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第五章『天下布武』
2『恩師の教え、そして信長の熱き想い』
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天下布武は――
信長の幼少期の教育係りで、信長が成人してからはその参謀・ブレーンとなった沢彦宗恩が、進言したといわれる。
そう岐阜へと地名変更の進言も、信長の師であるこの沢彦宗恩であるし、
自由で平等で平和な世界を意味する『撫育民姓国家』も宗恩が教えたといわれる。(『正秀寺故事』)
沢彦宗恩たくげんそうおんは、臨済宗妙心寺派の僧で後に大住持となった。諸国修学の後、妙心寺第一座となり、それを辞した後は美濃の大宝寺の住持となった。
そして隣国の尾張の領主である信長の父・織田信秀に依頼され信長の教育係りとなった、当代きっての大学者である。
その宗恩が進言した――
天下布武の《武》とは、『七徳の武』を意味する。
これは古代中国の『春秋左氏伝』にのる言葉で――
簡単に言うと、
一つ、
国の軍隊が国民と正義の為にその力を“正しく”行使すれば、国内の内乱・暴動がなくなる。
二つ、
国軍がしっかりしていれば他国から、そうそう攻められることもない。
三つ、
だから国内の隅々まで治安を維持することが可能になり、
四つ、
法律を定めれば、その法律はしっかり効力を保たれ、犯罪行為を封じることができる。
五つ、
だから――
その安定をもたらす国軍を掌握する者(現代日本では内閣総理大臣)が、
“真に国民の為”の政治を行えば――
国民の暮らしは早急に改善されていく。
六つ、
そうなると国民生活は安全・安心になり――
――だから、
七つ、
信頼にもとずく経済活動も活発となり――
国民の生活は豊かで実り多いものになる。
という意味が、
この天下布武の《武》には込められてあるのである。
ということで、説明がめちゃくちゃ長くなりましたが、
信長のこの日本に対する“熱き熱き想い”はビンビン感じますね!
つまり、《天下布武》とは――
ただ天下を統一するだけでなく、
そう、武力はその為の一つの手段であって、戦乱続く国内の統一を成し遂げ――
日本国民総てが、幸せで平和に満ちた暮らしができる。
そういう国にするために《織田信長》は戦うという――
日本全国に向けた《宣言》だったのです!
それにしても、まだ信長は尾張と美濃の二国しか領有してない段階で天下布武を、そう七徳の武による天下統一を宣言したのは、ちょっと気が早いような感じがしますよね。
この『天下布武』の印が、書状に使われるようになったのは、美濃攻略直後といわれていますので。
……そんな宣言すれば、他国の大名や宗教武装勢力にそれこそ、
「尾張の信長は、美濃だけでなく天下を狙っているぞ」と警戒されてしまいますよね。
しかし、天下布武の言葉は、実は敵対勢力に向けたものではなかったのです。
そう、その言葉は、乱世に苦しむ日本中の民衆に向けたものだったのです!
というと「また信長を民衆のヒーローにしようとしてる」と、言われそうですが……
今まで述べた、信長の先生、正に信長の恩師である沢彦宗恩の教えをまとめるとそうなる。
信長が目指した『撫育民姓国家』、
スローガン天下布武の『七徳の武』、
そしてその活動の拠点・出発地となった『岐阜』という言葉全てに――
民衆が平和に暮らせる国を作りたいという意味、そして想いが込められているからだ。
この宗恩の教え、そして信長の熱き民衆への想いを知った時――
拙者はどうしても『聖書』、
――『ヨハネによる福音書』にのる、この宇宙の始まりを描くこの冒頭の言葉を連想してしまう。
『――始めに言葉があった。言葉は神と共にあった。』
信長は、まず活動の事始めとして――
天下布武という《言葉》を、高らかに宣言した。
――そう、そこから総てが始まったのである。
――織田信長は、フロイスが記したあの山麓の岐阜城本丸御殿で、集まる民衆に宣言した。
余と共に、平和な世界になるよう――
諦めずくじけず、あらゆる不当な障害妨害に毅然とした態度・覚悟を持って戦って行こう!
だからこそ、この余が――
他の大名や宗教武装勢力の反発による困難を恐れて、挫けるわけにはいかないのであるぞ!
――それが余の、天下布武である!!
「天下布武、万歳!」
「織田信長様、万歳!」
岐阜の民衆の信長を称える声が、いつまでもいつまでも鳴り響いていた。
そしてその信長を称える声は現代までも、なんと鳴り響いて――
現在、JR岐阜駅前には、市民有志がお金を出し合い建立した――
《黄金の織田信長公像》が駅前広場に立っており、
そう、信長公は現在でも岐阜市民の誇りとなっているのであった。
(あっ、また『偶像崇拝』とフロイスに怒られるかも……(笑))
信長の幼少期の教育係りで、信長が成人してからはその参謀・ブレーンとなった沢彦宗恩が、進言したといわれる。
そう岐阜へと地名変更の進言も、信長の師であるこの沢彦宗恩であるし、
自由で平等で平和な世界を意味する『撫育民姓国家』も宗恩が教えたといわれる。(『正秀寺故事』)
沢彦宗恩たくげんそうおんは、臨済宗妙心寺派の僧で後に大住持となった。諸国修学の後、妙心寺第一座となり、それを辞した後は美濃の大宝寺の住持となった。
そして隣国の尾張の領主である信長の父・織田信秀に依頼され信長の教育係りとなった、当代きっての大学者である。
その宗恩が進言した――
天下布武の《武》とは、『七徳の武』を意味する。
これは古代中国の『春秋左氏伝』にのる言葉で――
簡単に言うと、
一つ、
国の軍隊が国民と正義の為にその力を“正しく”行使すれば、国内の内乱・暴動がなくなる。
二つ、
国軍がしっかりしていれば他国から、そうそう攻められることもない。
三つ、
だから国内の隅々まで治安を維持することが可能になり、
四つ、
法律を定めれば、その法律はしっかり効力を保たれ、犯罪行為を封じることができる。
五つ、
だから――
その安定をもたらす国軍を掌握する者(現代日本では内閣総理大臣)が、
“真に国民の為”の政治を行えば――
国民の暮らしは早急に改善されていく。
六つ、
そうなると国民生活は安全・安心になり――
――だから、
七つ、
信頼にもとずく経済活動も活発となり――
国民の生活は豊かで実り多いものになる。
という意味が、
この天下布武の《武》には込められてあるのである。
ということで、説明がめちゃくちゃ長くなりましたが、
信長のこの日本に対する“熱き熱き想い”はビンビン感じますね!
つまり、《天下布武》とは――
ただ天下を統一するだけでなく、
そう、武力はその為の一つの手段であって、戦乱続く国内の統一を成し遂げ――
日本国民総てが、幸せで平和に満ちた暮らしができる。
そういう国にするために《織田信長》は戦うという――
日本全国に向けた《宣言》だったのです!
それにしても、まだ信長は尾張と美濃の二国しか領有してない段階で天下布武を、そう七徳の武による天下統一を宣言したのは、ちょっと気が早いような感じがしますよね。
この『天下布武』の印が、書状に使われるようになったのは、美濃攻略直後といわれていますので。
……そんな宣言すれば、他国の大名や宗教武装勢力にそれこそ、
「尾張の信長は、美濃だけでなく天下を狙っているぞ」と警戒されてしまいますよね。
しかし、天下布武の言葉は、実は敵対勢力に向けたものではなかったのです。
そう、その言葉は、乱世に苦しむ日本中の民衆に向けたものだったのです!
というと「また信長を民衆のヒーローにしようとしてる」と、言われそうですが……
今まで述べた、信長の先生、正に信長の恩師である沢彦宗恩の教えをまとめるとそうなる。
信長が目指した『撫育民姓国家』、
スローガン天下布武の『七徳の武』、
そしてその活動の拠点・出発地となった『岐阜』という言葉全てに――
民衆が平和に暮らせる国を作りたいという意味、そして想いが込められているからだ。
この宗恩の教え、そして信長の熱き民衆への想いを知った時――
拙者はどうしても『聖書』、
――『ヨハネによる福音書』にのる、この宇宙の始まりを描くこの冒頭の言葉を連想してしまう。
『――始めに言葉があった。言葉は神と共にあった。』
信長は、まず活動の事始めとして――
天下布武という《言葉》を、高らかに宣言した。
――そう、そこから総てが始まったのである。
――織田信長は、フロイスが記したあの山麓の岐阜城本丸御殿で、集まる民衆に宣言した。
余と共に、平和な世界になるよう――
諦めずくじけず、あらゆる不当な障害妨害に毅然とした態度・覚悟を持って戦って行こう!
だからこそ、この余が――
他の大名や宗教武装勢力の反発による困難を恐れて、挫けるわけにはいかないのであるぞ!
――それが余の、天下布武である!!
「天下布武、万歳!」
「織田信長様、万歳!」
岐阜の民衆の信長を称える声が、いつまでもいつまでも鳴り響いていた。
そしてその信長を称える声は現代までも、なんと鳴り響いて――
現在、JR岐阜駅前には、市民有志がお金を出し合い建立した――
《黄金の織田信長公像》が駅前広場に立っており、
そう、信長公は現在でも岐阜市民の誇りとなっているのであった。
(あっ、また『偶像崇拝』とフロイスに怒られるかも……(笑))
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