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#65 永遠と庸子と敦美 ―黒硬象蟲―
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「うーん……こんな感じかなぁ?」
一昨日は本当に色々ドタバタで大変だったけど、すごく楽しかったな。玲乃さんたちには足を向けて眠れないくらいに感謝だよ。
そんなことを思い起こしながら、鏡の中の私はスタイリングに悪戦苦闘。スマホで撮影したポンパドールの完成形を見本に、ブラシをああでもないこうでもないとこねくり回してみたものの、やっぱりプロの仕上がりには遠く及ばない。
やっとの思いで納得のいく形が出来上がれば、登校時間はすぐそこまで迫っていた。
「永遠、ちょっと後ろがおかしいから直してあげる」
心配そうに背後で様子を窺っていたママは痺れを切らして、シュババッ! と風切り音が鳴りそうな勢いで両手を縦横無尽に動かす。そして瞬く間に見本に勝るとも劣らない形を作り上げた。うーん、やっぱり後ろはもっと練習しないとうまくいかないかぁ。
「もうちょっと練習しないとね。いつも私がやってあげられるわけじゃないし」
「後ろは分かりづらいもん……」
「さぁ、はやく朝食済ませちゃいなさい。遅刻しちゃうわよ?」
ママに背中をぽんと押されてリビングへ追い立てられ、ハムエッグとトースト、牛乳を一気にやっつけ家を飛び出した。
容赦のない夏の日差しを存分に浴びて、今日から少しだけ新しい私の生活が始まる。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「おはようございます」
これは毎日のルーティーンの一つ『特定の誰かに向けない朝の挨拶』である。
普段なら私よりも早くヨーコさんが登校してるから彼女に向けて言うんだけど、今日はどうやら席を外しているようで、通学鞄はあるものの、その姿はない。
職員室かそれともお手洗いかな、なんて彼女の行方を脳内捜索しながら自席へと向かって、そそくさと一時間目の準備にかかる。
「あれ? 神代さん髪の毛切ったんだ。いいねその髪型。色も綺麗じゃん」
不意に話しかけられてその声の主、とはいえすぐ右隣に座るクラスメイトに顔を向ける。
最近はこうやって、少しずつなんだけどクラスメイトに話しかけられることが増えてきてる。これもヨーコさんが手回ししてくれてるおかげだ。手回しというと聞こえが悪いんだけど、ヨーコさんは私と話していると、時折周りにいる誰かに話を振ったりするのだ。
【永遠さんのハンカチかわいいね。ねぇ、〇〇さんもそう思わない?】
【英語なら、私より永遠さんの方が得意だから彼女に聞くといいよ】
こんな感じである。かといってその頻度は多くなく、私も気疲れしなくて済んでいた。それもヨーコさんが考えて調整してくれてるんだろうね。日によってはまったくそういうことをしない日もあるし。本当に彼女は優しくて気遣いのできる女性だ。
ヨーコさんがこの場にいない状態で誰かに話しかけられるのは久しぶりで、狼狽してしまう。いかに私がヨーコさんに頼りきりなのかが思い知らされるよ。
「う、うん。土曜日にヨーコさんのお姉さんの美容室に行ったの。その……似合って……ますか?」
「なんで敬語? うん、すごく似合ってる。神代さん綺麗だもん」
似合うと言われるのは嬉しいけど、綺麗っていう評価に私はどう返したらいいのか。ヨーコさん的に言えば『最適解』なんだけど……。よし、これだ。
「そ、そうかな? ……ありがとう」
と、気合を入れた割には実に差し障りのない無難な言葉で返す。
隣で頬杖をついてニコニコ返答を受ける彼女は『波多野敦美』さん。ポニーテールがよく似合う、少し小麦色の肌をした小柄な女の子だ。まぁ私とヨーコさん以外のクラスの女子は何故かみんな小さいからもれなく小柄なんだけど。
「波多野さんもポニーテール似合ってるよ?」
「そ、そう? これが楽チンだからしてるだけなんだよねぇ」
「そうなの? すごい似合うと思ってたんだよ前から。だって可愛いし、元気な女の子って感じで私は好きだよ?」
「! こ、これが庸子ちゃんのいう『誉め殺し』……破壊力すごっ……ぐはっ」
破壊力って。私そんな物騒な人じゃないんだけどな。というかヨーコさん、波多野さんに私のこと、何て話してるんだろうか。そして彼女は何を吐き出したの?
「永遠さん、あっちゃんおはよう」
聞き慣れた声に振り向くと、ヨーコさんがいつものように素敵な笑顔を携えて声をかけてくれる。
「おはようヨーコさん」
「庸子ちゃんおいっすー」
「永遠さんポンパドール上手にできてるね、可愛い……ってあっちゃん、いつもギリギリに来るのに珍しいね? こんな早くにいるなんて」
そう言われれば確かに波多野さんって始業時間ギリギリに駆け込んでくるイメージしかない。彼女が席につくとほぼ同時に先生が来ちゃうから、ほとんど話す機会も勇気もなかったんだよね。
「いや~、今日は明け方から木の見回りしてたんだよ」
「木の見回り?」
それって何の目的なんだろう? どう頭を捻っても答えの出ない私に、ヨーコさんはあっさりと真実をはじき出す。
「あっちゃんってね、生物部の副部長さんなの。たぶんだけど、カブトムシだよね? で、早起きして探してた……でしょ?」
「正解! カブトムシって買うと高いじゃん。だからさ、近所のクヌギの木を見てきたってわけ。まだ季節的に早いかもだけどさ。で、こんな早く登校って感じ! ってなんで庸子ちゃんわかったん?」
「だって去年の今頃も学校にカブトムシ肩に乗せて来たじゃない? 教室中パニックになったの忘れちゃった?」
「へ、へえぇ……カブトムシ……肩に乗せて……」
カブトムシを明け方から探す女子高生。初めて聞いたよそんなの。
確かにこの近辺は緑も多くて、私もひと夏に数匹、ベランダとか近所の公園でカブトムシを見かけることがある。それをわざわざ捕まえてくるなんて面白い子だね。
「カブトムシだけじゃないよ! この市って川も林もあるし自然が多いから、意外と色々いて楽しいんだよね。去年はなんと! タガメを見つけたんだよ! タガメだよタガメ! 水生昆虫の王様! 知ってる神代さん!?」
鼻を膨らませてタガメを語る女子高生。これも初めてだよ。というかたぶんそんな子、日本で数人くらいなんじゃないのかな?
それはさて置き、タガメ。うん、もちろん知ってるよ。自然にいるのは見たことないけど、じじが数年前に『タイワンタガメ』っていうの、仕入れてきたもん。虫なのにこんな高いの!? って驚いた記憶がある。
「うん、知ってるよ。じじ……お爺ちゃんの店で見たことある」
「? 確か神代さんって第四中学だよね? ということはもしかしてあのおっきいマンションの下にある熱帯魚屋? 何年か前にそこでタイワンタガメ売ってるの見たことあるんだけど」
「そうそう。波多野さん知ってたんだ?」
なんでもこの近辺では『水棲生物』を扱う店がじじの店しかなくて、部活で必要な、例えば餌とか水質調整剤とかを色々と買ってるんだって。
「あのおじさん神代さんのお爺ちゃんなんだ! って若いよねあの人」
「そうなんだよあっちゃん。終三さんっていうんだけど、すごい若くてカッコいいよね!」
「お、おぅ……カッコいいかはよくわかんないけど、気さくで面白いよねー」
「部活で使うものだったら、少し割引してもらえるように私、お爺ちゃんに聞いてみるよ? たぶん大丈夫だから」
「!」
マジかマジかああぁぁと轟く大声で叫ぶ羽多野さんに、私もヨーコさんも顔を見合わせて苦笑する。ちらほらと登校してるクラスメイトも笑ってる。
「波多野―」
さんって面白いね、って言おうとする私の口を、彼女は人差し指でピッと塞いでしまう。ヨーコさんにすらされたことのない行動に、つい身を引いてしまう。
「あ。ごめん。私のことはさ、敦美でいいよ。私も永遠ちゃんって呼ぶし」
「そうよ永遠さん。これだけお話ししたんだもの、名前で呼んでもいいんじゃないかな。あっちゃんもそう言ってるし」
私、クラスの子はヨーコさん以外、苗字に『さん』付けで呼んでる。というかそこまで親しい人がいないから仕方ないことなんだけど。
いいのかなぁと少し臆病になった視線を波多野さんに投げると、今か今かと両手をワキワキしてる。横ではヨーコさんがうんうんと頷いてる。
「えっと……敦美……さん」
「うーん、まだ硬いなぁ。クロカタゾウムシくらい硬い! なんなら庸子ちゃんと同じ『あっちゃん』でいいよ!」
「じゃあ……あっ……ちゃん?」
「なんで疑問系? まぁいっか。じゃ、そういうことでよろしく永遠ちゃん!」
なんでもなかったはずの日に、思いがけず『あっちゃん』という、なんだか不思議な女の子と縁を結んだ……んだけど。
クロカタゾウムシって何!?
一昨日は本当に色々ドタバタで大変だったけど、すごく楽しかったな。玲乃さんたちには足を向けて眠れないくらいに感謝だよ。
そんなことを思い起こしながら、鏡の中の私はスタイリングに悪戦苦闘。スマホで撮影したポンパドールの完成形を見本に、ブラシをああでもないこうでもないとこねくり回してみたものの、やっぱりプロの仕上がりには遠く及ばない。
やっとの思いで納得のいく形が出来上がれば、登校時間はすぐそこまで迫っていた。
「永遠、ちょっと後ろがおかしいから直してあげる」
心配そうに背後で様子を窺っていたママは痺れを切らして、シュババッ! と風切り音が鳴りそうな勢いで両手を縦横無尽に動かす。そして瞬く間に見本に勝るとも劣らない形を作り上げた。うーん、やっぱり後ろはもっと練習しないとうまくいかないかぁ。
「もうちょっと練習しないとね。いつも私がやってあげられるわけじゃないし」
「後ろは分かりづらいもん……」
「さぁ、はやく朝食済ませちゃいなさい。遅刻しちゃうわよ?」
ママに背中をぽんと押されてリビングへ追い立てられ、ハムエッグとトースト、牛乳を一気にやっつけ家を飛び出した。
容赦のない夏の日差しを存分に浴びて、今日から少しだけ新しい私の生活が始まる。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「おはようございます」
これは毎日のルーティーンの一つ『特定の誰かに向けない朝の挨拶』である。
普段なら私よりも早くヨーコさんが登校してるから彼女に向けて言うんだけど、今日はどうやら席を外しているようで、通学鞄はあるものの、その姿はない。
職員室かそれともお手洗いかな、なんて彼女の行方を脳内捜索しながら自席へと向かって、そそくさと一時間目の準備にかかる。
「あれ? 神代さん髪の毛切ったんだ。いいねその髪型。色も綺麗じゃん」
不意に話しかけられてその声の主、とはいえすぐ右隣に座るクラスメイトに顔を向ける。
最近はこうやって、少しずつなんだけどクラスメイトに話しかけられることが増えてきてる。これもヨーコさんが手回ししてくれてるおかげだ。手回しというと聞こえが悪いんだけど、ヨーコさんは私と話していると、時折周りにいる誰かに話を振ったりするのだ。
【永遠さんのハンカチかわいいね。ねぇ、〇〇さんもそう思わない?】
【英語なら、私より永遠さんの方が得意だから彼女に聞くといいよ】
こんな感じである。かといってその頻度は多くなく、私も気疲れしなくて済んでいた。それもヨーコさんが考えて調整してくれてるんだろうね。日によってはまったくそういうことをしない日もあるし。本当に彼女は優しくて気遣いのできる女性だ。
ヨーコさんがこの場にいない状態で誰かに話しかけられるのは久しぶりで、狼狽してしまう。いかに私がヨーコさんに頼りきりなのかが思い知らされるよ。
「う、うん。土曜日にヨーコさんのお姉さんの美容室に行ったの。その……似合って……ますか?」
「なんで敬語? うん、すごく似合ってる。神代さん綺麗だもん」
似合うと言われるのは嬉しいけど、綺麗っていう評価に私はどう返したらいいのか。ヨーコさん的に言えば『最適解』なんだけど……。よし、これだ。
「そ、そうかな? ……ありがとう」
と、気合を入れた割には実に差し障りのない無難な言葉で返す。
隣で頬杖をついてニコニコ返答を受ける彼女は『波多野敦美』さん。ポニーテールがよく似合う、少し小麦色の肌をした小柄な女の子だ。まぁ私とヨーコさん以外のクラスの女子は何故かみんな小さいからもれなく小柄なんだけど。
「波多野さんもポニーテール似合ってるよ?」
「そ、そう? これが楽チンだからしてるだけなんだよねぇ」
「そうなの? すごい似合うと思ってたんだよ前から。だって可愛いし、元気な女の子って感じで私は好きだよ?」
「! こ、これが庸子ちゃんのいう『誉め殺し』……破壊力すごっ……ぐはっ」
破壊力って。私そんな物騒な人じゃないんだけどな。というかヨーコさん、波多野さんに私のこと、何て話してるんだろうか。そして彼女は何を吐き出したの?
「永遠さん、あっちゃんおはよう」
聞き慣れた声に振り向くと、ヨーコさんがいつものように素敵な笑顔を携えて声をかけてくれる。
「おはようヨーコさん」
「庸子ちゃんおいっすー」
「永遠さんポンパドール上手にできてるね、可愛い……ってあっちゃん、いつもギリギリに来るのに珍しいね? こんな早くにいるなんて」
そう言われれば確かに波多野さんって始業時間ギリギリに駆け込んでくるイメージしかない。彼女が席につくとほぼ同時に先生が来ちゃうから、ほとんど話す機会も勇気もなかったんだよね。
「いや~、今日は明け方から木の見回りしてたんだよ」
「木の見回り?」
それって何の目的なんだろう? どう頭を捻っても答えの出ない私に、ヨーコさんはあっさりと真実をはじき出す。
「あっちゃんってね、生物部の副部長さんなの。たぶんだけど、カブトムシだよね? で、早起きして探してた……でしょ?」
「正解! カブトムシって買うと高いじゃん。だからさ、近所のクヌギの木を見てきたってわけ。まだ季節的に早いかもだけどさ。で、こんな早く登校って感じ! ってなんで庸子ちゃんわかったん?」
「だって去年の今頃も学校にカブトムシ肩に乗せて来たじゃない? 教室中パニックになったの忘れちゃった?」
「へ、へえぇ……カブトムシ……肩に乗せて……」
カブトムシを明け方から探す女子高生。初めて聞いたよそんなの。
確かにこの近辺は緑も多くて、私もひと夏に数匹、ベランダとか近所の公園でカブトムシを見かけることがある。それをわざわざ捕まえてくるなんて面白い子だね。
「カブトムシだけじゃないよ! この市って川も林もあるし自然が多いから、意外と色々いて楽しいんだよね。去年はなんと! タガメを見つけたんだよ! タガメだよタガメ! 水生昆虫の王様! 知ってる神代さん!?」
鼻を膨らませてタガメを語る女子高生。これも初めてだよ。というかたぶんそんな子、日本で数人くらいなんじゃないのかな?
それはさて置き、タガメ。うん、もちろん知ってるよ。自然にいるのは見たことないけど、じじが数年前に『タイワンタガメ』っていうの、仕入れてきたもん。虫なのにこんな高いの!? って驚いた記憶がある。
「うん、知ってるよ。じじ……お爺ちゃんの店で見たことある」
「? 確か神代さんって第四中学だよね? ということはもしかしてあのおっきいマンションの下にある熱帯魚屋? 何年か前にそこでタイワンタガメ売ってるの見たことあるんだけど」
「そうそう。波多野さん知ってたんだ?」
なんでもこの近辺では『水棲生物』を扱う店がじじの店しかなくて、部活で必要な、例えば餌とか水質調整剤とかを色々と買ってるんだって。
「あのおじさん神代さんのお爺ちゃんなんだ! って若いよねあの人」
「そうなんだよあっちゃん。終三さんっていうんだけど、すごい若くてカッコいいよね!」
「お、おぅ……カッコいいかはよくわかんないけど、気さくで面白いよねー」
「部活で使うものだったら、少し割引してもらえるように私、お爺ちゃんに聞いてみるよ? たぶん大丈夫だから」
「!」
マジかマジかああぁぁと轟く大声で叫ぶ羽多野さんに、私もヨーコさんも顔を見合わせて苦笑する。ちらほらと登校してるクラスメイトも笑ってる。
「波多野―」
さんって面白いね、って言おうとする私の口を、彼女は人差し指でピッと塞いでしまう。ヨーコさんにすらされたことのない行動に、つい身を引いてしまう。
「あ。ごめん。私のことはさ、敦美でいいよ。私も永遠ちゃんって呼ぶし」
「そうよ永遠さん。これだけお話ししたんだもの、名前で呼んでもいいんじゃないかな。あっちゃんもそう言ってるし」
私、クラスの子はヨーコさん以外、苗字に『さん』付けで呼んでる。というかそこまで親しい人がいないから仕方ないことなんだけど。
いいのかなぁと少し臆病になった視線を波多野さんに投げると、今か今かと両手をワキワキしてる。横ではヨーコさんがうんうんと頷いてる。
「えっと……敦美……さん」
「うーん、まだ硬いなぁ。クロカタゾウムシくらい硬い! なんなら庸子ちゃんと同じ『あっちゃん』でいいよ!」
「じゃあ……あっ……ちゃん?」
「なんで疑問系? まぁいっか。じゃ、そういうことでよろしく永遠ちゃん!」
なんでもなかったはずの日に、思いがけず『あっちゃん』という、なんだか不思議な女の子と縁を結んだ……んだけど。
クロカタゾウムシって何!?
応援ありがとうございます!
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