない。ただ……何か不思議に思うことはなかったか? 普通の赤ん坊とは、どこか違うような……。いや、先ほども、こう、なんというか、言葉にはできないのだが」
少女は男の正面に、遠慮がちにちょこんと腰を下ろした。そして、何ひとつ飾ることなく己の体験を、胸に秘めてきた苦悩を、堰を切ったように吐露し尽くした。男は一言でも聞き逃すまいと、その言葉を真正面から受け止める。
「済まなかった」
少女が語り終え、口をつぐむと、男は潤んだ瞳を隠すように深々と頭を下げた。過酷な運命を強いてしまった少女へ。そして視線を移し、腕の中の妹へ。
――と、その時。
赤児が急に激しくむずかりだし、男は取り落としそうになるのを大慌てで抱え直した。しかし、小さな手が伸び、男の頬にある無骨な古傷に触れるのは、止められなかった。
「にぃに。にぃに」向けられたのは、満面の笑顔。
男は呆然となって固まり、やがて絞り出すように、言った。
「つまり……こういうことか?」「そういうことです!」
少女は誇らしげに、胸を張って答える。言葉にできない『感覚』を共有できたことに、背筋が震え、肌が泡立つような感動を覚えた。
だが、男にとって、その不合理な『感覚』は、理解の範疇を、遥かに超えていた。
男は軍人だ。戦いとは、微細な事象を拾い上げ、不合理を切り捨て、合理的な判断と最適解を積み上げた者が勝利を掴む。そう信じて疑わなかった男にとって、『黒髪黒瞳の死神』などという伝承は、笑い飛ばすべき世迷い言でしかなかった。
男の矜持が、音を立てて崩れていく。
その苦渋に満ちた表情は、少女の目には、『妹さん』を抱えることさえ辛そうに映った。
「預かります」少女は男を解放するかのように『妹さん』へ手を伸ばす。
「あぁ、すまない。返すよ」男は、自分の手には負えない、『愛すべき理解不能な存在』を返し、ほっとしたような安堵の表情を浮かべた。
その男の言葉が、表情が、少女の怒りに火を着けた。
「いいえ! 私は『返してくれ』なんて言ってません!妹さんを『預かります』と、言ったのです!」少女の毅然とした声が響いた。
「あぁ、そうだ。そうだよな。その通りだ」「きゃつきゃ!」
男は少女の怒声に、身を縮こませるが、少女の腕の中に収まった赤児は、突然の怒声に、驚くこともなく大喜びだ。
「ほら、暴れないの。危ないでしょ」少女が優しく叱った途端、赤児は大人しくなった。――と思いきや。赤児が少女の腕から逃げ出すように、男に向かって勢いよく身を乗り出した。慌てて少女が抱え直そうとするも、間に合わない。
差し出されたのは、先ほどまで『不合理』に怯えていたはずの、男の手だった。
赤児がその手にしがみつく。男が、今度は逃げることなく、しっかりと赤児を抱え込んだ。二人の視線が重なる。
「あぁ、そうだ。そうだよな。その通りだ」「きゃつきゃ!」
同じ言葉が寸分たがわず、しかし今度は確信をもって、繰り返された。
男は冷めきった茶を一息で飲み干すと、空になったカップを叩きつけるように置いた。
「妹を預かってほしい。ついてきてくれ」男が面を上げ胸を張る。真っ向から少女に視線を送ると、片手を差し出した。
少女はその誘いに抗うことは出来ず、差し出された、その大きな手を固く、固く、握りしめた。
0
あなたにおすすめの小説
明日結婚式でした。しかし私は見てしまったのです――非常に残念な光景を。……ではさようなら、婚約は破棄です。
四季
恋愛
明日結婚式でした。しかし私は見てしまったのです――非常に残念な光景を。……ではさようなら、婚約は破棄です。
ガネット・フォルンは愛されたい
アズやっこ
恋愛
私はガネット・フォルンと申します。
子供も産めない役立たずの私は愛しておりました元旦那様の嫁を他の方へお譲りし、友との約束の為、辺境へ侍女としてやって参りました。
元旦那様と離縁し、傷物になった私が一人で生きていく為には侍女になるしかありませんでした。
それでも時々思うのです。私も愛されたかったと。私だけを愛してくれる男性が現れる事を夢に見るのです。
私も誰かに一途に愛されたかった。
❈ 旦那様に愛されなかった滑稽な妻です。の作品のガネットの話です。
❈ ガネットにも幸せを…と、作者の自己満足作品です。
【完結】赤ちゃんが生まれたら殺されるようです
白崎りか
恋愛
もうすぐ赤ちゃんが生まれる。
ドレスの上から、ふくらんだお腹をなでる。
「はやく出ておいで。私の赤ちゃん」
ある日、アリシアは見てしまう。
夫が、ベッドの上で、メイドと口づけをしているのを!
「どうして、メイドのお腹にも、赤ちゃんがいるの?!」
「赤ちゃんが生まれたら、私は殺されるの?」
夫とメイドは、アリシアの殺害を計画していた。
自分たちの子供を跡継ぎにして、辺境伯家を乗っ取ろうとしているのだ。
ドラゴンの力で、前世の記憶を取り戻したアリシアは、自由を手に入れるために裁判で戦う。
※1話と2話は短編版と内容は同じですが、設定を少し変えています。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
王女殿下のモラトリアム
あとさん♪
恋愛
「君は彼の気持ちを弄んで、どういうつもりなんだ?!この悪女が!」
突然、怒鳴られたの。
見知らぬ男子生徒から。
それが余りにも突然で反応できなかったの。
この方、まさかと思うけど、わたくしに言ってるの?
わたくし、アンネローゼ・フォン・ローリンゲン。花も恥じらう16歳。この国の王女よ。
先日、学園内で突然無礼者に絡まれたの。
お義姉様が仰るに、学園には色んな人が来るから、何が起こるか分からないんですって!
婚約者も居ない、この先どうなるのか未定の王女などつまらないと思っていたけれど、それ以来、俄然楽しみが増したわ♪
お義姉様が仰るにはピンクブロンドのライバルが現れるそうなのだけど。
え? 違うの?
ライバルって縦ロールなの?
世間というものは、なかなか複雑で一筋縄ではいかない物なのですね。
わたくしの婚約者も学園で捕まえる事が出来るかしら?
この話は、自分は平凡な人間だと思っている王女が、自分のしたい事や好きな人を見つける迄のお話。
※設定はゆるんゆるん
※ざまぁは無いけど、水戸○門的なモノはある。
※明るいラブコメが書きたくて。
※シャティエル王国シリーズ3作目!
※過去拙作『相互理解は難しい(略)』の12年後、
『王宮勤めにも色々ありまして』の10年後の話になります。
上記未読でも話は分かるとは思いますが、お読みいただくともっと面白いかも。
※ちょいちょい修正が入ると思います。誤字撲滅!
※小説家になろうにも投稿しました。
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる