上 下
37 / 110
第七章『黒い竜との遭遇』

しおりを挟む
ハルトは、ガオルと名乗る黒影竜から、目をそらせなかった。

恐怖ゆえに思考が固まってしまったのではなく、

あの竜のことをもっとよく知りたいという欲求がそうさせるのだ。


「フラップ、黒影竜ってあいつ言ったよね?  いったい何なの?」

フラップは、子どもたちを守るために飛び上がり、

かばうような体制を取っていた。


「ぼくもよく知りません!

黒影竜なんて、聞いたことがありませんから。ただ……」


フラップは、一瞬だけ考えをめぐらせるようにガオルから目をそらした。


だが、その一瞬が命取りだった。ガオルはフラップのスキを見逃さなかった。

なんの前ぶれもなく子どもたちのほうに高速で接近すると、

黒い霧のようなものをどっと口からはき出したのだ!


崖の上は瞬く間に黒い闇に包まれた。

生温かくて、ひどく焦げ臭いにおい。子どもたちの悲鳴と叫び。

そして、だれかが強く突き飛ばされるような鈍い音がひびいた。


「うわあああっ!」


フラップの叫び声がした。ガオルの攻撃を受けたのだ。


「ああっ!」


今度はスズカの声だ。まさか、彼女も攻撃を受けたのだろうか。

黒い霧で、右も左も何も見えない。霧を吸いこんだせいで、せきが止まらない。

だれか、だれか何とかしてくれ――。


ハルトの願いに答えるように、背後から突風が吹いてきた。

風は一瞬にして黒い霧を吹き散らし、崖の上から追い出した。


崖の周囲に、十一頭のオハコビ竜が浮いていた。

子どもたちのオハコビ竜たちだ。

今の風は、フリッタやフレッドをはじめとした彼らが起こしたものだったのだ。


「フラップ、大丈夫か!?」

と、フレッドが叫んだ。


フラップは、ガオルの攻撃で吹っ飛び、崖の下の水面に浮かんでいた。

近くにいた亜人たちの中から、魚人族たちが何人かが彼にかけより、

その様子をうかがっている。


「ちょっと、ちょっと、キミ~?

いきなりひどいごあいさつなんじゃナイ?」


フリッタが腰に手を当てて、

ハルトの近くにいるだれかにむかって言い放っていた。


ガオルだった。そいつはまだ崖の上にいた。

その右腕にはスズカが囚われている。


体の大きさは、オハコビ竜たちと大差なかった。

ガオルは、十一頭をにらむように見上げながら、

左手を突き出し、血のように真っ赤な爪をむいていた。

爪は長くて鋭く、白竜さまのかがやきを受けて危険な光沢を放っていた。


亜人たちのどよめきがいっそう高まる。

遠くから離れて見ているオハコビ隊員たちは、

恐怖のあまり、だれひとりとして加勢できずにいた。

現場にいる十二頭のオハコビ隊員にすべてをたくし、

ただ固唾をのんで見守るのみだ。


水面に浮いていたフラップは、

上半身を起こして頭をふり、気力をふるい起こした。

そして再び飛び上がり、崖の上に姿を見せた。


「そこでスズカさんを食べてしまう気ですか!」

フラップはガオルにむかってそう聞いた。

「ぼくの、じゃなかった、ぼくらの大事なお客様なんですけども!」


「知ったことか」

ガオルはつっけんどんに答えた。

「この子は、もう俺の獲物だ。だれひとりとして邪魔をするな」


そこへ、フレッドが腕を組みながら果敢にこうかました。


「――おい、お前。どこのだれだか知らないけどさ、

俺たちの大事な仕事に水を差して、ただですむと思うなよ。

俺たちが何者なのか、お前にも分かってるはずだ!」


「ああ、もちろんだ」

ガオルはあざけるような笑みを浮かべて答えた。


「お前たち十二頭は、オハコビ隊の竜だろう。かなりの訓練を積んでいそうだ。

それに、人間界との友好の輪を築くために、

あれやこれやとくだらない活動をしている連中だということもな」


「あ、言ったなーー!!」

と、フリッタがむきになって叫んだ。



(えっ、人間界との友好の輪……?)

ハルトは、ガオルが口にしたその言葉が気にかかった。



ガオルはかまわずに続けた。


「フッ。俺は、ずっとこの時を待っていたのだ。

この爪を見ろ。俺がこうして彼女ののど元に爪をかければ、

この次にどうなるか想像がつくだろう?

そんな現場を、ここにいる他の子どもたちに目撃させたくなければ、

今すぐに道を開けろ。

子どもの前で、凄惨な殺人現場を披露するものではないからな。

さあ、とっととどくんだ!」


「待ってくださいよ!  あなた、何を変なこと言ってるんですか!?」

フラップがやりにくそうにそう言った。


ガオルの言葉は、凶悪な襲撃者とは思えない違和感があった。

だが、今にもスズカをしとめてしまいそうだ。

血にそまったような真っ赤な爪が、スズカの首もとでギラリと光る。


「い、や……!」


スズカは目にいっぱいの涙を浮かべ、

泣き叫ぶこともできずに、ガオルの腕の中で硬直していた。


(どうして、わたしだけがこんな目にあうの?

ここには、他にもこんなにたくさんいるのに……)


その子どもたちは、恐怖で何もできなかった。

ガオルの姿におびえる子、石のように固まる子、

叫ぶムンクのごとく両手を顔に押しつけている子――。


ハルトも、こんなに近くにスズカがいるのに、何一つ行動を起こせずにいた。


子どもたちのオハコビ竜たちは、ガオルを取り押さえるのをためらい、

かといって道を開けることもできず、ただ指をくわえるしかなかった。


けれど、フラップは違った。


「あのう、あなた、大事な方のことをすっかり忘れているようですけど……」


「だれのことだ!」


フラップは、おっかなびっくり斜め上に視線を流した。

ガオルがそちらを見上げると、そこには白竜さまの巨大な顔があった。


『わが領域を侵すものよ――!』


白竜さまは、落ちつきはらった声に怒りの色をにじませていた。

その瞳が、緑色に怪しく光った。

すると次の瞬間、ガオルはスズカを腕から解放し、

そのまま宙へとゆっくり浮かび上がった。――いや、持ち上げられたのだ。


白竜さまの力だ。

ガオルは見えざる手に全身をつかまれ、必死にもがいているようだった。


「くっ!  まさか、これは……《神通力》か!?」


抵抗も空しく、ガオルは白竜さまの目と鼻の先まで持ち上げられた。


その次の瞬間、ガオルの肉体はまっすぐ後ろへと突き飛ばされた。

それも、ライフル弾なみの速度で。

はるか遠く、だれにも見えなくなる場所へ――。


あっという間の出来事だった。

儀式の場は、まるで嵐が過ぎ去った後のように静かになり、

だれもが白竜さまの顔をじっと見上げていた。


スズカは全身の力がぬけて、すとんと地面にひざをついた。

助かった。わたし、殺されずにすんだんだ――。


「スズカちゃん!」


ハルトは、急いで彼女のもとに駆けつけ、体を支えてあげた。

よほど強い恐怖にかられていたに違いない。

解放されてもなおその目はハルトの顔を見ず、

空中の一点だけをぼうっと見つめていた。


(放心状態ってやつかな……)


とりあえず、ハルトは一安心した。


「スズカさん、お怪我はありませんか!?」


フラップたち十二頭のオハコビ竜がやってきた。

フラップ以外の隊員も、それぞれの子どもたちの無事をすぐに確認した。


「大丈夫だよ、フラップ。スズカちゃん、どこにも怪我はないみたい」


「ああ、よかったあ。よかったよう……ううっ」


ハルトは予想もつかなかった。まさかここで、フラップが涙を流すとは。

フラップは、まるで子どもみたいに大声で泣きだした。

ハルトはその様子に、あきれる以前に呆然としてしまった。

それに、恥ずかしげもない泣き方がどこどなくかわいい。


『――人間の子、スズカよ。わたしの声が聞こえていますか』


白竜さまが、スズカによびかけてきた。

その神秘的な声に、スズカははっとして、白竜さまの顔を見上げた。


光りかがやく白竜さまは、

うっとるするほど美しい顔をスズカの目線の高さまで下ろし、

まっすぐ水平になってスズカの瞳を見つめた。


『――かわいそうに。あなたは、偽りの罪にさいなまれているのですね』


「あ……」


スズカは、まわりにも聞き取れないような小声をもらした。


そして白竜さまは、真っ白な鼻先をスズカの前に近づけてきた。

白竜さまの生温かい吐息に、ハルトとスズカは不思議な安らぎを感じた。


『――大丈夫。竜は、あなたを信じて疑わない。

あなたの真心に、竜は必ずこたえます』


「……はい」


スズカは、ただ短く答えた。救われるような言葉に胸があふれそうになり、

瞳を閉じてその言葉を何度もかみしめた。


白竜さまには、人の心を読む力があるのだろうか。

偽りの罪――ハルトは、スズカが抱えている悲しみの核心に、

図らずも少しだけ触れてしまったような気がした。
しおりを挟む

処理中です...