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第3章

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「やはり霧は消えていないか……」
 フォルカーは試みに塔の外に出てみたが、まだ正午にもならないというのに辺りは薄暗い。立ちこめた霧は薄れる気配どころか深さを増しているようにも見える。
 居場所を確認しながら少しずつ森へ入ってみても、気付けばまたすぐに元の場所へと戻されてしまう。戻されているだけならまだしも、そのまま堂々巡りで出られなくなる可能性を思うとぞっとした。
 諦めて早々に塔へと戻る。焦りがないわけではないが、元々あてのない旅だ。塔の主に対して気まずい思いがないわけではなかったが、霧が晴れるのを待つのが賢明だろう。
 酒の勢いを借りて自暴自棄で訪れた森とはいえ、今のフォルカーはさすがに自らのたれ死にに行くほど正気を失っているわけではなかった。

 塔に戻ったフォルカーは、与えられた自室に向かおうとする。すると再び竜が滑空してきて近くのテーブルの上に降りた。こちらを向いて、くっと顎をあげる。
「何だ、また俺に何か用か」
 フォルカーが近付くと、竜はそこから少し離れた床へ着地する。またそちらへ近付くと、再び離れる。
「付いて来いと言うのか?」
 竜に誘導されるままに後を追うと、辿り着いたのは小さな図書室だった。
 小さいとは言え四方の壁は天井まで蔵書の詰まった本棚になっており、読書机も二つほど並んでいる。
 飛び上がった竜が滑空して、一つの机の上に留まる。そこにはメッセージの書かれた紙が留め置かれていた。

『霧が晴れるまでの退屈しのぎに、ここを使って構わない。』

 手紙はもちろん竜ではなくエリオの書いたものだろう。
 フォルカーは頭を掻く。怒鳴ったのはこちらだというのに、魔法使いはここから出られない来訪者に気を遣ってくれたのだろう。この図書室なら時間を潰すことも出来るし、気まずい思いでエリオと顔を合わせることも少なくなるはずだ。
「……やはり一度謝った方がいいな」
 そもそも招かれざる客はフォルカーの方であり、霧が晴れるまで置いてくれているのは魔法使いの親切だ。
 あの時は本気で腹が立ったが、初めて会ったエリオがフォルカーの忠誠心を理解しているはずもない。
 フォルカーは深く息を吐き、机上で尾を丸めた竜の背を撫でる。竜のランベルトは抵抗せず、眼を細めてされるに任せた。
「なんだ、竜というのはこんなに人懐こいものなのか? ……いや、それよりお前のご主人様が言っていた研究室というのはどこだ。エリオはそこにいるんだろう?」
 だが竜はもっと撫でろと頭を擦りつけるばかりで、先ほどのようにどこかへ誘導してくれるような気配はない。
 フォルカーは諦めて書棚に並んだ背表紙を眺めた。
 極端に古い物や専門的な書物にはフォルカーには読めない言語のものも多いが、中には少し前に流行したロマンスなどもある。確かに時間は潰せそうだ。
 フォルカーはその中から剣術についての本を一冊手に取ると、読書机の椅子を引いて腰を下ろした。

 すっかり内容に熱中していた二冊目の本が半ばへと差し掛かる頃、大人しく丸まっていた竜がぱちりと片方の目を開けた。
 竜は起き上がると、何かに呼ばれたかのように図書館を出ていく。フォルカーも本を置き急いでその後を追いかけた。

 竜が向かったのは、塔の地下にある薄暗い部屋だった。開いたままの扉からは、いくつもの棚と大きな作業台が見える。棚には何に使うのか分からない器具や本や液体の瓶などが、ランプの明かりに照らされてごちゃごちゃと積まれている。
 その中に埋もれるようにして、エリオがいた。
 ここが彼の研究室なのだろう。作業机の上には巨大で厚い書物が広げてあり、エリオはその横に並んだ硝子瓶から一つを選んで目の前にかざした。火にかかった小さな鍋のような器に、瓶の中身を振り入れる。
「――なんだ、用事を頼もうと思って呼んだのに。ランベルトは頼んでもいないものを持ってきたね」
 鍋から目を離さずに、エリオは竜に声をかけた。
「すまない、エリオ」
「私の実験を邪魔したことかい? それなら気にしなくていい。私は君のことなら、存在を全く無視することも容易にできるからね」
 いささか言葉に棘があるように聞こえるのは気のせいだろうか。気のせいにせよ、自分が原因だという自覚はフォルカーにもある。
「あ、ああ。今こうして邪魔したことも謝る。だがそうじゃなく、さっきの話だ。急に怒鳴って悪かった。……済まない」
 そこでようやくエリオが実験の手を止め、フォルカーを見た。
「何だ、随分と殊勝な態度だな」
「からかうな。俺は本気で謝ってるんだぞ」
 フォルカーが眉を寄せる。
「それに、図書室のこともだ。お前が使っていいと言うからありがたく使わせてもらった。感謝する。あそこには随分いろいろな種類の本があるんだな」
「研究用の専門書が多いから君にはつまらないかも知れないけどね……何か面白いものはあったかい?」
「そうだ、面白い剣術書があったぞ! 型を重んじているが実戦についても練られた剣術で、古いものだがとても興味深い内容だ!」
 先ほどの興奮を思い出して勢い込んで言うと、エリオが少し笑った。
「なんだ、こんなところでもわざわざそんなものを見つけて読んでいるんだね。見上げた元騎士様だ」
 からかう様子は変わらずあるが、声の棘が消えている。
「俺にはそれしかないだけさ。別に立派なものじゃない。……お前だって、ずっとここに籠って研究をしているんだろ」
「おやおかしいな、塔の魔法使いは人を襲うんじゃあなかったのかい? ずっと籠って研究ばかりしていたら、人を襲っている暇なんかないだろう?」
「ああ、うるさいうるさい! 俺はもうお前が人を襲ってるとは思っていないんだから、そう責めるな!」
 エリオの軽口に、フォルカーが照れ隠しのように言い返す。フォルカーの中で、この魔法使いへ印象は徐々に親しみを感じるものへと変化してきていた。
 先ほどの言動を反省したこともあり、いくらか打ち解ける努力をしようという気も出てきたフォルカーは話題を変える。
「そんなことより、お前は一体何の研究をしているんだ」
 その問いに、エリオがすっと目を細めた。不穏な気配にフォルカーは慌てて否定する。
「言いたくなければ――いや、聞いたところで俺に理解できるようなものでもないか。忘れてくれ」
「なに、別に教えてもかまわないよ。……これはね、おそろしい呪いの研究さ」
 エリオの芝居がかった口調に、フォルカーは本気なのかからかわれているのか判別がつかない。
「それは……誰を呪うんだ」
「何だい、その顔は。森の中の塔の怪しげな魔法使いには、相応しい研究だろう?」
「いいや。お前は人を襲わないんだろう」
「少なくとも、今はね。おいで、ランベルト」
 エリオは作業の手を止めて竜を呼んだ。小竜はふわりと机の上に乗る。
「この小石を、塔の扉の前に撒いてきておくれ。うん、窓? いや、今回は扉だけでいい」
 そう言って、小石の入ってずしりとした布袋を竜の首にかけた。
「その竜はそんなこともできるのか」
「ランベルトは私の力を貸せば大抵のことはできるよ。里に降りて買い物をするのも彼の仕事さ。竜の姿では目立つから、市場に近付く前にほかのものに姿をかえさせているけどね」
 隠者のような魔法使いの口から出たのは、フォルカーにとって意外な言葉だった。
「買い物をするのか!? 市場で!?」
「当たり前だろう。君の朝食のスプーンや加工肉の切れ端や図書室の蔵書が、すべて魔法で作られたとでも思っていたのかい。勿論、旅人から奪ったわけでもないよ」
「いや、疑っていたわけでは……。だとすると、俺は貴重な食料を分けてもらったことになるのか」
 森の中の魔法使いはフォルカーの想像していたものよりはるかに人間くさく、しかも情まであったようだ。
「心配には及ばないさ。言っただろう、私はただの人間とは違う。飢え死にすることはないんだ」
 そういって皮肉な笑みを浮かべて竜を撫でるエリオは、やはりただの人間ではない。
 フォルカーは、段々この心優しくおそろしい魔法使いをどう捉えるべきか分からなくなってきていた。思わせぶりで妖しげな態度ではあるが、無闇に人を襲うようにも思えない。だが単純に人が好いだけでもなさそうだ。
「……もしかして、呪ってやりたいほど憎む相手がいるのか」
「だとしたら? 私を止めるつもりかい?」
 エリオは相変わらずはぐらかす。その試すような目の色は、王子の顔をしてはいるというのに王子とはまるで異なるものに見えた。
「相手にもよるな。もしお前のような魔法使いがそれほど誰かを憎むことがあるのなら、それ相応の理由があるんだろう」
「ずいぶんと買いかぶってくれたものだね。人を襲わないというのも、呪いの研究をしているというのも全部嘘かも知れないよ」
 魔法使いの言葉はくるくると入れ替わり、フォルカーを弄ぶ。
「おい、やめてくれ。何度もそう言われると何を信じて良いのか分からなくなる」
「それでいい。いくら私が大事な王子様の顔をしているからといって、そう簡単に相手を信用してはいけないという話さ」
 諭すようなエリオの態度に、フォルカーはふんと鼻息を荒くした。
「お前こそ傲るなよ。たとえ見た目がヴァレンテ様であっても、お前はヴァレンテ様になどまるで似ていないからな」
 その言葉は負け惜しみでも皮肉でもない本心だった。エリオと言葉を交わしているうち、ヴァレンテ王子と同じ容姿であるせいでかえって異なる部分が目につくようになってきていた。
「へえ。あれだけ驚いていたくせに、よくそんなことが言えるね」
「昨日のことは仕方がないだろう! だがもう驚かないぞ。ヴァレンテ様がご存命でお前とお並びになられたとしたら、黙っていてもどちらがお前か見分けられる」
 俺は騙されない、と言ってフォルカーは腕を組む。エリオは目を細めた。
「……そういうのは、『ヴァレンテ様のことなら見分けられる』って言うべきじゃないのかい」
「皮肉か? まさに昨夜間違えたばかりの俺に、それを言う資格はないだろう」
「へえ、案外謙虚だね」
「事実だ。俺はあの方を敬愛するあまり、目を曇らせて本質を見誤った。これからお前のことは外見に惑わされず見抜いてやろう」
「できもしないことを……」
 エリオは小さく呻くように呟くと、顔を背けた。
「やってみないと分からないだろう」
 だがフォルカーの言葉への返事はない。エリオは黙って、待機していた小竜を部屋から送り出す。
「どうした魔法使い。……おい、今のは別におかしな事じゃないだろう。お前から言い出した話だぞ」
 フォルカーはまた何か失言をしたのではと心配になったが、心当たりはなかった。
「もしかして怒っているのか」
「そんなのはいちいち聞くようなことじゃないだろう。怒ってはいないよ」
 顔を背けたままのエリオが髪を耳にかける。髪から覗いた耳が少し赤い。
「どうした。耳が赤いぞ」
「うるさいなあ、そんなのはいちいち言うようなことじゃないだろう」
「お前まさか、泣いて……」
「泣いていない!」
 怒った様子でエリオがようやく振り返る。確かに泣いている様子ではないが、頬も赤い。
「おい、やはり俺がおかしなことを言ったんだろう。もし知らずに魔法使いの隠語か何かでも口にしてしまったのなら改めさせてくれ」
「違うよしつこいな。いいから暇ならランベルトの手伝いでもしたらどうだい。今すぐ塔を出れば間に合うよ」
 エリオは片手をバサバサと乱暴に振って追い払う真似をする。フォルカーはわけが分からないまま部屋を追い出され、小竜を追った。
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