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「係長からも叱ってくださいよ。
絶対サボってますよ」
よほど腹に据えかねているのだろう、普段は可愛らしい表情を心がけている鈴木佐和子の声は甲高くなっていた。
係長の声は聞こえない。
まあまあ、とかなんとかなだめるようなことを言っているのだろう。
ドア一つ隔てたこちら、廊下では、まさにその話の主、私が立ち尽くしておりました。
やっぱりそうだよね、サボってると思うよね。
だって一時間もかかってるもの、長すぎるもの。
私がこの会社に採用されたのは今年の春。
算盤はもちろん、最近普及し始めた電子計算機も難なく使える私は、事務員として中々優秀だと自負していた。
引き継ぎした前任者も太鼓判を押してくれた。
だが。
郵便局や役所へ届けを持って行く際、「ついでに」と買い出しを命じられることが数回あった。
方向音痴、とまではいかないが、広い量販店で目当ての商品を見つけるのにかなり手間取った。
探している間にも、時間が刻一刻と過ぎてゆき、気ばかり焦る。
なんとか買い揃えて社に戻ると、険しい表情の鈴木佐和子が出迎え、労いとも皮肉とも取れる言葉を口にするのだ。
今日も結局時間を余計に使ってしまい、しかも自分を責める大声が響いている中に入る勇気がなく、もうどうしたらいいのかわからなくなっていた。
自信も何もなくなってしまう。
「入らないの?」
背後から人が近づいていたことに気づかなかった。
営業の笘篠さんだ。
仕方ない、観念してその背中について入る。
鈴木爽子の表情はやはり険しい。
だが口元は綻んでいる。
係長から叱責があると期待しての笑顔なのだろう。
「あら、随分ごゆっくりだったのね。
お昼ご飯を食べてきたのかと思ったわ。
書類は手早いのに歩くのはそうでもないのねぇ」
「申し訳ありません…」
「まあ、慣れないうちは仕方ないよね。
机に書類溜まってるから、それやっちゃって」
係長が取りなすように口を挟んだ。
お辞儀をして机に戻る。
買ったものの領収証と出納帳をまず整理せねばならない。
鈴木佐和子の期待した展開にならなかったからか、私についてくる。
「なによ、わざわざナカムラヤまで行ったの?
橋の手前にも店はあるのよ?」
「も、申し訳ありません」
不案内の地域では大きな店に行ってしまう。
迷うのが怖いからだ。
確かに橋のたもとにも店はあった。
次からは気をつけねば。
鈴木佐和子はなぜか私だけに辛く当たる。
中途採用だから厳しく躾けているつもりなのだろうか、身の置きどころがない。
「あーでもインクリボンなら小坂商店では取り扱ってないよ。
わかっててナカムラヤ行ったんじゃないの?」
笘篠さんが割って入った。
私の前に必要な書類や伝票を置く。
その時に出納帳が見えたらしい。
「しゅう、笘篠くん、なに?
庇ってるの?
こういう子が好きなわけ?」
えっ。
心なしか顔が赤くなってしまう。
「そういう訳じゃないけど、小さいことでキーキー言ってる女の声は好きじゃないかも」
鈴木佐和子の顔が怒りで赤くなった。
私は青くなった。
「そんなに待たされるの嫌なら買い物は鈴木さん行けばいいんじゃない?
効率がいいと思うよ、その方が」
「…そうね、そうするわ」
鈴木佐和子は静かに給湯室へ向かった。
私はもう顔を上げられず、ひたすら算盤を弾いていた。
笘篠さんも黙って自席へ戻る。
書類整理も一区切りつき、時計を見るともうすぐ三時だった。
午後のお茶を淹れる時間だ。
私は立ち上がり給湯室へ向かう。
鈴木佐和子は戻ってきていなかった。
笘篠さんも自席にはいなかった。
外勤に出たとも聞いていないので、人数分用意しておいた方がいいだろう。
「…っ……だって…」
「だってじゃない。
さわの一番良くないとこだ」
「ん…いや…秀っ…こんなとこで…っ」
「じゃ、どこならいいの?
止めていいの?
困るのはさわでしょ」
「…ひぁぁっ…くぅ…っ…意地悪…あぁっ……」
給湯室から聞こえてきた声と、息遣いと、衣擦れの音。
私は足音を立てないように戻った。
私は相当赤い顔をしていたのだろう。
係長が目を丸くしている。
そして、思い当たったのか、苦笑いして鞄から缶コーヒーを出して私にくれた。
「あんまり度が過ぎたら注意するから、多めに見てやって」
コーヒーは苦かった。
私はその日のうちに退職届を書いて提出した。
係長も何も言わず受理してくれた。
絶対サボってますよ」
よほど腹に据えかねているのだろう、普段は可愛らしい表情を心がけている鈴木佐和子の声は甲高くなっていた。
係長の声は聞こえない。
まあまあ、とかなんとかなだめるようなことを言っているのだろう。
ドア一つ隔てたこちら、廊下では、まさにその話の主、私が立ち尽くしておりました。
やっぱりそうだよね、サボってると思うよね。
だって一時間もかかってるもの、長すぎるもの。
私がこの会社に採用されたのは今年の春。
算盤はもちろん、最近普及し始めた電子計算機も難なく使える私は、事務員として中々優秀だと自負していた。
引き継ぎした前任者も太鼓判を押してくれた。
だが。
郵便局や役所へ届けを持って行く際、「ついでに」と買い出しを命じられることが数回あった。
方向音痴、とまではいかないが、広い量販店で目当ての商品を見つけるのにかなり手間取った。
探している間にも、時間が刻一刻と過ぎてゆき、気ばかり焦る。
なんとか買い揃えて社に戻ると、険しい表情の鈴木佐和子が出迎え、労いとも皮肉とも取れる言葉を口にするのだ。
今日も結局時間を余計に使ってしまい、しかも自分を責める大声が響いている中に入る勇気がなく、もうどうしたらいいのかわからなくなっていた。
自信も何もなくなってしまう。
「入らないの?」
背後から人が近づいていたことに気づかなかった。
営業の笘篠さんだ。
仕方ない、観念してその背中について入る。
鈴木爽子の表情はやはり険しい。
だが口元は綻んでいる。
係長から叱責があると期待しての笑顔なのだろう。
「あら、随分ごゆっくりだったのね。
お昼ご飯を食べてきたのかと思ったわ。
書類は手早いのに歩くのはそうでもないのねぇ」
「申し訳ありません…」
「まあ、慣れないうちは仕方ないよね。
机に書類溜まってるから、それやっちゃって」
係長が取りなすように口を挟んだ。
お辞儀をして机に戻る。
買ったものの領収証と出納帳をまず整理せねばならない。
鈴木佐和子の期待した展開にならなかったからか、私についてくる。
「なによ、わざわざナカムラヤまで行ったの?
橋の手前にも店はあるのよ?」
「も、申し訳ありません」
不案内の地域では大きな店に行ってしまう。
迷うのが怖いからだ。
確かに橋のたもとにも店はあった。
次からは気をつけねば。
鈴木佐和子はなぜか私だけに辛く当たる。
中途採用だから厳しく躾けているつもりなのだろうか、身の置きどころがない。
「あーでもインクリボンなら小坂商店では取り扱ってないよ。
わかっててナカムラヤ行ったんじゃないの?」
笘篠さんが割って入った。
私の前に必要な書類や伝票を置く。
その時に出納帳が見えたらしい。
「しゅう、笘篠くん、なに?
庇ってるの?
こういう子が好きなわけ?」
えっ。
心なしか顔が赤くなってしまう。
「そういう訳じゃないけど、小さいことでキーキー言ってる女の声は好きじゃないかも」
鈴木佐和子の顔が怒りで赤くなった。
私は青くなった。
「そんなに待たされるの嫌なら買い物は鈴木さん行けばいいんじゃない?
効率がいいと思うよ、その方が」
「…そうね、そうするわ」
鈴木佐和子は静かに給湯室へ向かった。
私はもう顔を上げられず、ひたすら算盤を弾いていた。
笘篠さんも黙って自席へ戻る。
書類整理も一区切りつき、時計を見るともうすぐ三時だった。
午後のお茶を淹れる時間だ。
私は立ち上がり給湯室へ向かう。
鈴木佐和子は戻ってきていなかった。
笘篠さんも自席にはいなかった。
外勤に出たとも聞いていないので、人数分用意しておいた方がいいだろう。
「…っ……だって…」
「だってじゃない。
さわの一番良くないとこだ」
「ん…いや…秀っ…こんなとこで…っ」
「じゃ、どこならいいの?
止めていいの?
困るのはさわでしょ」
「…ひぁぁっ…くぅ…っ…意地悪…あぁっ……」
給湯室から聞こえてきた声と、息遣いと、衣擦れの音。
私は足音を立てないように戻った。
私は相当赤い顔をしていたのだろう。
係長が目を丸くしている。
そして、思い当たったのか、苦笑いして鞄から缶コーヒーを出して私にくれた。
「あんまり度が過ぎたら注意するから、多めに見てやって」
コーヒーは苦かった。
私はその日のうちに退職届を書いて提出した。
係長も何も言わず受理してくれた。
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