恭介&圭吾シリーズ

芹澤柚衣

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アンアームド・エンジェルの失言

11.

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「だから! 話のわからねェおっさんだな! とっとと元に戻れって言ってんだよ!」
 可憐な少女と並んでもまるで遜色のない華やかな相貌を惜しみ無く歪ませて、借金の取り立てでももう少し穏やかに振る舞うのではないかというくらいの怒声を一之進が響かせた。一歩下がって仲介役の仕事ぶりをおとなしく傍観していた犬神だったが、徐々に不安の方が大きくなり傍らに佇む白虎に声を掛ける。
〝なぁ……説得するって、主にどういう行為を指すんだっけな……〟
 人間界に存在してそれなりに長い犬神が認識している説得という行為はこのように胸ぐらを掴んで罵声を浴びせるようなものではなかったように思えたが、自らブローカー役を買って出た当の本人は何の違和も感じていないようだった。
〝私が代わろう〟
〝頼むわ白虎……〟
 頼り甲斐のある凛とした声にホッと胸を撫で下ろし、犬神は現状の収拾を虎霊に委任した。
〝これ以上反抗するのであれば力に訴えてでも強行するということをしかと伝えてくる〟
〝待て待て待て待て多分だがお前も説得という行為をいまひとつ理解していない気がするわ〟
「犬神さん」
 慌てて渡したばかりの委任状を奪い返すべく畳み掛けた犬神を、安定感のあるテノールがやんわりと引き留めた。
〝圭吾!〟
 声の主を確かめるまでもない。このグループ内で一番と言ってもいい程、冷静なブレーン兼暴走し始めた白虎のマスターだ。少なくとも現時点では、この暴徒と化しつつある虎を抑え込むことができるのは彼しかいない。白虎の首裏に噛みついて、供え物か何かのように圭吾の前に振り落とす。しなやかな猫の如く見事着地した白虎に軽く睨まれたが、犬神にとってそんなことは最早些事だった。
〝助かった……お前からもこいつらに何か言ってやってくれ〟
「時間がないのは事実なので多少は力にものを言わせて正解かと」
〝好戦的なやつしかいねーのかこの集団は!?〟
 完全に自分の味方は自分一人だけだと悟り、ついに犬神は虚空に吠えた。
〝……私は〟
 人間二人、物の怪二匹に囲まれた渦中の人物が、ふいに口を開く。丸太と等しい程太い腕には、隆々とした血管が浮き上がっていた。逆立つ黒い髪は鬣のようにうねっており、その荒々しい顔つきには、百獣の王をも思わせる迫力がある。けれどそれは粗野なものではなく、玉座に座る一国の主のように、覇気に満ちたオーラによる神々しさだった。
 それほど勇ましい外見に恵まれた彼が、何故か逃げ口上ひとつ口にせず、ただ一之進の責め苦を受け止めている。裁判の前に有罪判決がほぼ確定している法廷に立つ被疑者のように、一之進の言葉が途切れたタイミングで高貴なその霊は自身の非を淡々と述べた。
〝言い訳は、致しますまい……私は、拓真様をお守りできなかった。一体どの面を下げて元の形になど戻れようか〟
 陳述を終えた元守護霊は、誰とも視線を合わせずに俯いた。力なく項垂れる大きな背中は、己の非を背負うように侘しく丸まっている。
「……強い悪霊にとりつかれたら最後、悪霊の言うとおりにしか動けなくる守護霊もいると聞く。あんたはそんな中でもちゃんと抵抗して、必死に守っていたじゃねーか」
〝だが……〟
「そもそもおっさんの主人が怪異に傾いちまったのは、殆どが本人の責任だろ。あんたはできる限りのことを努めていたよ」
 相手の反論に被せるように、一之進が言い切った。この図体ばかり無駄に大きなお武家様の、フォローをするつもりなど一切ない。ただご丁寧にファクターを探るまでもなく、誰に要因があったのか、どの瞬間にバランスが傾いたのかは、火を見るよりも明らかだった。
「仮に、今回の件がおっさんの不手際による失態だったとしても、自分の不始末を挽回することもなく、尻尾巻いて逃げ去ることがあんたの思う忠義なのか」
 追撃のように重ねて問えば、元守護霊は惑うように顔をあげた。
「今のまんま霊門を潜っちまっても、できることは全部やったって、どっかの誰かに胸張って言えんのか」
 逃げは許さないとばかりに、一之進が間髪いれずに問い質す。凶猛とも言える程の力で守護を担っていたその先祖霊は、ただ静かに拳を握るだけだった。
「……それとも、あの悪霊を単にだという言葉で片付けてしまえない感情が、あんたの中にあんのか」
 ピクリと猛々しい眉を動かして、武家の霊に刹那緊張が走った。
〝どういう意味だ?〟
「……いや、悪かった。単なる俺の邪推だよ」
 答えをはぐらかすように、一之進は矛先を収めた。今突き詰めるべき問題ではないと、彼は一人で結論を出す。
「とにかく! おっさんの個人的感情は別にしても、俺ァ自分の大事な子孫が、悪霊の思う壺になっちまってんのが気に入らねぇ。俺はちっさい頃からよ、喧嘩と商品を売られたら倍にして返すついでに何か売ってこいって言われてんだ」
〝最後の方はちょっと何言ってんのかよくわかんねェが、いち君の言うとおりだ〟
「いち君言うな」
 反論しそびれた鳴海にならともかくそれ以外にまで当たり前のようにその名で呼ばれるのは耐え難く、一之進はすぐさま突っ込んだ。
〝あんたが気ィ進まねェんなら、守護霊に戻る戻らないはこの際置いといてくれてもいい。だが一旦、現世には戻ってくれないか? この先のことはともかく、今まさにこの瞬間あんたの主が困ってるんだ。最後の恩義で寄り添ってやってくれよ〟
 犬神の説得は一之進には甘過ぎるぐらいだったが、この先の問題をどうにかしようとするのであれば、今目の前に迫る危機を回避するしか方法はない。二者択一のうちのひとつをただ傍に戻るという項目に変えた犬神の折衷案は、控えめながらも元守護霊の心に届いたようだった。
〝……そうだな。私にはまだ果たすべき役目があった〟
 少しだけ顔色を明るくした武家の霊は、そう一言返し漸く顔をあげる。まだ迷いはあったが、ひとつの覚悟を決めた潔さがそこにはあった。
「そうこなくっちゃ! じゃあ一旦……」
 一之進が場を纏めようとした途端、全身を突き上げるような風が吹いた。モンスーンにも似た暴風に、反射で圭吾は目を細める。
〝な、何だ……!?〟
「風が……強くなってる……!」
 白虎に答えるように、一之進が叫んだ。
「霊門が開くぞ! 吸い込まれたらもう二度と出られねェ……!」
 風圧に押し負けながらも、目を凝らしながら白虎が辺りを探る。
〝――あっちだ!〟
 視界の隅に、確かにそれはあった。
〝渦の境目に、黒く鈍った光がある。あそこが霊道だ! 突っ込め!〟
「突っ込めったって、この風の強さじゃあ……」
 虎霊の指示に易々と頷くには無理のありすぎる強風に、気圧されるように一之進が泣き言を零す。
〝俺に任せろ!〟
 犬神が、力強く吠えた。
「犬神さん……!」
「え、何これどういう状況?」
 戸惑う圭吾と一之進が、強い光に包まれる。一瞬目を閉じてから顔をあげれば、オーロラのような空気に囲まれていた。
〝全員結界でコーティングした! おっさん、霊道まで鬼道を作れるか?〟
〝承った〟
「げ……マジかよ」
「何が起きてるんですか?」
 一人視えるものの範囲も狭く、こうした事情に疎い圭吾が、とうとうついていけなくなり一之進に尋ねる。
「えーと、このワンちゃんが」
〝ワンちゃん言うな〟
「俺ら全部を囲うサイズのでっけェ結界を張って、これから向かう霊道までのルートに邪魔が入んねェよう、おっさんが道をつなげてくれてんだよ」
〝おっさん言うな〟
「いやおっさんは言っていいだろ」
 どの角度から見てもまごうことなきおっさんである元守護霊の軽口に、噛みつくように一之進が突っ込んだ。
「ったく、お武家様もさァ……こんだけの霊力持ってんなら、愚図ってねーですんなり戻ってくれりゃあいいのに……」
 ちらりと、圭吾は一之進を盗み見る。恨み言のように愚痴を溢す彼の顔からは、言葉程のマイナス感情は伺えなかった。途中経過はどうあれ、一度は頓挫しかけた先祖霊の説得も無事終わり、全員無傷で帰路へとつなげることができたのだ。根本的な問題はまだ解決していないけれど、少なくとも当座の目標はすべて達成したと言ってもいい。
 付け焼い刃のチームにしては、十分な成果だと思えた。
「……僕は」
 こんなタイミングで、口にしてもいいだろうか。僅かな迷いが、圭吾の唇に走る。浮かんだそれは、まるで宴の最中に水を差すような、鼻白む発言だった。一度は飲み込もうとして、けれどどうしても止められなかった。
「今、何の役にも立ってない……ですよね」
 溢れてしまった言葉は、犬神の力によって守られた空間の中に溶けていった。
「さっきも言ったが、人には向き不向きってもんがある。犬神は恭介を、白虎は圭吾をマスターに盟約交わしてんだろ」
 西洋人形のように綺麗にカールした睫毛を僅かに伏せて、一之進が先に事実確認をする。
「はい……」
「俺は前にも、盟約で物の怪と繋がってる人間を見たことがある。あんたら程、お互いを思い合った仲間って感じじゃなかったけどな」
「……」
 思い合っているなどと、言われてもいいのだろうか。犬神と恭介は、確かにそうかもしれない。だけど自分は? 重ねてきた年月はおろか、盟約相手とのコミュニケーションだって、未だ手探りのままなのに? そもそも白虎の力を存分に生かしてやるなんて最低限のことさえできていないのに、恭介たちと対等な関係のように言われるのは居たたまれなかった。
「盟約ってのは、交わす時に強く願った思いが、そのまま力に反映されることが多いと聞いたことがある。犬神の結界が妙に強いのも、締結の瞬間に願った『マスターを守りたい』っつう強い思いが、根本に生きてるからだろ」
〝……別に、そんなことねェけどよ〟
 少しぶっきらぼうな声で、犬神が口を挟んだ。
「おっ、何だァ? 照れ臭いのか?」
 大きな衝撃と共に、圭吾はゆっくりと一之進の言葉を反芻していた。揶揄うように犬神を茶化す彼の声が、一枚壁を隔てた先にあると思える程の強い孤独と不安が、圭吾の足元を崩してゆくのがわかる。
「……僕は、そうじゃなかった、と、言うんですか……?」
 まるっきり、綺麗な感情のみで動いたとは思わない。白虎と盟約を交わした瞬間は、確かに敵を倒すための計算も、自身の欲望を満たすための打算も、そして僅かな見返りを期待する感情さえ存在していた自覚はある。
 けれど、恭介のことを守りたいという感情の欠片がほんの少しも根本にないのだと言われてしまっては、圭吾はいよいよもって自分の立ち位置がわからなくなった。
「んー……というか」
 否定ではなく意味深な接続詞で言葉を切った一之進が、少し考えた後に改めて続きを口にした。
願ったことが、他にあったんじゃないか?」
 圭吾の目が、僅かに見開いた。自分自身、考えも及ばなかった結論だった。
「思い出せ。お前の能力にブレーキを掛けてンのは多分それが原因だ。何を強く願っていたかを自覚できれば、よりうまく力を使いこなすことができるさ」

 ――ああ。本当に、そんなことが真実であったなら。
 これ程酷な結論を、出さなくて済んだのかもしれないのに。

〝霊道に届くぞ。全員歯を食いしばれ〟
 犬神の忠告が、ワンテンポ遅れて耳に届く。喉を焼くような強い感情を飲み込んで、圭吾はどうにか顔をあけだ。
「は? ……歯? 何で?」
 一之進が目をパチパチさせながら単語をそのまま復唱し、けれどやはり意味がわからずに投げ返す。犬神から返事を貰う前に、圭吾の放った自称呪具師の札が霊道に溶けた。あ、と思う間もなく突如、吸い込まれるようにして霊道へと全員が落下する。
「何だこれすっげぇ悪酔いするんだけど!? もうちょっとマシな速度にできねェのかよ!?」
〝烏丸は腕はあるが、こういうところは大雑把なんだよなァ……実際に体感して不快に思うスピードかどうかは、体感したことがないから頓着がねェんだ〟
「今度頓着するように言っといてくれねェ!?」
 世間話のように片付けられるには聊か乱暴すぎるスピード感に歯を剥いて、一之進が速急な改善策を用意するよう申し立てた。霊道を進んでいると言うより、最早ビルの屋上から地面に落ちているような体感に近い。戻しそうになり口許を抑えながら、一之進はぼそりと口にした。
「にしても、たいした師匠だよなぁ……まだ力の使い方も把握してないようなガキごと、霊門近くにぶちこむなんてよ」
 恨み言のようになってしまったのは、ポーズではなく殆ど本心だった。すべてにおいてどうにか結果オーライだったから良かったようなものの、下手をしたら誰かの命がどうにかなっていたかもしれない。こんな生死の境目さえあやふやなところに不馴れな人間を派遣させるなど、一之進にしてみたら浅慮以外のなにものでもなかった。
〝……こっちにいた方が、安全ってことだろ〟
 犬神が、予想外なことを言う。一之進は、大袈裟に呆れてみせた。
「この世とあの世の狭間だぜ? ここより危険な場所なんかねーだろ」
〝だといいんだがな……〟
 誰に言うでもなく呟いて、犬神が押し黙る。駄弁を楽しめるような環境ではなかったので、つられて一之進も口を閉ざした。
 ――死ぬなよ、烏丸。
 犬神がそう言ったような気がしたが、それもすぐに大きな濁流へと飲み込まれていった。

 やばい死ぬかも、と烏丸は思っていた。
 翳した左手に、二重に数珠を巻き付けて強化を図る。在庫だけで言えばお札も護符も潤沢にあったが、それらすべてを使いこなす前に体力の方が先に底を尽きそうだった。
 嫌な予感はしていた。それは甘え下手の愛弟子が、珍しく烏丸の裾を摘まんで引っ張ってきた瞬間だったかもしれないし、殊勝の上に殊勝を被せてもまだ足りない程の遠慮しいな彼が、普段は言わないようなお願い事を口にした瞬間だったとも言える。決定的なのは、許可もなく割り込んだ神楽の間で遭遇した悪霊に、仕掛けた九字切りの手応えのなさだった。おとなしくなった振りをしたように伺い見えた悪霊には、実際に暫くは動けない程度の効果があったのかもしれないが、このまま縛り付けることのできる時間は、もって一時間だと経験則から唐突に悟った。
 そこからの、烏丸の逆算は早かった。頭が追い付いていない恭介の友人と思われる二名に早急に事情を説明し、解決策を唱え、その足で素早く依頼人の許可を取り、したり顔で配下に付けた彼らに護符を与え自ら指揮を執った。それらはすべて間違いなく現状で選べる方法の中で、烏丸のみが知る一時間というタイムリミットに間に合わせるための最善策と言えたが、同時に粗の目立つ乱暴なやり方でもあった。役割分担をしようなどと言いながら、その癖配置された人員に大きく偏りがあることを犬神あたりは見抜いていたかもしれない。
 正直、圭吾を連れて霊門に向かったところで役立たずで終わることはわかりきっていたが、彼に関してのその指示は殆どに近かった。冥界の入り口だろうが、あの世とこの世の狭間だろうが、肉体という鎧さえ持っていて、彼程度の霊能力であれば、いつ悪霊が暴れだすともしれないここよりずっと安全地帯に違いなかった。
 勿論、彼以外の人選に関しては不安要素はあった。今回の指令で最も重要な役割を与えてしまった、城脇鳴海のことだ。すべての霊が視えるなどと恐ろしいことを嘯いた彼の言葉が事実であれば、あのような世界に足を踏み入れるなど殆どが自殺行為だ。ただ今回は、仲介役にと一之進を同伴させている。守護霊代役の候補とあって、彼の霊力は及第点以上だった。等しく、判断力や指揮を執る能力も秀でており、何よりパワーバランスがいい。加えて、鳴海に名前を聞かれて素直に答えてしまう程度にはお人好しなことも確認済みだ。いざという時は、彼が危機からの撤退、或いは回避を図ってくれるだろうことは予測ができた。それでも守りきれない場面が仮にあったとしても、犬神の結界がうまくフォローしてくれるだろう。
 もともとギリギリの能力を頭数だけ揃えたようなパーティーに帰りの切符を一枚だけしか渡さなかったのは、半分が賭けだった。どうしても儘ならない事態になれば、指令の実行を中断するという判断を犬神が下してくれるだろうし、或いは――そのように追い込まれた状況下で、現時点では毒にも薬にもならない圭吾が、力の使い方を学んでくれるようなことがあれば御の字だった。
(こんなやり方をしたなんてばれたら、恭介に嫌われちゃうな……)
 少なくとも今回のような危機的状況において、荒療治のような指令は本来であれば下すべきではなかった。冷静さを欠いていた自覚はある。昏倒したまま動かなくなった恭介を目の前にして、烏丸自身ある程度動揺していたのかもしれない。
 バチ、と電気の爆ぜるような音が聞こえた。霊力の放つパワーは、殆どプラズマに近い。押し返される左手に力を込めて、烏丸は右足でカートを蹴りあげた。はずみで跳ね上がった経文を利き手で掴み、蛇腹のそれを、床に投げるようにして広げる。
(そろそろ、一時間だ)
 恭介を見限ったと、圭吾を詰った犬神を思い出す。烏丸はその時、初めて紫野岡圭吾という男を信頼してみようと思った。犬神があれだけ声を荒げ、一方的に突き飛ばすような暴挙に出る程彼のした何かしらの裏切り行為が許しがたいのだとしたら、逆説的に考えれば、圭吾はそれだけ心を預けることのできる存在だったと言うことだ。
 恭介から、圭吾と鳴海の名前だけは聞いていた。あの子が嬉しそうに呼ぶその名に、おとなげなくも少し嫉妬したことさえあるくらいだ。彼が珍しく下の名前で誰かを呼んだり、もう一人にはだなんて渾名を付けて、その名詞を口にする度に、本当に幸せそうに笑うのだ。
 恭介の師匠を名乗り、この神社に足を運ぶようになって七年。懐かなかった捨て猫が、手土産で持ってくる大判焼きに遠慮しいしい齧りだしたのは一年経ってからだった。ふとした瞬間のうたた寝でさえ、傾いた頭をその肩に預けてくれるようになるまで三年はかかった。そんなもどかしい程に奥ゆかしい愛弟子が、背に隠してまで守ろうとした友人と、温厚な犬神が本気で喧嘩できる程に、信頼を寄せていた少年。そんな二人だから、預けてみようと烏丸は思った――だからこそ鳴海に託し、圭吾に賭けた。
 新しい札を取り、追撃の手を緩めないまま、目だけで経文の文字を辿り祝詞を唱える。
(焦るな。間違うな。もうじき、帰ってくる)
 精神を統一して文字の続きを読み上げようとした瞬間、烏丸の左腕にありえない程の負荷が掛かった。咄嗟に片膝をついて、体重を支える。左目を細めて、烏丸は舌打ちをしたい気持ちを堪えた。
(一時間、もたなかったか)
〝烏丸ァ!!〟
 大きな声が、神楽の間に響いた。こめかみを伝う汗を拭うことさえ忘れ、烏丸は天を仰ぐ。古びた神社の骨組みと、金の装飾がところどころ剥げている天蓋。常識で考えればありえない話だったが、その更に上からその声は降り落ちてきた。
「来たか……」
 体から一切の力を抜いて、烏丸は後ろに大の字になって倒れた。
 その背中が畳に付くのと、呪縛の解けた悪霊の刃が烏丸に向かうのと、その前に結界を身に纏った犬神が着地したのがほぼ同時だった。
〝生きてるか、烏丸〟
 目視でそれなりに無事であることを確認しただろうに、改めて口で言わせたいらしい。
 生きてるだとか、師匠と呼びなさいだとか、色んな候補が喉元まで上がってきたが、結局どれも言葉にせずに烏丸はただ一言を絞り出した。
「遅いよ……」
 我ながら、へとへとに疲れきった声だと烏丸は思った。
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