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その日の朝は、よく晴れていた。
庭の石畳が、朝の光を受けて白く輝いていた。噴水の水が、きらきらと光を弾いた。生垣の緑が、いつもより鮮やかに見えた。
二人で石畳を歩いた。
リリアーナは歩きながら、草むらを観察していた。クライドは石畳の先を見ながら、リリアーナが足を止めるたびに自分も止まった。もはや自然に、そういう散歩になっていた。
リリアーナが草むらでバッタを一匹見つけて、ひょいぱくした。
クライドが視線を噴水の方へ向けた。
「今日のバッタは少し小ぶりですね」
「そうか」
「小ぶりな方が、皮が薄くてサクサクする気がします」
「……そうか」
「クライド様も——」
「いらん」
「まだ——」
「いらん」
リリアーナは「はい」と言って、また歩き出した。
庭の奥へ進んだのは、リリアーナが「あちらの花壇はまだ見ていない」と言ったからだった。
公爵邸の庭は広かった。
いつも歩く石畳の小道から外れた奥に、古い木が何本か立っている一角があった。普段は庭師以外あまり近づかない場所だった。
木々の間を抜けながら、リリアーナが足を止めた。
視線が、上に向いた。
「……クライド様」
「なんだ」
「あれ」
クライドはリリアーナの視線を追った。
古い木の太い枝に、こぶりな蜂の巣があった。
丸みを帯びた灰色の巣が、枝にしっかりとついていた。表面が細かい模様を描いていて、出入り口のあたりに蜂が数匹、ゆっくりと動いていた。
「蜂の巣だな」
クライドは言った。
「庭師に報告しないといけないな、あとで——」
「ハチの子が見えます」
クライドはリリアーナを見た。
リリアーナの目が、巣に釘付けになっていた。
さっきバッタを見つけた時と同じ目だった。いや、それより輝いていた。
「……見えるのか」
「はい。巣の隙間から、白くて丸い子たちが」
リリアーナは目を細めた。
「ハチの子は濃くて甘くて……蜂蜜よりずっと深みがあって、今まで食べた中でも特別なんです」
「そうか」
「あの巣、届きそうですか」
クライドは巣を見上げた。
手を伸ばせば届かないこともない高さだった。
「届くが」
「では——」
「待て」
クライドはリリアーナの腕を掴んだ。
リリアーナが振り返った。
「蜂が、まだいる」
「はい。だから先に蜂を食べてから巣をいただこうかと」
クライドは一瞬、言葉を失った。
「……蜂を、先に」
「はい。蜂はローストしたアーモンドみたいな風味で、それからハチの子を——」
「取るな」
「でも——」
「取るな!」
クライドはリリアーナを巣から引き離した。そのまま数歩、後退した。
リリアーナが「クライド様、少し離れすぎでは」と言った。
「黙っていてくれ」
クライドは巣を見た。
こぶりとはいえ、蜂が数匹では済まないはずだった。巣の中には、もっといる。刺されれば、それなりのことになる。
「庭師を呼ぶ。それまで近づくな」
「でもハチの子が——」
「いいか」
クライドはリリアーナを見た。
「蜂に刺されれば腫れる。痛い。場合によっては危険だ。わかるか」
リリアーナは少し考えた。
「……蜂に刺されたことが、あります」
「だろう。だから——」
「腫れませんでした」
クライドが止まった。
「……腫れなかった」
「はい。痛かったですが、腫れなかったです。不思議だなと思って」
クライドはしばらく、リリアーナを見ていた。
蜂に刺されたのに、腫れなかった。
虫が集まってくる。食べても腹を壊さない。日に日に美しくなっていく。首輪。そして今度は、蜂に刺されても腫れない。
点が、また増えた。
「……いつ刺された」
「ベルテ家の庭で、何度か。気づいたら刺されていて、でも腫れないから特に気にしていなくて」
「何度か」
「はい」
クライドは額に手を当てた。
何度も刺されていた。腫れなかった。気にしていなかった。
この娘は、自分の体に起きていることを「不思議だな」で済ませる。
「……庭師を呼ぶ。それまでここを離れろ」
「ハチの子は——」
「明日、養蜂家に頼む」
リリアーナが目を丸くした。
「養蜂家に?」
「ああ。採取させる。それで満足しろ」
リリアーナはしばらく、クライドを見ていた。
それから、ゆっくりと笑った。
「……気が利きますね」
「うるさい」
「ありがとうございます」
「だから、うるさい」
クライドはリリアーナを促して、巣から離れた。
石畳の小道に戻りながら、頭の中で点と点を繋げようとしていた。
まだ線にはなっていなかった。
でも今度こそ、本腰を入れて調べる必要があると思った。
その夜、クライドは書斎に戻った。
以前開いた文献を、また引っ張り出した。
精霊。加護。愛し子。
今度は、もっと丁寧にページをめくった。
蜂に刺されても腫れない体。虫が自発的に集まってくる現象。食べるたびに美容と活力が増していく変化。
そして、首輪。
母親が怯えた顔で「外してはいけない」と言い続けた、古びた革紐と石。
クライドは文献の一ページで、手を止めた。
精霊の加護を持つ者の特徴として、いくつかの記述があった。
自然の恵みを媒介する存在。精霊に愛される者。その力は封じることができるが、完全には消せない。
クライドは文献から目を上げた。
窓の外、夜の庭が暗かった。
完全には消せない。
封じることができる。
クライドは立ち上がって、書棚の奥から別の文献を引き出した。
術具。封印。
ページをめくる手が、少し速くなった。
庭の石畳が、朝の光を受けて白く輝いていた。噴水の水が、きらきらと光を弾いた。生垣の緑が、いつもより鮮やかに見えた。
二人で石畳を歩いた。
リリアーナは歩きながら、草むらを観察していた。クライドは石畳の先を見ながら、リリアーナが足を止めるたびに自分も止まった。もはや自然に、そういう散歩になっていた。
リリアーナが草むらでバッタを一匹見つけて、ひょいぱくした。
クライドが視線を噴水の方へ向けた。
「今日のバッタは少し小ぶりですね」
「そうか」
「小ぶりな方が、皮が薄くてサクサクする気がします」
「……そうか」
「クライド様も——」
「いらん」
「まだ——」
「いらん」
リリアーナは「はい」と言って、また歩き出した。
庭の奥へ進んだのは、リリアーナが「あちらの花壇はまだ見ていない」と言ったからだった。
公爵邸の庭は広かった。
いつも歩く石畳の小道から外れた奥に、古い木が何本か立っている一角があった。普段は庭師以外あまり近づかない場所だった。
木々の間を抜けながら、リリアーナが足を止めた。
視線が、上に向いた。
「……クライド様」
「なんだ」
「あれ」
クライドはリリアーナの視線を追った。
古い木の太い枝に、こぶりな蜂の巣があった。
丸みを帯びた灰色の巣が、枝にしっかりとついていた。表面が細かい模様を描いていて、出入り口のあたりに蜂が数匹、ゆっくりと動いていた。
「蜂の巣だな」
クライドは言った。
「庭師に報告しないといけないな、あとで——」
「ハチの子が見えます」
クライドはリリアーナを見た。
リリアーナの目が、巣に釘付けになっていた。
さっきバッタを見つけた時と同じ目だった。いや、それより輝いていた。
「……見えるのか」
「はい。巣の隙間から、白くて丸い子たちが」
リリアーナは目を細めた。
「ハチの子は濃くて甘くて……蜂蜜よりずっと深みがあって、今まで食べた中でも特別なんです」
「そうか」
「あの巣、届きそうですか」
クライドは巣を見上げた。
手を伸ばせば届かないこともない高さだった。
「届くが」
「では——」
「待て」
クライドはリリアーナの腕を掴んだ。
リリアーナが振り返った。
「蜂が、まだいる」
「はい。だから先に蜂を食べてから巣をいただこうかと」
クライドは一瞬、言葉を失った。
「……蜂を、先に」
「はい。蜂はローストしたアーモンドみたいな風味で、それからハチの子を——」
「取るな」
「でも——」
「取るな!」
クライドはリリアーナを巣から引き離した。そのまま数歩、後退した。
リリアーナが「クライド様、少し離れすぎでは」と言った。
「黙っていてくれ」
クライドは巣を見た。
こぶりとはいえ、蜂が数匹では済まないはずだった。巣の中には、もっといる。刺されれば、それなりのことになる。
「庭師を呼ぶ。それまで近づくな」
「でもハチの子が——」
「いいか」
クライドはリリアーナを見た。
「蜂に刺されれば腫れる。痛い。場合によっては危険だ。わかるか」
リリアーナは少し考えた。
「……蜂に刺されたことが、あります」
「だろう。だから——」
「腫れませんでした」
クライドが止まった。
「……腫れなかった」
「はい。痛かったですが、腫れなかったです。不思議だなと思って」
クライドはしばらく、リリアーナを見ていた。
蜂に刺されたのに、腫れなかった。
虫が集まってくる。食べても腹を壊さない。日に日に美しくなっていく。首輪。そして今度は、蜂に刺されても腫れない。
点が、また増えた。
「……いつ刺された」
「ベルテ家の庭で、何度か。気づいたら刺されていて、でも腫れないから特に気にしていなくて」
「何度か」
「はい」
クライドは額に手を当てた。
何度も刺されていた。腫れなかった。気にしていなかった。
この娘は、自分の体に起きていることを「不思議だな」で済ませる。
「……庭師を呼ぶ。それまでここを離れろ」
「ハチの子は——」
「明日、養蜂家に頼む」
リリアーナが目を丸くした。
「養蜂家に?」
「ああ。採取させる。それで満足しろ」
リリアーナはしばらく、クライドを見ていた。
それから、ゆっくりと笑った。
「……気が利きますね」
「うるさい」
「ありがとうございます」
「だから、うるさい」
クライドはリリアーナを促して、巣から離れた。
石畳の小道に戻りながら、頭の中で点と点を繋げようとしていた。
まだ線にはなっていなかった。
でも今度こそ、本腰を入れて調べる必要があると思った。
その夜、クライドは書斎に戻った。
以前開いた文献を、また引っ張り出した。
精霊。加護。愛し子。
今度は、もっと丁寧にページをめくった。
蜂に刺されても腫れない体。虫が自発的に集まってくる現象。食べるたびに美容と活力が増していく変化。
そして、首輪。
母親が怯えた顔で「外してはいけない」と言い続けた、古びた革紐と石。
クライドは文献の一ページで、手を止めた。
精霊の加護を持つ者の特徴として、いくつかの記述があった。
自然の恵みを媒介する存在。精霊に愛される者。その力は封じることができるが、完全には消せない。
クライドは文献から目を上げた。
窓の外、夜の庭が暗かった。
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封じることができる。
クライドは立ち上がって、書棚の奥から別の文献を引き出した。
術具。封印。
ページをめくる手が、少し速くなった。
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