神代永遠とその周辺

7番目のイギー

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#58 永遠と庸子そして零 ―トマト―

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 雲一つない茜色に染まる夕暮れの夏空とは裏腹に、私のには暗雲が居座っていた。
 アスファルトに伸びる影はべったりと地面に貼り付いて、未だ少しも動こうとしない。

永遠とわさん……大丈夫? 駅まで送ろうか?」

 背中を優しくさすってくれるヨーコさんの手は少し震えていて、とても申し訳ない気持ちに襲われる。

「ううん大丈夫……ごめんねヨーコさん……玲乃れのさんにもあとで謝っておいて……」

 あのあと、玲乃さんは「なんかごめんね……」とだけ言って、以降一度も言葉を発することなく、粛々とポンパドールを仕上げた後、とぼとぼと二階へ引き下がってしまったのだ。

「永遠さんが謝ることじゃないよ……永遠さんに今、なんて言っていいのか私も実はわからないの。でもね? 私にとって、永遠さんは永遠さんでしかないの。みんなに優しくて、でもちょっと可愛らしくて、時々ドキッとさせられる……素敵な女の子なんだよ?」
「……ありがとうヨーコさん……私もね――」

 今、私の心の中は、多分『無』に近い状態なんだよ。

 降って沸いたような話だけど、悲しいのか怒りなのかも判断できない。だってママは厳しいところもあるけど『優しい母親』だし、じじも見た目はあぁ筆髭爺だけど、私はおろかツナとコーちゃん、そしてヨーコさんという『私の大切なお友達』まで孫同然と言って憚らない、『優しい祖父』なのだ。だから二人は私に隠し事なんかするとは考えづらいんだ……今は。

 だから今の私は『不幸』なことなんかひとつもないんだよ。
 だから今の私は『どうしたらいいのか』わからないんだよ。

「――だからね、今はどうしたらいいのかわからないの」
「そうだね。でも今はあまり深く考え込まない方がいいと思うの。ごめんね、私も流石にこういう事態は初めてだから、どういうアドバイスをしたらいいのか分からなくて……」
「ヨーコさん……」

 そうだよね、私自身がわからないことをヨーコさんがわかるはずもない。
 でも、ヨーコさんはきっと全身全霊で考え、寄り添ってくれようとしてる。

「でもこれだけは分かって? 私はいつだって永遠さんを受け止める。もし気持ちに整理がつかなくて、心の行き場がなくなったら八つ当たりしてもいいよ? 今の私はこの件に対して『最適解』を出せないのがもどかしいから……だから、なんでもいいから私にぶつかって欲しいな。全部受け止めるから。だから永遠さんは心のままにすればいいと思う」
「……ヨーコ……さん……うぇっ、う……ぐすっ」

 今まで少しも動かなかった涙腺が、彼女の言葉で一気に動き出す。
 これ、悲しいんじゃない。嬉しいんだ。

「うんうん、大丈夫だから、ね?(泣いてる永遠さん、はかな可愛い……)」
「……ありがとうヨーコさん。私、ヨーコさんに出会えてほんとよかった。幸せだね私……ヨーコさんだいす――」
「私も永遠さん大好き! ……たまには私から言わないと……ね?」

 そう言って悪戯いたずらめいた目を向けるヨーコさんの顔。それはいつもの凜とした彼女のそれじゃなく、慈愛に満ちた聖母のように穏やかで、心に溜まった負の感情を洗い流してくれる。こんな顔をされたらそうなるのも当たり前だよね。これなら一人でも帰れそうだ。うん、大丈夫。

「じゃあ私……そろそろ帰るね? 今日はあ――」
「永遠さん、これ忘れ物」

 ヨーコさんの手にあったのは、真っ赤に熟れた大きなトマトの入った紙袋。
 こんな時になんだけど、ものすごく美味しそう。大きさはまちまちだけど、ツヤツヤしてて、もはや私の頭の中は、どうやって食べようか、なんて思考に落ちてしまう。

「ありがとう。お爺さんとお婆さんにもお礼、伝えてください」
「えぇ、もちろん。でも結構重いから……そうだ、こうすれば――」

 と言って、紙袋の取手の片方を私から取り上げると、私と彼女の間で紙袋は困った様子で小さく揺れる。

「駅まで一緒に持ってあげる」
「もう……でもありがと。うん、一緒に……あ」
「? どうしたの?」
「大変ですヨーコさん。どうしよう?」

 髪型やら玲乃さんの圧やら私のブロンドの疑問やらで、楽しみにしていたことがすっかり抜け落ちてたことに、今更ながら気づいてしまったのだ。

「ヨーコさんのお部屋にお邪魔するの、忘れてました……」
「……ぷぷっ。もう、大袈裟なんだから……なら、明日も……来る? 期末試験も近いし、お勉強会ってことで」
「うん!」
「「……ふふっ」」

 地面に映る二人の影は、ちょっと不恰好なMの字を描く。トマト色に変わった夕景の下、嬉しそうに揺れていた。

 ✳︎          ✳︎          ✳︎

「ただいまー」
「おかえりー……おぉ、可愛いじゃんその髪型」
「そう? 似合ってる?」
「似合ってる似合ってる」

 正直、あのこと――片親がブロンドの遺伝子を持たない場合子供はブロンドにはならない――がどうしても頭から離れない。
 ママが私の『生みの親』であることは、昔見せてもらった母子手帳からして揺るぎない事実。ということは、ママが『ブロンドの遺伝子を持っている』ことにほかならないんだけど、当の本人からそんな話は一切聞いたことがないのだ。

 きっと言いたくないか、もしくは自分自身も知らないか。
 いずれにしろ、私自身が『どうしていいかわからない』んだから、今は問いただすのは止そう、と決めた。

「はい、ママこれ」
「何? ……って美味しそうなトマトじゃん、どしたのこれ?」
「ヨーコさんのお家で採れたのもらった」
「へえぇ……って永遠。なんかあった?」

 ママの不意打ちに鼓動が跳ねる。やっぱり顔に出てるのかな。ママに隠し事は無理なんだよね、すぐバレちゃうから。でも、

「……ううん、なんにも。あ、でもヨーコさんのお姉さんがすごく素敵で、この髪型ポンパドールのやり方も教えてもらったんだよ」
「……そっか。よかったね永遠。男子が放っておかなそうじゃん」
「それはご遠慮したいところです……」
「それはそうと、お風呂沸いてるから先、入っちゃいなさいね」

 ん、と生返事を返しながらそそくさと部屋へ向かい、ボスっと制服のままベッドに倒れ込んでから身を転がし、天井を仰ぐ。

(ママにも事情があるんだよね、言いたくない事情が。気にはなるけど、『今』が壊れるのは嫌だよ……)

 独りでいると、どうしても弱気になっちゃうね。
 枕元に常駐するクマのぬいぐるみ――これは東京の動物園で買ったマレーグマだ――を抱きかかえてまた溜息ひとつ。

「ねぇモモコ。どうしたらいいと思う?」

 ちなみにモモコっていうのは私がつけた名前じゃない。これを買った動物園にいるマレーグマの名前がモモコだからそう呼んでる。
 というか普段、こんなことしないんだけどな。最後に話しかけたのはツナと初めて会った日の夜だったよね、なんて回想する。

「ねぇモモコ。どうしたらいいと思う?」

 そう、あの時も同じこと、聞いたんだっ――

 ✳︎          ✳︎          ✳︎

「何やってるの? はやくお風呂入っちゃいなさい」

 あれ……どうやらうたた寝しちゃってたみたい?
 口端に少し洩れた涎を拭って、頬をパン! と一叩き。

「ふぁーい」

 欠伸混じりで返事を返して制服を脱ぎ捨てて。
 面倒だから下着のまま、着替えだけを抱えてお風呂場へ向かった。
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