暗闇の中の光

ねむたん

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 堀田裕は、40代半ばの平凡な会社員だった。結婚して十数年、妻と小学生の息子がいる。何の特技もなければ、特別な野心もない。ただ、日々家族を支えるために働き、平穏な生活を送ることだけを願っていた。

 だが、その「平穏」はあっけなく崩れ去った。

 最初に妻の恵美が体調を崩したのは、数日前のことだった。軽いめまいや吐き気を訴えたが、堀田は特に気にも留めなかった。「暑さでバテたんだろう」と軽く考えていた。

 だが、翌日には息子の健太が学校で倒れ、救急車で運ばれた。高熱を出し、痙攣を起こしながら苦しむ姿を見た堀田は、初めて自分の家族にも迫る危機を実感した。

 病院での診断は曖昧だった。「何らかの原因で神経がダメージを受けている」と言われたが、それ以上の詳しい説明はなかった。そして、医師が何度も口にしたのは、最近の「ニュートラフェア」に関する話題だった。

「食べ続けるのは、やめたほうがいいかもしれません」

 医師のその一言が、堀田の心に冷たい刃を突き立てた。

 だが、食べなければどうなる?

 冷蔵庫にはニュートラフェアのパッケージがいくつも並んでいる。妻がスーパーでまとめ買いしたもので、保存が効くからと常備していたものだ。それを捨てれば、残るのはわずかな乾燥食品と水だけ。家族の命をつなぐための選択肢は、ほとんどなかった。

 その夜、堀田は台所に立ち尽くしていた。手にはニュートラフェアのパッケージがある。栄養バランスが整った鮮やかなデザインの包装が、今では死神の笑顔のように見える。

「これを食べれば、また健太が苦しむかもしれない…でも、食べなければ飢え死にするだけだ」

 手が震える。頭では冷静に判断しようとしても、家族の苦しむ姿が脳裏を離れない。妻と健太が眠る部屋からは、かすかな寝息が聞こえてくる。まだ息子は完全に回復していない。頬はこけ、目の下には黒い影が浮かんでいる。

「どうすれば…」

 呟いた声が虚空に消えた。

 翌朝、堀田は自分がどんな判断をしたのか、覚えていない。ただ、テーブルの上には昨夜開けたニュートラフェアの容器が残されていた。それを見つめるだけで胃の奥が重くなる。食べたのか、食べさせたのか――それすら思い出したくなかった。

 会社に向かう途中、街の景色も変わりつつあった。空腹に耐えかねた人々がスーパーに殺到し、閉店した店のシャッターには「在庫切れ」の張り紙が貼られている。路地裏にはホームレスのように佇む人々が増え、見慣れた通勤路が異様な光景に変わり果てていた。

 職場の同僚たちも顔色が悪い。

「お前、最近どうしてる?」

「ああ…なんとか。冷凍食品でしのいでるよ」

「うちなんて、もうあれしかない。ニュートラフェアさ」

 沈んだ声と目を伏せる仕草が、皆同じ苦悩を抱えていることを示していた。

 その日の帰宅途中、堀田はふと足を止めた。駅前の広場で、倒れている人々の周りに群がる人影が見えたのだ。パトカーの赤いライトがゆらゆらと周囲を照らしている。

「またか…」

 呟きながらも、心の中で他人事ではないと感じていた。あの倒れた人々と自分たちの違いは何だろう?ただ、時間の問題なのではないか。そんな思いが胸を締め付けた。

 家に帰ると、妻がテーブルに座って待っていた。健太の様子を見ながら、静かに口を開いた。

「ねえ…私たち、これからどうすればいいの?」

 答えを持たない堀田は、ただ無言で妻の手を握りしめることしかできなかった。

 家族を守るために何をすべきか。その答えはどこにも見つからない。食べれば死が近づき、食べなければ飢えが迫る。その狭間で、堀田の心は徐々に追い詰められていった。
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