1 / 12
1
しおりを挟む
夫が失踪して二週間経つ。
今までも家を空けることはよくあったので、失踪と断言するのは尚早だ。
ただ、クロゼットから主だった衣類が消えていること、通帳印鑑まで持ち出されたことが不安を助長する。
そんな時、きちんとした身なりの男性が訪ねてきた。
すらっと背の高い、鼻筋の通った美丈夫だ。
一目で解る仕立てのよいスーツを着ていた。
その美丈夫が、私に会いたい人が寄越した迎えだと云う。
「私に?
あの……」
「車を待たせていますから、どうぞ」
断りにくい雰囲気を生まれて初めて味わう。
きちんとした格好をしなくてはと、就職活動したときの黒いスーツを引っ張り出す。
急いで着るとスカートが緩くなっていてくるくる回った。
車、というのはタクシーだった。
なんとなく黒塗りの高級車を連想していた私は力が抜けた。
夫とは学生結婚だ。
若気の至りという、熱に浮かされた感じで盛り上がったまま入籍してしまった。
私は看護師になれたからいいけれど、彼の就職が一向に決まらず、前途多難の船出だった。
一年二年は夢中になって過ぎていったけれど、私の稼ぎだけで二人の生活を維持するのは難しく、彼も養われるだけなのは男の沽券に関わるらしく。
彼は段々荒れていった。
「着きました、どうぞ」
時代劇に出てきそうな日本家屋、門構え。
身体に緊張が走る。
……なんで私?
長い廊下は庭に面していて、障子硝子を開け放てば縁側になる。
池もある日本庭園が一望できた。
通された客間はい草の香りがした。
「羽生田とおるさんですね」
体格のいい頭の禿げ上がった和服の男が入ってきた。
高そうな腕時計をしている。
細い一重の目は、笑っているような睨んでいるような、どちらにも感じられた。
値踏みされているような視線に、身がすくむ。
男は私の正面に胡座をかいた。
私の名前を知っている。
ますます不安になる。
男は津田山正胤と名乗った。
「そんな警戒しないで。
あんたの旦那さん、良嗣さんね」
「?はい」
「結構な借財があるんですよ」
借財?
借金?
でもどうして。
「返済期限がちょうど三週間前。
で、あんた、奥さんが担保だったんですわ」
津田山が取り出した借用書には、確かに、妻のとおるを担保に、と記載されていた。
額面は私の年収を越えていた。
何に使ったのか恐ろしくて訊けない。
訊く相手もいないが。
条件をつけた債権者もどうかと思うが、サインした夫もいかれている。
確かに財産らしい財産はないし、頼れる実家もない。
だが、逃げるほど追い詰められる前に、なぜ私に相談してくれなかったのか、情けなくなる。
夫婦なのに。
金銭借用契約の相手の名前は津田山ではなかった。
私が疑問を感じて顔を上げると、津田山は借用書を破ろうとした。
私の目が見開かれる。
津田山は私の反応を面白そうに眺めた。
「これね、私が払ってきましたので、無効です」
「無効……?」
「無効、ではないか。
要するに肩代わりしたんですな、この借金を。
なので私が債権者ってことで」
「はあ」
ということは、今後この人に返済していかなくてはならないのか。
返済方法を相談しなくては。
夫は、この事実を知っているのだろうか。
「あの、夫に電話をしてもよろしいでしょうか。
このことを知らせなくては」
「構いませんが、繋がりますか?」
繋がらなかった。
携帯電話を解約したのか充電が切れたのか。
これでは今後のことを相談することもできない。
「で、今後の返済方法なんですが」
津田山が焦る私に言葉を紡ぐ。
私ひとりで決めるには勇気が要った。
だが、借金を放置できない。
私は居住まいを正した。
「何年かかるかわかりませんが、私の収入から返済していきたいと思います。
もうご存じかもしれませんが、私は隣町の病院に勤務していますので」
男は瞬きをした。
糸のような目なのに威圧感がある。
私は目を反らすまいと必死だ。
こんな邸宅に住んでいるのだ、経験値が違う。
「では、こうしましょう。
あなたが仕事を続けても構いませんが、こちらに住み込んでいただきたい」
「よ、夜逃げなんてしません」
「そうではなく。
こちらに住み込んで、私の世話をしてほしいのですよ。
私の指示命令には必ず従う。
その給金を返済と考えましょう」
「世話を……」
世話。
世話ってなんだろ。
「あ、家政婦ってことでしょうか」
津田山は目を丸くした。
細目でも驚くと丸くなるのか、と感心した。
それから楽しそうに、
「そうですな、家政婦、そんなようなもんですな」
と云った。
私を迎えに来た人が、紙とペンを持ってきた。
私の給料から月々一定の金額の返済と、津田山の世話をすることで出来高分での上乗せと記載されている。
「ええと、掃除と洗濯とお食事……」
私は思い付くまま指を折る。
津田山は「私の頼みもね」と言葉を添える。
「はい」
タバコ買ってこいとかそんなんかな。
そんなわけないか。
本業に影響がない範囲で、とお願いすると受け入れてくれた。
「では、今お住まいの部屋は引き払ってください。
鷲尾」
「は」
「手続きはこれに任せなさい」
私を迎えに来た人は鷲尾と名乗った。
私は困った。
住まいを引き払っては、夫が戻った時に困るだろう。
「私の方で人をやりましょう。
なに、すぐに見つかりますよ」
津田山は請け負った。
却って申し訳ない気がした。
池で鯉がぱしゃんと跳ねた。
今までも家を空けることはよくあったので、失踪と断言するのは尚早だ。
ただ、クロゼットから主だった衣類が消えていること、通帳印鑑まで持ち出されたことが不安を助長する。
そんな時、きちんとした身なりの男性が訪ねてきた。
すらっと背の高い、鼻筋の通った美丈夫だ。
一目で解る仕立てのよいスーツを着ていた。
その美丈夫が、私に会いたい人が寄越した迎えだと云う。
「私に?
あの……」
「車を待たせていますから、どうぞ」
断りにくい雰囲気を生まれて初めて味わう。
きちんとした格好をしなくてはと、就職活動したときの黒いスーツを引っ張り出す。
急いで着るとスカートが緩くなっていてくるくる回った。
車、というのはタクシーだった。
なんとなく黒塗りの高級車を連想していた私は力が抜けた。
夫とは学生結婚だ。
若気の至りという、熱に浮かされた感じで盛り上がったまま入籍してしまった。
私は看護師になれたからいいけれど、彼の就職が一向に決まらず、前途多難の船出だった。
一年二年は夢中になって過ぎていったけれど、私の稼ぎだけで二人の生活を維持するのは難しく、彼も養われるだけなのは男の沽券に関わるらしく。
彼は段々荒れていった。
「着きました、どうぞ」
時代劇に出てきそうな日本家屋、門構え。
身体に緊張が走る。
……なんで私?
長い廊下は庭に面していて、障子硝子を開け放てば縁側になる。
池もある日本庭園が一望できた。
通された客間はい草の香りがした。
「羽生田とおるさんですね」
体格のいい頭の禿げ上がった和服の男が入ってきた。
高そうな腕時計をしている。
細い一重の目は、笑っているような睨んでいるような、どちらにも感じられた。
値踏みされているような視線に、身がすくむ。
男は私の正面に胡座をかいた。
私の名前を知っている。
ますます不安になる。
男は津田山正胤と名乗った。
「そんな警戒しないで。
あんたの旦那さん、良嗣さんね」
「?はい」
「結構な借財があるんですよ」
借財?
借金?
でもどうして。
「返済期限がちょうど三週間前。
で、あんた、奥さんが担保だったんですわ」
津田山が取り出した借用書には、確かに、妻のとおるを担保に、と記載されていた。
額面は私の年収を越えていた。
何に使ったのか恐ろしくて訊けない。
訊く相手もいないが。
条件をつけた債権者もどうかと思うが、サインした夫もいかれている。
確かに財産らしい財産はないし、頼れる実家もない。
だが、逃げるほど追い詰められる前に、なぜ私に相談してくれなかったのか、情けなくなる。
夫婦なのに。
金銭借用契約の相手の名前は津田山ではなかった。
私が疑問を感じて顔を上げると、津田山は借用書を破ろうとした。
私の目が見開かれる。
津田山は私の反応を面白そうに眺めた。
「これね、私が払ってきましたので、無効です」
「無効……?」
「無効、ではないか。
要するに肩代わりしたんですな、この借金を。
なので私が債権者ってことで」
「はあ」
ということは、今後この人に返済していかなくてはならないのか。
返済方法を相談しなくては。
夫は、この事実を知っているのだろうか。
「あの、夫に電話をしてもよろしいでしょうか。
このことを知らせなくては」
「構いませんが、繋がりますか?」
繋がらなかった。
携帯電話を解約したのか充電が切れたのか。
これでは今後のことを相談することもできない。
「で、今後の返済方法なんですが」
津田山が焦る私に言葉を紡ぐ。
私ひとりで決めるには勇気が要った。
だが、借金を放置できない。
私は居住まいを正した。
「何年かかるかわかりませんが、私の収入から返済していきたいと思います。
もうご存じかもしれませんが、私は隣町の病院に勤務していますので」
男は瞬きをした。
糸のような目なのに威圧感がある。
私は目を反らすまいと必死だ。
こんな邸宅に住んでいるのだ、経験値が違う。
「では、こうしましょう。
あなたが仕事を続けても構いませんが、こちらに住み込んでいただきたい」
「よ、夜逃げなんてしません」
「そうではなく。
こちらに住み込んで、私の世話をしてほしいのですよ。
私の指示命令には必ず従う。
その給金を返済と考えましょう」
「世話を……」
世話。
世話ってなんだろ。
「あ、家政婦ってことでしょうか」
津田山は目を丸くした。
細目でも驚くと丸くなるのか、と感心した。
それから楽しそうに、
「そうですな、家政婦、そんなようなもんですな」
と云った。
私を迎えに来た人が、紙とペンを持ってきた。
私の給料から月々一定の金額の返済と、津田山の世話をすることで出来高分での上乗せと記載されている。
「ええと、掃除と洗濯とお食事……」
私は思い付くまま指を折る。
津田山は「私の頼みもね」と言葉を添える。
「はい」
タバコ買ってこいとかそんなんかな。
そんなわけないか。
本業に影響がない範囲で、とお願いすると受け入れてくれた。
「では、今お住まいの部屋は引き払ってください。
鷲尾」
「は」
「手続きはこれに任せなさい」
私を迎えに来た人は鷲尾と名乗った。
私は困った。
住まいを引き払っては、夫が戻った時に困るだろう。
「私の方で人をやりましょう。
なに、すぐに見つかりますよ」
津田山は請け負った。
却って申し訳ない気がした。
池で鯉がぱしゃんと跳ねた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
最強魔術師の歪んだ初恋
黒瀬るい
恋愛
伯爵家の養子であるアリスは親戚のおじさまが大好きだ。
けれどアリスに妹が産まれ、アリスは虐げれるようになる。そのまま成長したアリスは、男爵家のおじさんの元に嫁ぐことになるが、初夜で破瓜の血が流れず……?
田舎の幼馴染に囲い込まれた
兎角
恋愛
25.10/21 殴り書きの続き更新
都会に飛び出した田舎娘が渋々帰郷した田舎のムチムチ幼馴染に囲い込まれてズブズブになる予定 ※殴り書きなので改行などない状態です…そのうち直します。
真面目な王子様と私の話
谷絵 ちぐり
恋愛
婚約者として王子と顔合わせをした時に自分が小説の世界に転生したと気づいたエレーナ。
小説の中での自分の役どころは、婚約解消されてしまう台詞がたった一言の令嬢だった。
真面目で堅物と評される王子に小説通り婚約解消されることを信じて可もなく不可もなくな関係をエレーナは築こうとするが…。
※Rシーンはあっさりです。
※別サイトにも掲載しています。
淡泊早漏王子と嫁き遅れ姫
梅乃なごみ
恋愛
小国の姫・リリィは婚約者の王子が超淡泊で早漏であることに悩んでいた。
それは好きでもない自分を義務感から抱いているからだと気付いたリリィは『超強力な精力剤』を王子に飲ませることに。
飲ませることには成功したものの、思っていたより効果がでてしまって……!?
※この作品は『すなもり共通プロット企画』参加作品であり、提供されたプロットで創作した作品です。
★他サイトからの転載てす★
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる