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アンアームド・エンジェルの失言
14.
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初めに感じたのは喉の渇きだった。運動直後の脱水症状ではなく、味の濃いものを食べてしまった後のような感覚に近いかもしれない。喉にそれなりの水分はあるのに、唾よりも濃度が高い液体が、食道の入り口に揺蕩っている感じ。
起き上がって台所まで足を運べば、圭吾がちくちく嫌味を言いながらも沸かしてくれた麦茶が冷蔵庫に冷えていたはずだけれど。思い浮かべたように実際体を動かすには、全身がだるかった。晩御飯を抜いて寝てしまった後に迎えた朝のような、極端な低血圧にも似た頭の重さ。実体験のある事例を思い浮かべてみて、ため息をひとつ。どの感覚に一番近いかの正解がわかったところで、この倦怠感が拭える訳じゃないのに。
動かすのが面倒じゃない眼球を動かしてみる。視界の端に、見慣れた動物霊がらしくもなく鎮座ましましているのが映った。普段なら、憎まれ口のひとつどころか七つ八つは口をついて出ていただろうそのタイミングで真っ先に頭を撫でたい衝動に駆られたのは、少なからず心細かったからなのかもしれない。決して柔らかくはないし、お世辞にも指通りが良いとは言えないけれど、恭介はその頭に触れることが存外好きだった。
(……?)
その時、漸く違和感に気づく。間違いなく持ち上げる指令を脳から出したであろうその手が、ピクリとも動かなかった。痛みはない。骨折や怪我が原因ではないのは一目瞭然だ。判然としない意識の中、原因を辿ろうと今更稼働音を立てて頭を働かし始めた瞬間、シンプルな一言が落とされる。
「左腕なら動かんぞ」
声は知っていた。忌み嫌われている自分のような子供の頭を平然と撫で、甘ったるい声でその名を呼び、闇の底から掬うように容易く抱き上げてくれる人。けれどその声にはいつものような聞きなれた甘さなどはなく、故にそれが自分の師の一言だとは俄には信じがたかった。
首を右に傾けて、伺うように見上げる。やに下がった笑顔を見慣れている分、無表情の烏丸はまるで知らない人みたいだった。切れ長な眦と、筋の通った高い鼻。その下に続く、一文字の薄い唇。砕けた表情がその上に載らないだけで、いっそケミカルに近い無機質ささえ感じて戸惑ってしまう。
「体から、魂が長い間抜け過ぎたんだ。ただでさえ不安定な魂の状態で、九尾にとり憑かせるなんて無茶な真似したな。九尾の呪いが、左腕だけ抜けきっていない。心臓のみならず、魂までくれてやるつもりか?」
突き放すように告げられた事実に、衝撃がなかった訳じゃない。けれど幼少期に大事にされなかったこの体から、改めて機能しなくなった部位があることを知らされても、別段嘆くような気持ちは生まれなかった。加えて、十の頃交わした心臓を奪われるという契約によって受けた絶望の大きさが、今更自身の体の一部を奪われることへの、痛みや恐怖を鈍くさせていた。
「……動かないのは、一生?」
ふいに口をついたその質問には、哀訴感すらなかった。仮にその通りだと答えても、今の恭介に絶望を与えることさえ叶わないだろう、頓着のない声。その事実が、僅かに烏丸の胸を軋ませる。この子供は昔から、諦めるということがとても上手かった。
「絶対に、俺が元に戻してやる」
こんなふうに絶対などと、容易く口にする人間は嫌いだった。けれど例えそれがブラフでも、大人が交わした確かな約束として、ただ目の前に横たわるこの子に届けたかった。絶望を絶望とも感じられなくなったせいで、希望を抱くことがとても下手なその子供は――困ったように笑うだけだったけれど。
「……とにかく、俺が指示を出すまでは絶対に九尾を呼ぶな。今のお前は九尾と繋がり過ぎているんだ。使役したら最後、生命エネルギーの全てを持っていかれるぞ」
言い置いて、早々に烏丸が立ち上がる。にべもない口調で業務報告のように話されるのはいっそ初めてな程慣れていなくて、戸惑うように恭介は半身を起こした。
けれど引き止めるべき、ベターな言葉が見当たらない。
「師匠、怒ってる……?」
寄る辺ない子供の、ご機嫌を伺うような声。
「……いいから、今はゆっくり休め。その間に、自分のやり方が本当に正しかったか、もう一度よく考えろ」
否定も肯定もしてくれない冷たい声が、静かに恭介を叱った。その怒りは、犬神や圭吾が、ときどき自分に与えてくれるそれにとても良く似ていた。愛情が底にあるような怒られ方には、未だ戸惑いの方が大きい。
――けれどもう、憧れていたその愛情は、まるで手の届かない、知らないものじゃなかった。
動く方の手で布団を引き上げて、恭介は顔を隠した。
声をあげて、泣きたいような気持ちだった。
〝圭吾に……剣を持たせちまったな〟
犬神が、しゃがれた声で小さく溢す。再び寝入ってしまった恭介を起こさないよう襖を閉めて、縁側に移動した一人と一匹は、横並びで座り込んで、取り立てて見どころのない平々凡々な庭を眺めていた。
「俺に従ったこと、後悔してるのか?」
恬然とした口調で、烏丸がおどけてみせた。大袈裟に肩を竦めた弾みで、くゆらせていた煙草の煙が揺れる。恭介に関わるようになってから止めていたそれを、ときどき彼はこんなふうに嗜んでいた。足の抜けきらないヘビースモーカーの衝動で口に咥えるというより、心身ともに多大なストレスを感じただろうタイミングで、こうして思い出したように吸っているさまを何度か見掛けたことがある。
弄ぶように掌に載せたキャメルから、二本目を取り出そうとしないのがその証拠。今彼が欲しているのはニコチンではなく、疲れた体に日常を呼び起こしてくれる、ほんの僅かな煙の方だったらしい。
〝……お前を責めてる訳じゃない〟
やんわりと、否定しておきたかったところだけを先んじて答える。この胸を巣食う罪悪感が誰のせいでもないということだけは、犬神も重々承知していた。
「圭吾は、武器の形がわからないから戸惑っていた。自分が立っているところさえ、見失うくらいにね」
所在地が唇だった煙草を指で挟んで避難させ、烏丸は大きく息を吐く。吐き出された煙は、ほんのり甘い香りがした。
「知らされないままでは、できないこともあるよ。例えば……ナイフを持った子供がいたとして、それが刃物だと伝えないで、どうやってその危険性を知らしめるんだ? 周りの人間はともかく、本人にも一切の傷をつけないために、それは武器になり得ると本人にさえ教えずにどうやって?」
〝……〟
「……お前は優しすぎるよ。犬神」
答えられない犬神を糾弾することはせず、役目を終えた元司令塔は、目を伏せて煙草を口に戻す。
「俺だって、今回に限って言えば、正しいことをしたなんて思ってない。けれど圭吾は、どこかのタイミングで力の使い方を知るべきだった。結果、見事に恭介の命を助けたじゃあないか。勿論、圭吾が自身の能力に目覚めなくても、誰かがどうにかしたかもしれないけど……そんなのはシュレディンガーの猫だから、ここで議論しても仕方ない」
この男は、気まぐれの煙草による紫煙さえ、愛弟子に欠片も浴びさせないことを徹底していた。そんな彼だったから、命を救う代わりに周りが戸惑うような方法をあっさり選んだ圭吾が最終的に手に入れたその力を、なかった方が良かったとは決して言わないのだ。
「心配しなくても、圭吾の剣は守るための武器だ。具体的に、誰かを刺し殺すための凶器にはならないよ……今のところはね」
〝今のところ……か〟
念押しのように付け足された一言に不安がない訳ではなかったが、烏丸の言いたいこともわかる。
信じるしかないのだ。その先にある判然としない何かを畏れて彼から手段を取り上げるだなんて――犬神にそのような権利はなかったし、烏丸の言うようにナンセンスだ、とも思う。
「そうならないよう見守ってやるのは、大人の仕事だ。そういう煩わしさを避けるために、いつまでも何も知らされないままじゃ、本当にどこへも行けなくなっちゃうだろ」
緩く笑って、烏丸が犬神の背中を叩く。どうにも自分が情けなくなり、犬神は重すぎるため息をついた。
〝やっぱり、俺は過保護すぎるな……〟
「一之進あたりに、何か言われたのか?」
〝いや……〟
ニヤニヤとからかってくる悪い男にその相手を訂正することはやめ、とりあえず一之進に濡れ衣を着せることにした。背中から感じる鉛のような疲労感が、些細な訂正さえ億劫に感じさせるのだ。
「恭介のこと、よろしく頼むな。最低でも二週間は、絶対に九尾を使わせるな」
この男がこう言うからには、二週間で完治させる目処が立っているのだろう。ならば自分の役目は分かりやすく、見張りと警備の二種類だ。本音を言えば溺愛する恭介に四六時中張り付いていたいだろうに、その役目をそれでも他者に任せなければならないのだから、大人は大変だなと改めて思う。
カタン、と小さくぶつかる音が聞こえた。犬神と烏丸が顔を見合わせて同時に振り返ると、その先に立っていたのは拓真だった。起きたその足で、すぐ自分達を探したのだろう。さらさらの髪は、よく見ないと気がつかない程度には乱れていた。
犬神と烏丸は走らせた警戒心を同時に解き、居住まいを正す。結局何口も吸わずに終わった煙草を未練なく携帯灰皿に押し当てて、烏丸は営業用の微笑みを浮かべた。
「ごめんね、起きてたのに気づけなくて。ほったらかしにしてしまったかな?」
「私の方こそ、お話し中にすみません……あの、どうしても、今日のことお礼が言いたくて」
烏丸の理由のない微笑みは、プレッシャーだったよう。慌てて結果として盗み聞きをしてしまった現状を言い訳のように捲し立て、拓真は叱られる前の子供のような顔で俯いた。
「あなた方が関わってくださらなかったら、私はずっと……兄の痛みに、気づかないふりをしていたと思います」
ただ愛しかった日々の中で、一体何度兄を傷つけただろう。残酷な程に無邪気だった拓真は、兄の小さなSOSでさえ、見ないふりをしてやり過ごしていたのだと改めて恥じる。
「私たち兄弟を助けてくださり……本当にありがとうございました」
深々と頭を下げながら、拓真は感謝の辞を述べた。耳に残る自身の音楽は、これからも奏でていくつもりだ。容易く踏み潰してしまった、測りきれない程の――兄の才を、遥か先に目指しながら。
「……送っていこう」
組んでいた足を直して、烏丸が縁側に降り立つ。携帯灰皿を内ポケットに仕舞って、一本弱の喫煙を証拠隠滅。愛弟子は嫌煙家ではないが、未だに隠れて吸っているという情けない事実を露呈させたくはない。師匠の健康が心配だからなんて可愛い理由でなら、いくらでも説教されたいけれど。
「犬神」
ついでのように名を呼び、やる気のない手の振り方で軽く挨拶をされた。「行け」とも「来い」とも「バイバイ」ともとれる雑な手の動きからは何にも察せられなかったそのジェスチャーの意味は、続く言葉によってどうにか解説を付けられる。
「恭介はひとまず心配ないから、とにかく体を休めろ。間違いなく疲れてるよ、俺も、お前も。今は大事なことを考えて、結論を出せるような脳みそじゃない」
未だ形の定まらない犬神の右前足を見咎めて、端的なアドバイス。回復にここまで時間が掛かったのは初めてだったので、言われるままに、縁側に寝転んで暫しの休息を取る。
外はもう、夜の帳が下り始めていた。
二度目の覚醒は、ひどく頭がすっきりとしていた。
動かない左手はそのままだったけれど、思考は常態とほぼ変わりなかった。さっきは容易く諦めてしまったが、今度こそ台所に麦茶を取りに行こうか。右手でグーとパーを交互に作り、しっかりと動くことを確認。体の疲れは依然としてとれないままだったが、この部屋と台所の往復くらいはどうにかこなせそうだ。
のっそりと体を起こして、無意識に犬神を探す。台所まで運んでもらえないかお伺いを立てようと、さっきまで彼がいた場所をちらりと再確認。そこには図体ばかりでかい従順な動物霊はおらず、代わりに八面玲瓏な二個下の部下が綺麗な姿勢で正座していた。
「し、しの……!?」
途端に跳ね起きて、慌ててぼさぼさの髪を撫で付ける。少し乱れていた浴衣の襟を直してから、まるで乙女のようなリアクションをとってしまったことが恥ずかしくなった。まさか自分の恋心まで筒抜けになっているとはよもや思わないけれど、こんなに態度に出るようでは、いつばれてしまってもおかしくはない。
久しぶりに圭吾の顔を見て簡単に心臓は弾んだが、それよりも先に今、上司として主張しなければならないことがあった。こほん、と切り替えるために、咳払いをひとつ。落ち着かない心拍数を宥めるために右手で胸を抑えながら、嗜めるような声を意識して説教モードにスイッチを入れた。
「……俺、怒ってるんだからな」
「奇遇ですね、僕もですよ」
凡そ雇用主から怒っていると宣言された部下の第一声とは思えない一言を切り返され、恭介はがっくりと項垂れる。イニシアチブを容易く奪い取ったその男は、悪びれもなくため息をついてみせた。
「何でお前が怒るんだよ……」
「逆に聞きますけど、あれだけの馬鹿をやっておいて、どうして怒られないと思うんです?」
「馬鹿って、お前ね」
「あんたは、死ぬかもしれなかった」
強い声に、思わず返す言葉を失ってしまう。まるで冷静に見えた圭吾だったが、声に込められた怯むくらいの熱量に心臓が早鐘を打つ。その声音には、反論の余地を根こそぎ奪うくらいの凄みさえ感じられた。
「今回は……たまたまその場に立ち会った烏丸さん達がいて、相応の力を綰ねることができたから、どうにかなっただけでしょう? いつもそれで済むとは限らない。あんなやり方は、二度としないと約束していただけますか」
抑え込むような言い方に、思わずカッと頭に血がのぼる。恭介がそうした行動に出なければならなかった切っ掛けを思えば、一方的に叱りつけられるのには納得がいかなかった。
「そもそもお前が……っ!」
反論するために開いた口の中に、容赦なく二本指が捩じ込まれた。まさかと思う仕打ちに頭が追い付かず、咄嗟に距離をとる。突かれた粘膜はじんじんと熱を帯び、恭介は口を押さえてただ痛みに耐えた。
「あ、口内炎まだ治ってなかったんですね」
「どうしてお前は欠片も躊躇することなく説教中の上司の口内に指を突っ込むことができてあまつさえピンポイントで見事口内炎を探り当てそこを重点的に抉れるんだよ」
指先に付着した血液を無感動に眺めてよくわからないコメントを残した後輩に、とりあえず出血理由をやんわりと伝えることだけが恭介にはせいぜいだった。
生理的な涙を浮かべて睨み付けるように振り返ると、圭吾と目が合う。何かを言いたげに口許を歪めた彼は、思っていたよりも無防備な顔でこちらを覗き込んできた。
さらりと、頬を撫でられる。泣きたくなる程優しいその仕草に、誘われるように視線をあげた、瞬間。
――唇を奪われた。
現実に頭が追い付かなくて、呼吸さえ止まってしまう。間髪いれずに舌が捩じ込まれ、奥の奥まで探るように犯される。震える指で圭吾の胸元を押し返すけれど、笑ってしまうくらい力が入らない――呪いに蝕まれた左手、じゃないのに。
すべてを暴かれてしまいそうで怖くなった。舌の裏側をなぞられて、思わず頭の芯が痺れる。飲み込まされた唾液がどちらのものかわからなくなり、一瞬鼻を抜ける血液の臭いさえ、まるで麻薬だった。
小さな音を立てて、何もかもを暴いた唇が離れる。ぼんやりとする視界に映る圭吾は、どこまでも甘く優しい声で、ただ一言を恭介に告げた。
「クビにしてください。僕は、あんたのことを裏切った」
恭介が、僅かに目を見開いた。力の入らない手を伸ばしても、立ち去る圭吾の袖に今一歩届かない。あっさりと自分に背を向けて、圭吾は出て行ってしまった。まるで――あの時と同じ。
あの日、白虎と因果を結ぶことを決めた圭吾を、自分はただ見ていることしかできなかった。あの時と同じように、変わらずに今も、何もできずにその背中を見つめることしか叶わない。いや違う。同じではないのだ。あの時とは、明確に違う。
今の自分は、自分は――声が、出せる!
「犬神ィィィッ!!」
喉を切り裂かんばかりのマスターの大声に、すぐに反応して犬神が姿を現した。布団から抜け出して畳を這うようにしている恭介を見るなり、慌てて駆け寄る。
左手だけじゃない。体は全身だるいし、ただ台所へ向かおうにも誰かの手を借りたいと思うくらいには、下半身に力が入らない。けれど、けれど――這ってでも追いかけたい、今度こそ絶対に見失いたくない人がいた。
〝馬鹿! さっきの今で何やってんだ……!? 頼むから、おとなしく寝ててくれよ〟
「しのを、追ってくれ……」
優しい動物霊の提案に従わず、恭介は次の命を下した。探るように口内を動き回った圭吾の舌に何の目的があったのか、気づけない程鈍感じゃない。
〝はぁ!? 追うって何で……〟
「血を舐めとられた」
動くたびに軋む関節が、まるで自分のものじゃないみたいだ。暫く抜けていた魂が、まだこの体に馴染んでいないと警告している。それでも無理に手を伸ばして、恭介は十年来の相棒に縋った。
「あいつ……二体目の動物霊と盟約を交わすつもりだ!」
起き上がって台所まで足を運べば、圭吾がちくちく嫌味を言いながらも沸かしてくれた麦茶が冷蔵庫に冷えていたはずだけれど。思い浮かべたように実際体を動かすには、全身がだるかった。晩御飯を抜いて寝てしまった後に迎えた朝のような、極端な低血圧にも似た頭の重さ。実体験のある事例を思い浮かべてみて、ため息をひとつ。どの感覚に一番近いかの正解がわかったところで、この倦怠感が拭える訳じゃないのに。
動かすのが面倒じゃない眼球を動かしてみる。視界の端に、見慣れた動物霊がらしくもなく鎮座ましましているのが映った。普段なら、憎まれ口のひとつどころか七つ八つは口をついて出ていただろうそのタイミングで真っ先に頭を撫でたい衝動に駆られたのは、少なからず心細かったからなのかもしれない。決して柔らかくはないし、お世辞にも指通りが良いとは言えないけれど、恭介はその頭に触れることが存外好きだった。
(……?)
その時、漸く違和感に気づく。間違いなく持ち上げる指令を脳から出したであろうその手が、ピクリとも動かなかった。痛みはない。骨折や怪我が原因ではないのは一目瞭然だ。判然としない意識の中、原因を辿ろうと今更稼働音を立てて頭を働かし始めた瞬間、シンプルな一言が落とされる。
「左腕なら動かんぞ」
声は知っていた。忌み嫌われている自分のような子供の頭を平然と撫で、甘ったるい声でその名を呼び、闇の底から掬うように容易く抱き上げてくれる人。けれどその声にはいつものような聞きなれた甘さなどはなく、故にそれが自分の師の一言だとは俄には信じがたかった。
首を右に傾けて、伺うように見上げる。やに下がった笑顔を見慣れている分、無表情の烏丸はまるで知らない人みたいだった。切れ長な眦と、筋の通った高い鼻。その下に続く、一文字の薄い唇。砕けた表情がその上に載らないだけで、いっそケミカルに近い無機質ささえ感じて戸惑ってしまう。
「体から、魂が長い間抜け過ぎたんだ。ただでさえ不安定な魂の状態で、九尾にとり憑かせるなんて無茶な真似したな。九尾の呪いが、左腕だけ抜けきっていない。心臓のみならず、魂までくれてやるつもりか?」
突き放すように告げられた事実に、衝撃がなかった訳じゃない。けれど幼少期に大事にされなかったこの体から、改めて機能しなくなった部位があることを知らされても、別段嘆くような気持ちは生まれなかった。加えて、十の頃交わした心臓を奪われるという契約によって受けた絶望の大きさが、今更自身の体の一部を奪われることへの、痛みや恐怖を鈍くさせていた。
「……動かないのは、一生?」
ふいに口をついたその質問には、哀訴感すらなかった。仮にその通りだと答えても、今の恭介に絶望を与えることさえ叶わないだろう、頓着のない声。その事実が、僅かに烏丸の胸を軋ませる。この子供は昔から、諦めるということがとても上手かった。
「絶対に、俺が元に戻してやる」
こんなふうに絶対などと、容易く口にする人間は嫌いだった。けれど例えそれがブラフでも、大人が交わした確かな約束として、ただ目の前に横たわるこの子に届けたかった。絶望を絶望とも感じられなくなったせいで、希望を抱くことがとても下手なその子供は――困ったように笑うだけだったけれど。
「……とにかく、俺が指示を出すまでは絶対に九尾を呼ぶな。今のお前は九尾と繋がり過ぎているんだ。使役したら最後、生命エネルギーの全てを持っていかれるぞ」
言い置いて、早々に烏丸が立ち上がる。にべもない口調で業務報告のように話されるのはいっそ初めてな程慣れていなくて、戸惑うように恭介は半身を起こした。
けれど引き止めるべき、ベターな言葉が見当たらない。
「師匠、怒ってる……?」
寄る辺ない子供の、ご機嫌を伺うような声。
「……いいから、今はゆっくり休め。その間に、自分のやり方が本当に正しかったか、もう一度よく考えろ」
否定も肯定もしてくれない冷たい声が、静かに恭介を叱った。その怒りは、犬神や圭吾が、ときどき自分に与えてくれるそれにとても良く似ていた。愛情が底にあるような怒られ方には、未だ戸惑いの方が大きい。
――けれどもう、憧れていたその愛情は、まるで手の届かない、知らないものじゃなかった。
動く方の手で布団を引き上げて、恭介は顔を隠した。
声をあげて、泣きたいような気持ちだった。
〝圭吾に……剣を持たせちまったな〟
犬神が、しゃがれた声で小さく溢す。再び寝入ってしまった恭介を起こさないよう襖を閉めて、縁側に移動した一人と一匹は、横並びで座り込んで、取り立てて見どころのない平々凡々な庭を眺めていた。
「俺に従ったこと、後悔してるのか?」
恬然とした口調で、烏丸がおどけてみせた。大袈裟に肩を竦めた弾みで、くゆらせていた煙草の煙が揺れる。恭介に関わるようになってから止めていたそれを、ときどき彼はこんなふうに嗜んでいた。足の抜けきらないヘビースモーカーの衝動で口に咥えるというより、心身ともに多大なストレスを感じただろうタイミングで、こうして思い出したように吸っているさまを何度か見掛けたことがある。
弄ぶように掌に載せたキャメルから、二本目を取り出そうとしないのがその証拠。今彼が欲しているのはニコチンではなく、疲れた体に日常を呼び起こしてくれる、ほんの僅かな煙の方だったらしい。
〝……お前を責めてる訳じゃない〟
やんわりと、否定しておきたかったところだけを先んじて答える。この胸を巣食う罪悪感が誰のせいでもないということだけは、犬神も重々承知していた。
「圭吾は、武器の形がわからないから戸惑っていた。自分が立っているところさえ、見失うくらいにね」
所在地が唇だった煙草を指で挟んで避難させ、烏丸は大きく息を吐く。吐き出された煙は、ほんのり甘い香りがした。
「知らされないままでは、できないこともあるよ。例えば……ナイフを持った子供がいたとして、それが刃物だと伝えないで、どうやってその危険性を知らしめるんだ? 周りの人間はともかく、本人にも一切の傷をつけないために、それは武器になり得ると本人にさえ教えずにどうやって?」
〝……〟
「……お前は優しすぎるよ。犬神」
答えられない犬神を糾弾することはせず、役目を終えた元司令塔は、目を伏せて煙草を口に戻す。
「俺だって、今回に限って言えば、正しいことをしたなんて思ってない。けれど圭吾は、どこかのタイミングで力の使い方を知るべきだった。結果、見事に恭介の命を助けたじゃあないか。勿論、圭吾が自身の能力に目覚めなくても、誰かがどうにかしたかもしれないけど……そんなのはシュレディンガーの猫だから、ここで議論しても仕方ない」
この男は、気まぐれの煙草による紫煙さえ、愛弟子に欠片も浴びさせないことを徹底していた。そんな彼だったから、命を救う代わりに周りが戸惑うような方法をあっさり選んだ圭吾が最終的に手に入れたその力を、なかった方が良かったとは決して言わないのだ。
「心配しなくても、圭吾の剣は守るための武器だ。具体的に、誰かを刺し殺すための凶器にはならないよ……今のところはね」
〝今のところ……か〟
念押しのように付け足された一言に不安がない訳ではなかったが、烏丸の言いたいこともわかる。
信じるしかないのだ。その先にある判然としない何かを畏れて彼から手段を取り上げるだなんて――犬神にそのような権利はなかったし、烏丸の言うようにナンセンスだ、とも思う。
「そうならないよう見守ってやるのは、大人の仕事だ。そういう煩わしさを避けるために、いつまでも何も知らされないままじゃ、本当にどこへも行けなくなっちゃうだろ」
緩く笑って、烏丸が犬神の背中を叩く。どうにも自分が情けなくなり、犬神は重すぎるため息をついた。
〝やっぱり、俺は過保護すぎるな……〟
「一之進あたりに、何か言われたのか?」
〝いや……〟
ニヤニヤとからかってくる悪い男にその相手を訂正することはやめ、とりあえず一之進に濡れ衣を着せることにした。背中から感じる鉛のような疲労感が、些細な訂正さえ億劫に感じさせるのだ。
「恭介のこと、よろしく頼むな。最低でも二週間は、絶対に九尾を使わせるな」
この男がこう言うからには、二週間で完治させる目処が立っているのだろう。ならば自分の役目は分かりやすく、見張りと警備の二種類だ。本音を言えば溺愛する恭介に四六時中張り付いていたいだろうに、その役目をそれでも他者に任せなければならないのだから、大人は大変だなと改めて思う。
カタン、と小さくぶつかる音が聞こえた。犬神と烏丸が顔を見合わせて同時に振り返ると、その先に立っていたのは拓真だった。起きたその足で、すぐ自分達を探したのだろう。さらさらの髪は、よく見ないと気がつかない程度には乱れていた。
犬神と烏丸は走らせた警戒心を同時に解き、居住まいを正す。結局何口も吸わずに終わった煙草を未練なく携帯灰皿に押し当てて、烏丸は営業用の微笑みを浮かべた。
「ごめんね、起きてたのに気づけなくて。ほったらかしにしてしまったかな?」
「私の方こそ、お話し中にすみません……あの、どうしても、今日のことお礼が言いたくて」
烏丸の理由のない微笑みは、プレッシャーだったよう。慌てて結果として盗み聞きをしてしまった現状を言い訳のように捲し立て、拓真は叱られる前の子供のような顔で俯いた。
「あなた方が関わってくださらなかったら、私はずっと……兄の痛みに、気づかないふりをしていたと思います」
ただ愛しかった日々の中で、一体何度兄を傷つけただろう。残酷な程に無邪気だった拓真は、兄の小さなSOSでさえ、見ないふりをしてやり過ごしていたのだと改めて恥じる。
「私たち兄弟を助けてくださり……本当にありがとうございました」
深々と頭を下げながら、拓真は感謝の辞を述べた。耳に残る自身の音楽は、これからも奏でていくつもりだ。容易く踏み潰してしまった、測りきれない程の――兄の才を、遥か先に目指しながら。
「……送っていこう」
組んでいた足を直して、烏丸が縁側に降り立つ。携帯灰皿を内ポケットに仕舞って、一本弱の喫煙を証拠隠滅。愛弟子は嫌煙家ではないが、未だに隠れて吸っているという情けない事実を露呈させたくはない。師匠の健康が心配だからなんて可愛い理由でなら、いくらでも説教されたいけれど。
「犬神」
ついでのように名を呼び、やる気のない手の振り方で軽く挨拶をされた。「行け」とも「来い」とも「バイバイ」ともとれる雑な手の動きからは何にも察せられなかったそのジェスチャーの意味は、続く言葉によってどうにか解説を付けられる。
「恭介はひとまず心配ないから、とにかく体を休めろ。間違いなく疲れてるよ、俺も、お前も。今は大事なことを考えて、結論を出せるような脳みそじゃない」
未だ形の定まらない犬神の右前足を見咎めて、端的なアドバイス。回復にここまで時間が掛かったのは初めてだったので、言われるままに、縁側に寝転んで暫しの休息を取る。
外はもう、夜の帳が下り始めていた。
二度目の覚醒は、ひどく頭がすっきりとしていた。
動かない左手はそのままだったけれど、思考は常態とほぼ変わりなかった。さっきは容易く諦めてしまったが、今度こそ台所に麦茶を取りに行こうか。右手でグーとパーを交互に作り、しっかりと動くことを確認。体の疲れは依然としてとれないままだったが、この部屋と台所の往復くらいはどうにかこなせそうだ。
のっそりと体を起こして、無意識に犬神を探す。台所まで運んでもらえないかお伺いを立てようと、さっきまで彼がいた場所をちらりと再確認。そこには図体ばかりでかい従順な動物霊はおらず、代わりに八面玲瓏な二個下の部下が綺麗な姿勢で正座していた。
「し、しの……!?」
途端に跳ね起きて、慌ててぼさぼさの髪を撫で付ける。少し乱れていた浴衣の襟を直してから、まるで乙女のようなリアクションをとってしまったことが恥ずかしくなった。まさか自分の恋心まで筒抜けになっているとはよもや思わないけれど、こんなに態度に出るようでは、いつばれてしまってもおかしくはない。
久しぶりに圭吾の顔を見て簡単に心臓は弾んだが、それよりも先に今、上司として主張しなければならないことがあった。こほん、と切り替えるために、咳払いをひとつ。落ち着かない心拍数を宥めるために右手で胸を抑えながら、嗜めるような声を意識して説教モードにスイッチを入れた。
「……俺、怒ってるんだからな」
「奇遇ですね、僕もですよ」
凡そ雇用主から怒っていると宣言された部下の第一声とは思えない一言を切り返され、恭介はがっくりと項垂れる。イニシアチブを容易く奪い取ったその男は、悪びれもなくため息をついてみせた。
「何でお前が怒るんだよ……」
「逆に聞きますけど、あれだけの馬鹿をやっておいて、どうして怒られないと思うんです?」
「馬鹿って、お前ね」
「あんたは、死ぬかもしれなかった」
強い声に、思わず返す言葉を失ってしまう。まるで冷静に見えた圭吾だったが、声に込められた怯むくらいの熱量に心臓が早鐘を打つ。その声音には、反論の余地を根こそぎ奪うくらいの凄みさえ感じられた。
「今回は……たまたまその場に立ち会った烏丸さん達がいて、相応の力を綰ねることができたから、どうにかなっただけでしょう? いつもそれで済むとは限らない。あんなやり方は、二度としないと約束していただけますか」
抑え込むような言い方に、思わずカッと頭に血がのぼる。恭介がそうした行動に出なければならなかった切っ掛けを思えば、一方的に叱りつけられるのには納得がいかなかった。
「そもそもお前が……っ!」
反論するために開いた口の中に、容赦なく二本指が捩じ込まれた。まさかと思う仕打ちに頭が追い付かず、咄嗟に距離をとる。突かれた粘膜はじんじんと熱を帯び、恭介は口を押さえてただ痛みに耐えた。
「あ、口内炎まだ治ってなかったんですね」
「どうしてお前は欠片も躊躇することなく説教中の上司の口内に指を突っ込むことができてあまつさえピンポイントで見事口内炎を探り当てそこを重点的に抉れるんだよ」
指先に付着した血液を無感動に眺めてよくわからないコメントを残した後輩に、とりあえず出血理由をやんわりと伝えることだけが恭介にはせいぜいだった。
生理的な涙を浮かべて睨み付けるように振り返ると、圭吾と目が合う。何かを言いたげに口許を歪めた彼は、思っていたよりも無防備な顔でこちらを覗き込んできた。
さらりと、頬を撫でられる。泣きたくなる程優しいその仕草に、誘われるように視線をあげた、瞬間。
――唇を奪われた。
現実に頭が追い付かなくて、呼吸さえ止まってしまう。間髪いれずに舌が捩じ込まれ、奥の奥まで探るように犯される。震える指で圭吾の胸元を押し返すけれど、笑ってしまうくらい力が入らない――呪いに蝕まれた左手、じゃないのに。
すべてを暴かれてしまいそうで怖くなった。舌の裏側をなぞられて、思わず頭の芯が痺れる。飲み込まされた唾液がどちらのものかわからなくなり、一瞬鼻を抜ける血液の臭いさえ、まるで麻薬だった。
小さな音を立てて、何もかもを暴いた唇が離れる。ぼんやりとする視界に映る圭吾は、どこまでも甘く優しい声で、ただ一言を恭介に告げた。
「クビにしてください。僕は、あんたのことを裏切った」
恭介が、僅かに目を見開いた。力の入らない手を伸ばしても、立ち去る圭吾の袖に今一歩届かない。あっさりと自分に背を向けて、圭吾は出て行ってしまった。まるで――あの時と同じ。
あの日、白虎と因果を結ぶことを決めた圭吾を、自分はただ見ていることしかできなかった。あの時と同じように、変わらずに今も、何もできずにその背中を見つめることしか叶わない。いや違う。同じではないのだ。あの時とは、明確に違う。
今の自分は、自分は――声が、出せる!
「犬神ィィィッ!!」
喉を切り裂かんばかりのマスターの大声に、すぐに反応して犬神が姿を現した。布団から抜け出して畳を這うようにしている恭介を見るなり、慌てて駆け寄る。
左手だけじゃない。体は全身だるいし、ただ台所へ向かおうにも誰かの手を借りたいと思うくらいには、下半身に力が入らない。けれど、けれど――這ってでも追いかけたい、今度こそ絶対に見失いたくない人がいた。
〝馬鹿! さっきの今で何やってんだ……!? 頼むから、おとなしく寝ててくれよ〟
「しのを、追ってくれ……」
優しい動物霊の提案に従わず、恭介は次の命を下した。探るように口内を動き回った圭吾の舌に何の目的があったのか、気づけない程鈍感じゃない。
〝はぁ!? 追うって何で……〟
「血を舐めとられた」
動くたびに軋む関節が、まるで自分のものじゃないみたいだ。暫く抜けていた魂が、まだこの体に馴染んでいないと警告している。それでも無理に手を伸ばして、恭介は十年来の相棒に縋った。
「あいつ……二体目の動物霊と盟約を交わすつもりだ!」
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