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19話 懐かしい香り
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セレスティアはいつもの上品な微笑みを浮かべ、部屋に招き入れられると小さなスツールに腰をかけた。ミアはベッドの端に座り、緊張した面持ちで彼女を見つめる。
「昼間のことは、見ていらっしゃいましたわね」
彼女はそう切り出すと、ミアの不安を察したように続けた。
「なかなかの演技力でしたでしょう?でも、ご安心を。あれは、私のための作戦だったのですから」
ミアは思わず顔を上げた。演技?
セレスティアは、この一ヶ月、家から政治的な理由で見合いを強く勧められていたことを説明し始めた。国内で三本の指に入るほどの有力貴族の娘である彼女が結婚する場合は、相手に婿入りしてもらうことになる。幼いころから常に婿候補が探されていたのだという。
「ですが、私には心に決めた人がいるのです。彼は今は身分が低うございますが、半年もすれば昇進し、私たちの結婚も正式に許されるはず。それまでの時間稼ぎが必要だったのです」
そして、アレクシスに協力を頼んだ経緯を語った。
「元々家柄的に、アレクシス様は私の婚約者候補として有力な方でした。ですが、お兄様が芸術家として身を立てられることになり、アレクシス様が家督を継がれることになったため、私の見合い候補からは外されていたの。けれど、その後の事情の変化で……再び候補者入りしてしまいました」
ミアは息を呑んだ。アレクシスの兄が画家として活躍し始めたことで、複雑な状況が生まれていたのか。
「お見合いを回避するには、彼と親密な関係を演じるのが一番効果的だと考えたのよ。そして、もう一つ重要な理由が……」
セレスティアの表情が少し真剣になった。
「アレクシスたちの研究はあまりに革新的なため、保守的な組織に狙われているのです。以前ローズフェスタの寄付を妨害しようとした勢力のお話をしましたでしょう?」
「聖薬師協会ですね……上級貴族相手に薬の商売をしているという」
「そうです。学園ももちろん彼らと戦い、研究者たちの身を守ることに尽力されています。ただそれだけでは、心もとないの。禁忌とされていた技術に手を出したなんて噂もあるの。まさかとは思うけど、それほど、急に力をつけてしまったのよ」
その組織の黒いうわさは、田舎に住んでいたころから、ミアも耳にしていた。
「私の家の力をね、少し使ったの。私のための警護を彼らや学園に広げるだけのことですけどね」
ミアははっとした。図書館の魔導警報器や、あちらこちらに張り巡らされた結界のことだ。
動揺をよそに、セレスティアは再び微笑んだ。
「でも、作戦はそれだけではございませんの」
彼女は恋愛小説愛好家らしく瞳を輝かせ、ミアに言った。
「私がアレクシス様と仲良くしているのを見て、ミアさん、とても動揺していらっしゃいましたわね? ねえ、あなたの本当の気持ちはもうお気づきになられて?」
その言葉に、ミアは何も言い返すことができない。セレスティアはそんなミアに優しく微笑む。
「恋愛小説では定番の展開ですのよ。主人公が自分の気持ちに気づくためには、少しの嫉妬心が必要なの。料理だってスパイスを一振りするでしょ?」
そして帰り際、扉の前で振り返った彼女は、ウィンクしながら告げた。
「そうそう、クッキーの件ですが……彼、家に帰って大事に召し上がるそうよ」
ミアの頬がぽっと赤くなる。クッキーの包みをガゼボの前で落としていたとは!教室であんなに探してもなかったわけだ。
「それにしても不思議ですわね。あのクッキー、彼、子供の頃からの好物なのよ。包みを開いた彼の笑顔ったら、無邪気な少年のようでした」
セレスティアの意味深な笑みを残して、扉が静かに閉まった。
ミアの目から再び涙が一粒こぼれた。
「あのクッキー……どうして私だってわかったの?」
子猫時代、レモンの香りは苦手だった。あのクッキーに後ろ足で砂をかける真似をしたこともある。酸っぱい匂いに顔をしかめて、アレクシスを困らせていた自分。
でも今は違う。ミアは今、レモンの香りが大好きだ。
さわやかですっとするあの香り、なんだかいいことが起こりそうなあの香り。
(アレクシスがレモンを好きな理由が、わかった気がする)
*
その頃、アレクシスは自室で、ミアが差し入れてくれたクッキーを大切に手に取っていた。一つ口に運ぶ。
サクッとした軽やかな食感。そして、爽やかなレモンの香りが口の中に広がった。レモンの皮のすりおろしが入っているのがわかる。
懐かしい、とても懐かしい味だった。そして同時に、なにかいい事が起こりそうな、希望に満ちた香りでもあった。
ふと、彼は昔の記憶を辿る。
子猫だったニアが、レモンの香りを嫌がって、小さな鼻にしわを寄せていたこと。その度に見せる、たまらなく愛らしい困った顔。
そして確か、あの頃の自分はニアにこう言ったことがあったっけ。
「レモンって、なんだかいい事が起こりそうな香りなんだ。ニアも大人になるとわかるかもね」
(いつもそうだ……あの子に関することは、なんだって、心が癒される)
アレクシスは、窓の外の月を見上げた。銀色の光が、彼の頬を優しく照らしている。頭に浮かぶのはミアのこと。
(ミアさん……君は、本当に不思議な人だ)
君といると、僕の心が軽くなる。君の笑顔を見ていると、それだけで幸せな気持ちになる。
彼の心の中で、ミアへの想いが、ゆっくりと、しかし確実に育っていることを自覚した。
そして、その気持ちが、かつて子猫だったニアへの愛情とはまったく違うものだということも。
(これは……きっと、恋なんだ)
彼は、そう心の中で呟くと、もう一枚クッキーを手に取った。
レモンの香りが、静かな夜の部屋に漂う。その香りに包まれながら、アレクシスは小さく微笑んだ。
今度彼女に会ったら、何と言おう。どんな笑顔を見せてくれるだろう。
月明かりの下、クッキーの甘い香りと共に、彼の想いは静かに深まっていった。
(覚悟は決めた、必ず守る、だからそばにいよう)
「昼間のことは、見ていらっしゃいましたわね」
彼女はそう切り出すと、ミアの不安を察したように続けた。
「なかなかの演技力でしたでしょう?でも、ご安心を。あれは、私のための作戦だったのですから」
ミアは思わず顔を上げた。演技?
セレスティアは、この一ヶ月、家から政治的な理由で見合いを強く勧められていたことを説明し始めた。国内で三本の指に入るほどの有力貴族の娘である彼女が結婚する場合は、相手に婿入りしてもらうことになる。幼いころから常に婿候補が探されていたのだという。
「ですが、私には心に決めた人がいるのです。彼は今は身分が低うございますが、半年もすれば昇進し、私たちの結婚も正式に許されるはず。それまでの時間稼ぎが必要だったのです」
そして、アレクシスに協力を頼んだ経緯を語った。
「元々家柄的に、アレクシス様は私の婚約者候補として有力な方でした。ですが、お兄様が芸術家として身を立てられることになり、アレクシス様が家督を継がれることになったため、私の見合い候補からは外されていたの。けれど、その後の事情の変化で……再び候補者入りしてしまいました」
ミアは息を呑んだ。アレクシスの兄が画家として活躍し始めたことで、複雑な状況が生まれていたのか。
「お見合いを回避するには、彼と親密な関係を演じるのが一番効果的だと考えたのよ。そして、もう一つ重要な理由が……」
セレスティアの表情が少し真剣になった。
「アレクシスたちの研究はあまりに革新的なため、保守的な組織に狙われているのです。以前ローズフェスタの寄付を妨害しようとした勢力のお話をしましたでしょう?」
「聖薬師協会ですね……上級貴族相手に薬の商売をしているという」
「そうです。学園ももちろん彼らと戦い、研究者たちの身を守ることに尽力されています。ただそれだけでは、心もとないの。禁忌とされていた技術に手を出したなんて噂もあるの。まさかとは思うけど、それほど、急に力をつけてしまったのよ」
その組織の黒いうわさは、田舎に住んでいたころから、ミアも耳にしていた。
「私の家の力をね、少し使ったの。私のための警護を彼らや学園に広げるだけのことですけどね」
ミアははっとした。図書館の魔導警報器や、あちらこちらに張り巡らされた結界のことだ。
動揺をよそに、セレスティアは再び微笑んだ。
「でも、作戦はそれだけではございませんの」
彼女は恋愛小説愛好家らしく瞳を輝かせ、ミアに言った。
「私がアレクシス様と仲良くしているのを見て、ミアさん、とても動揺していらっしゃいましたわね? ねえ、あなたの本当の気持ちはもうお気づきになられて?」
その言葉に、ミアは何も言い返すことができない。セレスティアはそんなミアに優しく微笑む。
「恋愛小説では定番の展開ですのよ。主人公が自分の気持ちに気づくためには、少しの嫉妬心が必要なの。料理だってスパイスを一振りするでしょ?」
そして帰り際、扉の前で振り返った彼女は、ウィンクしながら告げた。
「そうそう、クッキーの件ですが……彼、家に帰って大事に召し上がるそうよ」
ミアの頬がぽっと赤くなる。クッキーの包みをガゼボの前で落としていたとは!教室であんなに探してもなかったわけだ。
「それにしても不思議ですわね。あのクッキー、彼、子供の頃からの好物なのよ。包みを開いた彼の笑顔ったら、無邪気な少年のようでした」
セレスティアの意味深な笑みを残して、扉が静かに閉まった。
ミアの目から再び涙が一粒こぼれた。
「あのクッキー……どうして私だってわかったの?」
子猫時代、レモンの香りは苦手だった。あのクッキーに後ろ足で砂をかける真似をしたこともある。酸っぱい匂いに顔をしかめて、アレクシスを困らせていた自分。
でも今は違う。ミアは今、レモンの香りが大好きだ。
さわやかですっとするあの香り、なんだかいいことが起こりそうなあの香り。
(アレクシスがレモンを好きな理由が、わかった気がする)
*
その頃、アレクシスは自室で、ミアが差し入れてくれたクッキーを大切に手に取っていた。一つ口に運ぶ。
サクッとした軽やかな食感。そして、爽やかなレモンの香りが口の中に広がった。レモンの皮のすりおろしが入っているのがわかる。
懐かしい、とても懐かしい味だった。そして同時に、なにかいい事が起こりそうな、希望に満ちた香りでもあった。
ふと、彼は昔の記憶を辿る。
子猫だったニアが、レモンの香りを嫌がって、小さな鼻にしわを寄せていたこと。その度に見せる、たまらなく愛らしい困った顔。
そして確か、あの頃の自分はニアにこう言ったことがあったっけ。
「レモンって、なんだかいい事が起こりそうな香りなんだ。ニアも大人になるとわかるかもね」
(いつもそうだ……あの子に関することは、なんだって、心が癒される)
アレクシスは、窓の外の月を見上げた。銀色の光が、彼の頬を優しく照らしている。頭に浮かぶのはミアのこと。
(ミアさん……君は、本当に不思議な人だ)
君といると、僕の心が軽くなる。君の笑顔を見ていると、それだけで幸せな気持ちになる。
彼の心の中で、ミアへの想いが、ゆっくりと、しかし確実に育っていることを自覚した。
そして、その気持ちが、かつて子猫だったニアへの愛情とはまったく違うものだということも。
(これは……きっと、恋なんだ)
彼は、そう心の中で呟くと、もう一枚クッキーを手に取った。
レモンの香りが、静かな夜の部屋に漂う。その香りに包まれながら、アレクシスは小さく微笑んだ。
今度彼女に会ったら、何と言おう。どんな笑顔を見せてくれるだろう。
月明かりの下、クッキーの甘い香りと共に、彼の想いは静かに深まっていった。
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