7 / 25
7
しおりを挟む
朝の光が白いカーテンを透かして差し込む。王宮の客室は静かで、外の鳥のさえずりさえ遠く感じられた。
エレノアは鏡の前に座っていた。背後に立つセラが、柔らかな指先で髪を整えている。銀の櫛が静かにすべり、まるで絹を撫でるような手つきだった。
「きつくないよう、少し緩めに留めております」
「……ありがとう、セラ」
目を伏せながら返した声に、自分でも驚くほどの安堵がにじんでいた。肩がこわばっていない。呼吸が楽だ。以前なら、ドレスの背を締めるたびに胸がつかえるような思いがしたものだ。義母の侍女は、礼儀正しさの名のもとに容赦なく締め上げ、メイクも”華やかさのため”に肌の痛みを無視していた。
それが、今はどうだろう。セラの指は丁寧で、でも決して遠慮しすぎない。髪を編み上げる手も、頬にブラシをすべらせる手も、まるで彼女自身の感覚を通じて、エレノアの快・不快を探るように動いている。
「……こんなに快適に身支度をしたのは、いつぶりかしら」
ぽつりと漏らした言葉に、セラの動きがわずかに止まり、すぐに小さく微笑む気配が背後から伝わった。
「エレノア様が、心地よく過ごせますようにと思っております。王宮では、それが何より大切だと聞いておりますので」
「……それは、誰に教わったの?」
「誰にというよりも、前にお仕えしていた方が、そういう方でした」
詳しく語ることはなかったが、その一言に込められた思いがエレノアにはよくわかった。
アナもそうだった。まだ幼く不慣れでも、リリーの気持ちを第一に考えて動こうとしてくれた。あの小さな手に包まれていた日々の、素朴であたたかな感覚が、今また別の形で蘇ってくる。
──見返りを求めない気遣いというものが、こんなにも人を癒すなんて。
エレノアは鏡越しに、自分の整えられた顔を見つめた。薄く施された色合いが、自然に頬を明るく見せている。唇にうっすらとのせられた紅は、ほんのりとした艶で、装いの中に確かに“私らしさ”を残していた。
「……ありがとう、セラ。本当に、助かっているわ」
「光栄です。いつでも、仰ってくださいませ」
セラは静かに頭を下げた。
支度を終えたエレノアは、立ち上がりながら小さく息を吸った。今日もまた、控えめに、静かに。それでも胸の奥には、昨日より少し強く、歩く力が芽生えていた。
王宮の回廊に、朝の陽が差し込んでいた。
選定初日を目前に控えた朝、庭園の脇にある小さな離れのサロンでは、エレノアたち三人がこっそり顔を寄せ合っていた。
「ねえ……“特技を披露していただきます”って、どういうことなのかしら?」
イザベルが眉をひそめて言った。手元の告知文は、まるで舞踏会の案内状のように飾られているが、書かれている内容はどこか的を射ない。
「“各令嬢はご自身の個性を示す簡潔な自己紹介と、得意な芸事・特技の披露を通じて、内面を表現していただきます”……って、つまり芸をしろってことよね?」
「芸……って」
エレノアは思わず苦笑をこぼした。イザベルの目はどこか真剣で、そして微妙に楽しんでいる。
「わたし、お姉さまの前で踊ったことはあるけど、王宮の広間でやるとなるとちょっと……」
リリーが首を傾げ、両手を指先でつつくようにして小さく悩んでいる。その表情があまりにも素直で、ついイザベルが口元を押さえて笑った。
「いっそ三人で一発芸でもしてみる?手品とか、パントマイムとか。ほら、いっそ突き抜けた方が印象に残るんじゃなくて?」
「イザベル、それは……さすがに……」
「え?真面目に言ったんだけど?」
目を丸くしたエレノアに、イザベルはおどけて肩をすくめる。
「まあ、冗談よ。でも実際、わたしたち王妃になる気、ないじゃない?」
「うん。まったく」
「ぜんっぜん、ないです!」
ふたりの言葉にリリーがすかさず乗って、三人は思わずくすりと笑い合った。競争の空気が濃くなる中、この小さな輪の中だけは、肩の力を抜いていられる。
「……でも、ちゃんと“やる気はある”ように見せておかないと、浮いてしまうかもしれないわ」
エレノアが静かに言うと、イザベルが小さく唇を尖らせる。
「それが一番難しいのよね。やる気がなさすぎても問題だし、目立ちすぎても良くない。あなたの場合、そっと立ってるだけでも“清楚で王妃にふさわしい”とか言われそうだし」
「そんなこと、ないわ」
「あるのよ。それがエレノアの厄介なところなの」
冗談めいた口調のなかに、少しだけ本音の響きが混じっていた。
「……でもまあ、とりあえず目立たない程度に真面目にやって、空気を読む。今のところ、それが一番賢い生き方ね」
イザベルが紅茶を一口飲み干して立ち上がる。
「さて。芸はさておき、あなたたちの前で恥をかかない程度には、考えておくわ。ふたりも、せいぜい無難な“特技”を準備しておいてね」
「はい、イザベルお姉さま」
ぺこりと頭を下げるリリーの横で、エレノアもふっと笑った。
選ばれるつもりなどなかった。けれど――
舞台はすでに、幕を開けようとしていた。
エレノアは鏡の前に座っていた。背後に立つセラが、柔らかな指先で髪を整えている。銀の櫛が静かにすべり、まるで絹を撫でるような手つきだった。
「きつくないよう、少し緩めに留めております」
「……ありがとう、セラ」
目を伏せながら返した声に、自分でも驚くほどの安堵がにじんでいた。肩がこわばっていない。呼吸が楽だ。以前なら、ドレスの背を締めるたびに胸がつかえるような思いがしたものだ。義母の侍女は、礼儀正しさの名のもとに容赦なく締め上げ、メイクも”華やかさのため”に肌の痛みを無視していた。
それが、今はどうだろう。セラの指は丁寧で、でも決して遠慮しすぎない。髪を編み上げる手も、頬にブラシをすべらせる手も、まるで彼女自身の感覚を通じて、エレノアの快・不快を探るように動いている。
「……こんなに快適に身支度をしたのは、いつぶりかしら」
ぽつりと漏らした言葉に、セラの動きがわずかに止まり、すぐに小さく微笑む気配が背後から伝わった。
「エレノア様が、心地よく過ごせますようにと思っております。王宮では、それが何より大切だと聞いておりますので」
「……それは、誰に教わったの?」
「誰にというよりも、前にお仕えしていた方が、そういう方でした」
詳しく語ることはなかったが、その一言に込められた思いがエレノアにはよくわかった。
アナもそうだった。まだ幼く不慣れでも、リリーの気持ちを第一に考えて動こうとしてくれた。あの小さな手に包まれていた日々の、素朴であたたかな感覚が、今また別の形で蘇ってくる。
──見返りを求めない気遣いというものが、こんなにも人を癒すなんて。
エレノアは鏡越しに、自分の整えられた顔を見つめた。薄く施された色合いが、自然に頬を明るく見せている。唇にうっすらとのせられた紅は、ほんのりとした艶で、装いの中に確かに“私らしさ”を残していた。
「……ありがとう、セラ。本当に、助かっているわ」
「光栄です。いつでも、仰ってくださいませ」
セラは静かに頭を下げた。
支度を終えたエレノアは、立ち上がりながら小さく息を吸った。今日もまた、控えめに、静かに。それでも胸の奥には、昨日より少し強く、歩く力が芽生えていた。
王宮の回廊に、朝の陽が差し込んでいた。
選定初日を目前に控えた朝、庭園の脇にある小さな離れのサロンでは、エレノアたち三人がこっそり顔を寄せ合っていた。
「ねえ……“特技を披露していただきます”って、どういうことなのかしら?」
イザベルが眉をひそめて言った。手元の告知文は、まるで舞踏会の案内状のように飾られているが、書かれている内容はどこか的を射ない。
「“各令嬢はご自身の個性を示す簡潔な自己紹介と、得意な芸事・特技の披露を通じて、内面を表現していただきます”……って、つまり芸をしろってことよね?」
「芸……って」
エレノアは思わず苦笑をこぼした。イザベルの目はどこか真剣で、そして微妙に楽しんでいる。
「わたし、お姉さまの前で踊ったことはあるけど、王宮の広間でやるとなるとちょっと……」
リリーが首を傾げ、両手を指先でつつくようにして小さく悩んでいる。その表情があまりにも素直で、ついイザベルが口元を押さえて笑った。
「いっそ三人で一発芸でもしてみる?手品とか、パントマイムとか。ほら、いっそ突き抜けた方が印象に残るんじゃなくて?」
「イザベル、それは……さすがに……」
「え?真面目に言ったんだけど?」
目を丸くしたエレノアに、イザベルはおどけて肩をすくめる。
「まあ、冗談よ。でも実際、わたしたち王妃になる気、ないじゃない?」
「うん。まったく」
「ぜんっぜん、ないです!」
ふたりの言葉にリリーがすかさず乗って、三人は思わずくすりと笑い合った。競争の空気が濃くなる中、この小さな輪の中だけは、肩の力を抜いていられる。
「……でも、ちゃんと“やる気はある”ように見せておかないと、浮いてしまうかもしれないわ」
エレノアが静かに言うと、イザベルが小さく唇を尖らせる。
「それが一番難しいのよね。やる気がなさすぎても問題だし、目立ちすぎても良くない。あなたの場合、そっと立ってるだけでも“清楚で王妃にふさわしい”とか言われそうだし」
「そんなこと、ないわ」
「あるのよ。それがエレノアの厄介なところなの」
冗談めいた口調のなかに、少しだけ本音の響きが混じっていた。
「……でもまあ、とりあえず目立たない程度に真面目にやって、空気を読む。今のところ、それが一番賢い生き方ね」
イザベルが紅茶を一口飲み干して立ち上がる。
「さて。芸はさておき、あなたたちの前で恥をかかない程度には、考えておくわ。ふたりも、せいぜい無難な“特技”を準備しておいてね」
「はい、イザベルお姉さま」
ぺこりと頭を下げるリリーの横で、エレノアもふっと笑った。
選ばれるつもりなどなかった。けれど――
舞台はすでに、幕を開けようとしていた。
98
あなたにおすすめの小説
記憶を無くした、悪役令嬢マリーの奇跡の愛
三色団子
恋愛
豪奢な天蓋付きベッドの中だった。薬品の匂いと、微かに薔薇の香りが混ざり合う、慣れない空間。
「……ここは?」
か細く漏れた声は、まるで他人のもののようだった。喉が渇いてたまらない。
顔を上げようとすると、ずきりとした痛みが後頭部を襲い、思わず呻く。その拍子に、自分の指先に視線が落ちた。驚くほどきめ細やかで、手入れの行き届いた指。まるで象牙細工のように完璧だが、酷く見覚えがない。
私は一体、誰なのだろう?
姉にざまぁされた愚妹ですが何か?
リオール
恋愛
公爵令嬢エルシーには姉のイリアが居る。
地味な姉に対して美しい美貌をもつエルシーは考えた。
(お姉様は王太子と婚約してるけど……王太子に相応しいのは私じゃないかしら?)
そう考えたエルシーは、自らの勝利を確信しながら動き出す。それが破滅への道とも知らずに……
=====
性懲りもなくありがちな話。だって好きだから(•‿•)
10話完結。※書き終わってます
最初の方は結構ギャグテイストですがラストはシリアスに終わってます。
設定は緩いので何でも許せる方向けです。
私が、良いと言ってくれるので結婚します
あべ鈴峰
恋愛
幼馴染のクリスと比較されて悲しい思いをしていたロアンヌだったが、突然現れたレグール様のプロポーズに 初対面なのに結婚を決意する。
しかし、その事を良く思わないクリスが・・。
私と婚約破棄して妹と婚約!? ……そうですか。やって御覧なさい。後悔しても遅いわよ?
百谷シカ
恋愛
地味顔の私じゃなくて、可愛い顔の妹を選んだ伯爵。
だけど私は知っている。妹と結婚したって、不幸になるしかないって事を……
駄犬の話
毒島醜女
恋愛
駄犬がいた。
不幸な場所から拾って愛情を与えたのに裏切った畜生が。
もう思い出すことはない二匹の事を、令嬢は語る。
※かわいそうな過去を持った不幸な人間がみんな善人というわけじゃないし、何でも許されるわけじゃねえぞという話。
愛を知らないアレと呼ばれる私ですが……
ミィタソ
恋愛
伯爵家の次女——エミリア・ミーティアは、優秀な姉のマリーザと比較され、アレと呼ばれて馬鹿にされていた。
ある日のパーティで、両親に連れられて行った先で出会ったのは、アグナバル侯爵家の一人息子レオン。
そこで両親に告げられたのは、婚約という衝撃の二文字だった。
(完)婚約破棄しますーお姉様が大好きだから
青空一夏
恋愛
義理の姉と婚約者が恋仲だったことを知った妹の短い物語。
視点が変る10話完結予定。視点がかわることによって結末が予想される形になっています。
ゆるふわ設定。
【完結】双子の入れ替わりなんて本当に出来るのかしら、と思ったら予想外の出来事となりました。
まりぃべる
恋愛
シェスティン=オールストレームは、双子の妹。
フレドリカは双子の姉で気が強く、何かあれば妹に自分の嫌な事を上手いこと言って押し付けていた。
家は伯爵家でそれなりに資産はあるのだが、フレドリカの急な発言によりシェスティンは学校に通えなかった。シェスティンは優秀だから、という理由だ。
卒業間近の頃、フレドリカは苦手な授業を自分の代わりに出席して欲しいとシェスティンへと言い出した。
代わりに授業に出るなんてバレたりしないのか不安ではあったが、貴族の友人がいなかったシェスティンにとって楽しい時間となっていく。
そんなシェスティンのお話。
☆全29話です。書き上げてありますので、随時更新していきます。時間はばらばらかもしれません。
☆現実世界にも似たような名前、地域、名称などがありますが全く関係がありません。
☆まりぃべるの独特な世界観です。それでも、楽しんでいただけると嬉しいです。
☆現実世界では馴染みの無い言葉を、何となくのニュアンスで作ってある場合もありますが、まりぃべるの世界観として読んでいただけると幸いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる