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第二章
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翌日。その日の授業を終えた午後四時ごろ。俺と珀は、学校の保有する陸上競技場にて、肩を並べて構えていた。
「位置について。用意!」
横から聞こえるかけ声に続き、パンッ! と大きな号砲が鳴り響く。瞬時に地を蹴って駆け出し互いに肉薄、抜きつ抜かれつの接戦の末、わずかに俺の肩が先にゴールをくぐる。
「っし! 勝った!」
「あー! あとちょっとだったのに!」
俺は勝利に思わずガッツポーズ。珀は心底悔しそうだ。
「……って! ちげーよ!」
しかし、唐突に湧き上がった衝動が、俺にそう叫ばせる。
「誰が短距離走するためにこんなとこ来とるか! 俺たちは放課後の陸上部で気持ちよく汗流しにきたわけじゃねぇんだよ! 何でこんなことになってんだ!」
「えー。いやあ、何でって言われても……成り行きだよねえ」
そう。なぜかと問われれば、答えは成り行きだ。
翠の要求で陸上部副顧問とそのディアを調べるにあたって、俺と珀はとりあえず、放課後の部活動の時間にここまでやってきた。そうして練習の準備をする副顧問とそのディアを見つけたまでは良かったが、校内で持ちきりの噂が拍車をかけたこともあり、部にはものすごい数の生徒が集まっていた。しかも、ちょうど一年生の仮入部期間と重なっており、どう見ても参加人数過多であるそんな状況でたった二人の三年生が目立つはずはなく……俺たちはあえなく一年生の道連れで一日練習体験ツアーへと連行された。あれよあれよという間にジャージ姿に着替えさせられ、こうしてせっせとトラックを走っている。
「しかしなあ、だからって真面目に練習までしなくてもいいだろ。スプリンター目指しにきたわけじゃねーぞー」
「でもさ蓮、これって実際、悪くない方法だと思うんだよ。授業のある日中は長話する時間ないし、狙うなら部活のあとがベスト。それなら他の人にも聞かれる心配は少ないよ」
「それって、このまま今日の練習の最後まで参加するって意味か?」
「そーだねー。たぶん、みんなあの副顧問の先生と話したいだろうし、今日っていうか、数日は様子見じゃない?」
す、数日……こりゃ間違いなく筋肉痛だな。
しかして珀の予想通り、それから二、三日の間は、これといった好機を見出せなかった。俺たちは遠巻きに副顧問とそのディアを眺めるばかり。見たところ件の副顧問は非常に人当たりのよい性格で、練習中は部員へのアドバイスやサポートに尽力し、それ以外では、やってきた生徒たちに対して分け隔てなく丁寧に接していた。聞けばまだ二十代のようで、その若さゆえか、勉強や部活のことから他愛のない雑談まで、生徒と話が合うのだろう。
そしてその容姿には、確かに幾分、驚かされた。生徒と並ぶとまるで見分けのつかない小柄な体躯。かなりの童顔に浮かぶ黒目がちの大きな瞳と、笑ったときの八重歯が印象的。おまけに声は、まるで少女のような快活なそれであり、話し方だけが年相応に大人びているものだから、これが大きなギャップを生む。本名、佐倉由梨絵から、愛称はゆりちゃん先生だそうだ。先生でありながら、生徒にとってはまるで姉のような、友達のようなポジションに、収まるべくして収まっている。
対してディアの方は、長身で優しげな物腰、爽やかな好青年にも見える日本人男性を元としたモデルである。ただ、見た目に反しておっちょこちょいというかドジというか、部の備品を運ぶ際、その重量にバランスを崩し、転んでヘマをやらかしている姿をよく見かけた。そんな姿が生徒の心を掴んだのか、今では所有者の佐倉先生と並んで人気の中心というのは、確かに噂通りのようだ。俺としては、そうやって失敗をするところまで含めてプログラムされた行為なのか、あるいはただスペックが低いだけなのかは気になるところだが、どちらにしても、それを取り繕う曖昧な笑顔を端から眺めるにつけ、ディアらしからぬ人間性を垣間見るような気分にもなった。
見れば見るほど、色々な意味で本当にディアなのかと疑問を抱いてしまうが、しかし何のことはない。彼の左手の甲には、はっきりシリアルナンバーが刻まれていた。遠目では詳しいところまで読み取れなくとも、ひとまず彼がディアであることは間違いなさそうだ。
一般的にはディアを所有する場合、自分と同姓のモデルを持つ人の方が多い。けれども、佐倉先生はこの限りではないらしい。まあ、そういう人も、いるにはいる。
そして佐倉先生は、彼のことをタカヤ先生と呼ぶ。それはOS名ではなく、彼に与えられた本当の“名前”だ。
もちろん、ディアを名前で呼ぶことは、やや常識の外にある行為。赴任当初は皆も戸惑いを覚えていたようだが、しかし今では、学内に限りその名が浸透したらしい。理由は二つあって、一つは、周囲が佐倉先生の誠実な人柄を知り、合わせているから。もう一つは、当のタカヤ先生がとても人間らしく振る舞うので、周囲も思わず名前で呼んでしまうのだとか。現に俺がこうして陸上部に顔を出している数日のうちにも「ディアは人間じゃないけど、タカヤ先生はちょっと人間に見えちゃいそうだよね」なんて話している生徒を何度か見かけた。タカヤ先生は、正確には教員ではない。けれども学内にいる大人を先生と呼称するのは、このコミュニティにおいては一番自然で、受け入れ易い結果となった。
そうして日々身体に蓄積されていく乳酸と戦いながら、いい加減太腿辺りの筋肉痛に限界を感じる頃になって、ようやく好機が訪れる。
暮れる西日が競技場を照らす中、練習道具を片付けたあとに珀と二人で帰ろうとすると、近くにあった倉庫の中に、佐倉先生の姿が見えた。下校時間ぎりぎりのためか、周りに他の人影はなく、これ幸いと珀が先生に声をかけた。
「あ! ゆりちゃんせんせー! 何してるんですかー?」
どうでもいいけど、ほとんど初対面でその呼称が使える珀はすごいと思う。
俺たちが近づくと、佐倉先生は倉庫から出てきて微笑む。頭一つ分ほど下の目線。清潔感ある切り揃えられた短い黒髪。まとったウィンドブレイカーは袖口がやや余っている。
「ああ、ちょっと備品の整理をしていまして……あれ、あなたたちは確か、仮入部の」
すぐに珀が元気よく「はい!」と返事をする。しかしすぐにかぶりを振って、
「あ、いえ。実は僕たち、仮入部ではないんです。僕たち、本当は三年生でして」
「……三年生、ですか?」
すると佐倉先生は小首を傾げた。まあ、その反応は至極まっとうと言えるだろう。普通の三年生は、こんな時期に仮入部には来ない。
「そうなんです。僕は三年C組の遠山珀っていいます。こっちは、A組の那城蓮。僕たち二人ともディア工学に興味があって、来年からは、大学でそれを専攻したいなーと思っているんですよ。それでですね、最近噂で、ゆりちゃん先生のディア――タカヤ先生の話を聞いたんです」
「あらあら、そうなんですか」
珀がてきぱきと自分、そして俺の紹介をしつつ、嘘八百の来訪理由を説明する。
それを聞いた佐倉先生は、疑うこともなく優しげに応じてくれた。
「じゃあ、遠山君と那城君は、タカヤ先生に用があって、陸上部に?」
「えっと、はい」
「まあまあ、それはそれは、三年生で忙しい時期なのに、ありがとうございます」
「いえ、こっちこそすみません。冷やかしで」
「いえいえ、いいんですよ。少しでも人が増えると、部にも活気が出ますからね。それに、遠山君と那城君、結構良い線いってると思います。どうですか? このまま卒業まで、陸上部に居着いてもいいですよ」
さすがにここまで言われてしまうと、純粋な陸上競技への興味からここへ来たわけではないことに、いくらか罪悪感を覚えてしまう。良い線云々はどう考えても世辞だろうが……しかし、本人に世辞を言っている自覚はなさそうだ。
珀は「あはは」と曖昧に笑って応じる。俺もその後ろで、軽く会釈をしておいた。
「あ、すみません。それで、タカヤさんに用なんでしたね。今、校舎の方に、隣の倉庫の鍵を取りに行ってもらっていて……」
佐倉先生がそう説明する。ちょうどその言葉が終わるかどうかのところだった。
「ええ。鍵、取ってきましたよ」
「ひゃうっ!」
突然、倉庫の影、佐倉先生の背後から声がして、驚いた佐倉先生は素っ頓狂な声を上げた。現れたのはタカヤ先生だ。
「ち、ちょっとタカヤ先生! 何するんですか! 変な声出ちゃったじゃないですか!」
「ああ、申し訳ありません。そんなつもりはなかったんですが」
タカヤ先生は持ってきた鍵を差し出しながら、落ち着いた笑みでそう答えた。
佐倉先生はそれを受け取りつつ、さらに追求する。
「本当ですか!? タカヤ先生は、いつも口ではそう言いますけど!」
「そんなこと……いや、そうですね。佐倉先生に対しては、結構あるかもしれません。じゃあ、さっきのは嘘で」
「もうっ!」
佐倉先生は、その短い腕をぶんっと回してタカヤ先生の胸を叩いた。身長差的に、ちょうどそこが叩きやすい部位なのだろう。しかしまったく痛くはなさそうだ。
タカヤ先生はその様子を微笑ましそうに眺めている。しばらく佐倉先生をあしらったあと、やがて俺たちの方へ視線を向けた。
「ところで、遠山君に那城君。さきほど僕を呼びましたか?」
まあ、呼んだといえば呼んだが……佐倉先生が必死に抗議をしているこの状況で話を進めていいものか、いささか疑問なところである。
結局、佐倉先生の猛攻が多少収まるまで待ってから、再び珀が口を開いた。
「はい。唐突ですが、タカヤ先生はディアなんですよね。最近のディアはだいぶ人間に近づいてきましたけど、でもタカヤ先生は、中でも極めて人間そっくりに見えるって、生徒の間では噂になっているんですよ。僕たち、そんなタカヤ先生に是非、興味があって」
「そうですか。それは光栄ですね」
「タカヤ先生の人格プログラムは、プリインストールのものではありませんよね。オリジナルのデータを構成したのは、ゆりちゃん先生なんですか?」
「はい。僕はそう認識しています。ね、佐倉絵先生?」
尋ねられた佐倉先生は、しかし先の件をまだ怒っているのか、拗ねた様子で返答する。
「私は、タカヤ先生をこんな性格にした覚えはないんですけどね!」
「いえいえ。ちゃんと僕は、佐倉先生が言った通りに構成された人格プログラムで動いていますよ。安心してください」
タカヤ先生は笑いながら答えると、佐倉先生の頭を優しく撫でる。まるで子供をあやすような要領だったが、それでも佐倉先生は、膨らませた頬を次第に萎ませたようだった。
……って、それで収められてしまうのは、大人としてどうなんだろうか佐倉先生。俺は少々呆れながら心の中でそう突っ込む。
しかし珀の方は、それとはまた別の点が気になったらしい。
「あの、タカヤ先生。今、『由梨絵先生の言った通りに』って言いましたよね。それは、本当なんですか?」
「え? ああ、はい。言いましたし、本当ですよ。佐倉先生は、僕に搭載されている人格プログラム構成用の音声入力インターフェースを使って、この人格を作ってくれました」
それを聞いて、珀は感心したように驚いた。
「すごいですね。音声入力でディアの人格を構成するのは……相当な時間と労力がかかる作業じゃないですか」
「そうですね。僕もそう思います。でも、間違いなく事実です」
「どうしてその方法を? 人格プログラムの構成は、僕も昔、少しばかり手出したことがあるんですけど……普通にキーボードでやっても途方もなく大変なのに、あまつさえ音声入力インターフェースだなんて。こう言っちゃなんですけど、あの音声入力のインターフェースは実装初期段階から全然更新されていなくて、使い勝手もかなり悪いですよね」
珀のその質問は、ほとんど純粋な疑問からくるものだったのかもしれない。一人のディア所有者として。あるいは、直接ではなくとも、そのインターフェースを開発している側の人間として。俺だって、もし仮にディアの人格を構成しようと思ったとしても、音声入力なんて絶対に使わない。まだキーボードでせこせこ打ち込んだ方が楽というものだ。
けれども、当の佐倉先生は不思議そうな顔で首を傾げた。
「えっと……音声、いんたーふぇーす、ですか?」
その様子を見て、タカヤ先生がまた、からからと笑う。
「佐倉先生にそういう質問をしても、たぶん伝わりませんよ。佐倉先生は、カタカナの連なった単語は苦手ですから」
すると、横で聞いていた佐倉先生は異議有りとばかりに手を挙げた。
「ま、待ってください! 私は別に、カタカナ用語が苦手なわけではありませんよ! 断じて! それは英語教師としての沽券に関わります!」
「では言い換えましょう。佐倉先生にテクニカルタームは通じません」
「そ、それは……まあ、事実ですけど」
事実なのか……。
「意外ですね。てっきり僕、ゆりちゃん先生はディアに詳しいのかと思っていたんですけど」
「いえ、由梨絵先生は、あまりディアには詳しくありませんね。むしろ逆で、ネットワークやコンピュータ関係の話は基本的に苦手です。有体に言って、機械音痴なので」
だからそういったことは全部僕が担当ですよ、とタカヤ先生。
佐倉先生も、これについては反論がないらしく控えめに応じる。
「そ、そうですね……。これでも興味はあって、最近勉強を始めたんですけど……」
その後も、珀はいくらか質問を続ける。ディアについての勉強はいったいどんなことをしているのか、とか。先生はどうして英語の教師になったのか、とか。俺たちが目的としている調査に関係のありそうなことから、完全に珀の興味本位の質問まで様々に。初回の接触でこうまで親しげに話し、その会話からすんなりと情報を集めていくあたり、さすがは珀のコミュニケーション能力といったところだ。
さて、しかしながらいつまでも雑談に興じてはいられない。珀が話しやすい空気を作ってくれたたところで、俺も一歩前に出て口を開く。
「あの、佐倉先生」
「はい。えっと、那城君でしたね。何ですか?」
佐倉先生は微笑みながら、俺の方へと視線を向ける。
「さきほど言った通り、俺たちがここへ来たのは、ディアとしてのタカヤ先生に興味があったからです。特に、人間により近いと言われるディアがどんな風に動いているのか、すごく気になっていて……そこで相談なんですが、もしよかったら、直接データを見せてもらえませんか?」
この発言を聞くなり、隣の珀はぎょっとした顔をしてこちらを見た。
当然、俺にはその理由がよくわかっていた。自分の所有するディアやデバイスを安易に他人に調べさせるような行為を、普通の人はしないからだ。家族や友人ならまだしも、初対面の人に明け透けにデータを見せることは、一般的にはほとんどない。それはたとえるなら、家に来客があっても、簡単に自分の書斎や寝室に招き入れたりしないのと似た感覚だ。実際、俺だって自分のノートパソコンは、滅多に他人には触らせないのだから。
ゆえに、もちろん、俺の要求はいささか無礼なものであり、佐倉先生やタカヤ先生にも、驚かれることは予想できた。極めて単刀直入な切り出しだったのは認めよう。ただ、その上でこちらにも考えがあった。データを見せてもらう際は、佐倉先生の立ち会いのもとで行うことを提案する。まあ、先生の見ている前であっても、求めている情報のいくらかを入手することはできるだろう。おそらくその条件でも最初は断られると思うが、何とかさらに理由を付け、押し切ることに全力を注いで――と、俺が脳内で戦略を練っていた矢先。
「ええ、そういうことなら構いませんよ。ね、タカヤ先生?」
……え?
「他でもない、生徒の頼みですからね。先生としては、できる限り協力を惜しみません」
一瞬、俺は何を言われたのか理解することができなかった。
しかし、佐倉先生が同意を求めた先のタカヤ先生が
「そうですね。佐倉先生が、そう言うのでしたら」
と答えるところまでを耳にして、ようやくその意図を汲み取るに至る。しかも、あまりの意外さから俺が確認をするよりも早く、佐倉先生が
「じゃあ、タカヤ先生はここで二人の相手をしてあげてください。その間、私は隣の倉庫の備品確認を済ませてしまいますから」
と言って歩き去ろうとするのを見て、俺は目玉が飛び出すくらいの衝撃を受けた。隣の珀も、口を半開きにして静止しているあたり、思うところは同じらしい。
すんなりディアのデータを見せることを了承し、その上、自分は別のところへ行ってしまうだなんて……余りに大雑把というか不用心というか、セキュリティ意識に欠けすぎでは? 初対面の来客に家の留守番を任せるようなものだ。
けれども、すぐに珀は自分の役割を思い出したかのようにはっとして、佐倉先生についていく。その際、俺に合図を送るのも忘れない。珀の目は「そっちは任せた」と語った。
「あ、ゆりちゃん先生。待ってください! 僕もそれ、手伝います!」
「あら、本当ですか? でも」
「大丈夫です。あとで那城君に色々聞きますから」
「そうですか、助かります。では、遠山君には、タカヤ先生にお願いしようと思っていた高いところの備品確認をお願いします」
私の身長だと全然届かないんですよ、と冗談めかして佐倉先生は笑う。
「任せてください!」
そうして、二人は楽しく雑談をしながら隣――と言ってもかなり離れた倉庫の方へ向かっていったのだった。あっさり俺とタカヤ先生だけが残され、その場は途端に静まり返る。
「では、僕は3Dモニターを投影しながら、スタンバイ状態に移行します。僕の意識はいったん眠りにつくことになりますので、質問などあれば、今ここで伺いますが」
「え? あ、ああ……」
タカヤ先生はにこやかに告げつつ、俺の目の前に良質の立体モニターを出現させた。そこには既に『スタンバイ状態に移行中』と表示されている。
「いえ、大丈夫です」
「そうですか。では、那城君、ごきげんよう」
その言葉を最後に、タカヤ先生は近くの椅子に腰掛けながら瞳を閉じた。
……さて。すんなり事が運ぶのは有り難いが、それもそれでゆき過ぎると戸惑いが隠しきれない。とはいえ、いつまでも面食らってなどいられないのも、また事実。陽はもう低いし、佐倉先生が戻るまでに、そう時間もないだろう。さっさと調べてしまわなくては。
俺は調査に乗り出す。まず前提として、タカヤ先生の左の手の甲――そこに印字されているシリアルナンバーを確認した。肌色に薄く刻まれた、独特の文字列が見える。
Sera-003-3085KS207A
ディアのシリアルナンバーはどれも同じ形式になっていて、前から搭載OS名、マイナーチェンジ数、製造年月、その月に製造された順番というように、アルファベットと数字で構成されている。つまりこのディアは、《佐倉由梨絵》という名のOSが三回マイナーチェンジされたものを積んでいて、三千八十五年の一月に製造された二百七番目のディアということになる。一月を表しているのはKSで、末尾のAは製造順の千の位が増えるにつれてB、Cと増えていく。
そしてこいつは、翠から聞いていたクラッカーのシリアルナンバーと、見事に一致するのだ。どうやら調査対象に間違いはないようである。
俺は早々とモニターを見ながら、データの確認作業を進めていった。
最初はもっとも一般的なディレクトリ。続いて、めぼしいところから順々に目を通して、怪しげなソフトウェアやアプリケーションがあれば、その都度確認していく方針。
正直、他人のディアのデータなどそうそう見るようなものではないから、予想などまったくしていなかったのだが、結論から言えば、確認自体はスムーズだった。むしろ怪しいデータどころか、ほとんど目に付くようなものがないというのが、調べてみての感想だ。
これは非常に意外である。俺自身はディアを所有していないが、それでも普段の生活や珀との会話などから察するに、もう少し色々なものが入っているのだと思っていた。ガラテイアが公式で配布しているGPSやネットワークブラウザはインストールが任意だからいざ知らず、せめてアンチウィルスソフトくらいはあっても良さそうなものなのだが……どうなのだろう。
いずれにしても、クラッキングに関わるようなものは見当たらない。まあ、強いて気になる点を挙げるとすれば、少し挙動が重いくらいか。佐倉先生は、ディアどころかそもそも機械自体にかなり疎いという話だったし、おそらくメンテナンスをしていないのだろう。
ただ改めて思うと、本当に何も入っていない。ディアってのは、果たしてこんなんでも役に立つものなのだろうか? いや、今はそんなことはどうでもいいか。
あと目を通していないのは、OS関連のディレクトリと動作ログくらい……もしこのディアが半年前のクラッキングに使われたのならば、そのときのログが残っている可能性があるから、優先すべきは後者だろうか。無論、クラッキングをしておきながらログを残したままそれを他人に見せるようなことは考えにくいし、そもそもこれだけディアの中を漁って何もなければ、ほとんど佐倉先生は白だと思うけれども、一応、駄目押しの確認だ。
そして、動作ログの格納されたディレクトリを、俺が開いたときだった。
脳に、一筋のわずかな違和感が走り抜ける。次いで表示されたログを見て気づいた。
「一番古いログで、三ヶ月前……?」
違和感は唐突に膨れ上がっていく。不審に思って何度か操作を繰り返すが、それ以前のログは出てこない。モニターに映し出されるのは、今年の二月から現在までのログだけだ。つまり、半年前のクラッキングのログどころか、今から三ヶ月前の時点より昔に、このディアが動いていた記録全てが、存在しないことになる。これはいったい、どういうことだ?
一つには、このディアは動き始めてまだ三ヶ月しか経っていないという推測。しかし翠の話を聞く限り、これは少々、信憑性がない。だとすれば意図的にログが消去された可能性が残る。
誰に? もちろん佐倉先生に、だ。そういうことに、なってしまう。
けれど、あれだけディアに疎くて、ログの消去なんてできるだろうか。いやいや、それを言い出したら、そもそもクラッキングさえ疑わしいではないか。
俺の中では、佐倉先生はほぼ白という結論が出かかっていたにも関わらず、ここにきて見過ごせないものを見てしまった。ああ、もう少し入念に調べるべきか。
そう思ってモニターに向き直ったところで、遠くの方から声がした。
「すごいです。遠山君って、ディアにとっても詳しいんですね。とても勉強になりました」
「あはは、それほどでもないですよ」
聞こえてきたのは、珀と佐倉先生の声。しまった。もう戻ってきてしまったみたいだ。
「ところで先生。ディアに興味があるのでしたら、ディアにまつわる噂とかにも、興味あったりしませんか?」
「噂、ですか。へえ、どんなのがあるんですか?」
だんだん声が近づいてくる。後半になるにつれて、会話の内容までよく聞こえる。おそらくあと数秒で、ここまでたどり着くだろう。やむを得まい。切り上げるしかないようだ。
「えっとですね。ディアによって計算された、この世界最後の日とか。大昔には、ディアは二年おきに性能が二倍になっていたらしいとか。ディアに搭載するとまるで人間のように動く、通称ココロプログラムとか。僕、今の授業のレポートで、こういう言い伝えみたいなのを調べているんですよ」
「へえ! 、何だかとても面白そうですね」
「でしょう?」
「私は……そうですね。特に最後の、ココロプログラムというものに興味があります」
「お、さすが先生! 目聡いですね! 実は僕も、その話が一番したくてですねー」
珀の声は活き活きとしていて、普段よりも少し大きい。楽しんでいるのも事実だろうが、同時に、自分たちが戻ってきたことを俺に知らせる配慮だろう。そんなことを思いつつ、俺はモニター上で開かれたディレクトリを一つずつ閉じていく。
気づけばもうすっかり陽が落ちていて、辺りが暗くなっていることを認識する。見上げた空は深い藍色。しかし飲み込まれていくオレンジ色とは対照的に、俺の抱いた違和感は、徐々に徐々に広がっていくばかりだった。
そうして何とか無事に珀や佐倉先生と合流を果たし、一通りの礼を告げたところで、この日の黄昏は終わりを迎えた。
「位置について。用意!」
横から聞こえるかけ声に続き、パンッ! と大きな号砲が鳴り響く。瞬時に地を蹴って駆け出し互いに肉薄、抜きつ抜かれつの接戦の末、わずかに俺の肩が先にゴールをくぐる。
「っし! 勝った!」
「あー! あとちょっとだったのに!」
俺は勝利に思わずガッツポーズ。珀は心底悔しそうだ。
「……って! ちげーよ!」
しかし、唐突に湧き上がった衝動が、俺にそう叫ばせる。
「誰が短距離走するためにこんなとこ来とるか! 俺たちは放課後の陸上部で気持ちよく汗流しにきたわけじゃねぇんだよ! 何でこんなことになってんだ!」
「えー。いやあ、何でって言われても……成り行きだよねえ」
そう。なぜかと問われれば、答えは成り行きだ。
翠の要求で陸上部副顧問とそのディアを調べるにあたって、俺と珀はとりあえず、放課後の部活動の時間にここまでやってきた。そうして練習の準備をする副顧問とそのディアを見つけたまでは良かったが、校内で持ちきりの噂が拍車をかけたこともあり、部にはものすごい数の生徒が集まっていた。しかも、ちょうど一年生の仮入部期間と重なっており、どう見ても参加人数過多であるそんな状況でたった二人の三年生が目立つはずはなく……俺たちはあえなく一年生の道連れで一日練習体験ツアーへと連行された。あれよあれよという間にジャージ姿に着替えさせられ、こうしてせっせとトラックを走っている。
「しかしなあ、だからって真面目に練習までしなくてもいいだろ。スプリンター目指しにきたわけじゃねーぞー」
「でもさ蓮、これって実際、悪くない方法だと思うんだよ。授業のある日中は長話する時間ないし、狙うなら部活のあとがベスト。それなら他の人にも聞かれる心配は少ないよ」
「それって、このまま今日の練習の最後まで参加するって意味か?」
「そーだねー。たぶん、みんなあの副顧問の先生と話したいだろうし、今日っていうか、数日は様子見じゃない?」
す、数日……こりゃ間違いなく筋肉痛だな。
しかして珀の予想通り、それから二、三日の間は、これといった好機を見出せなかった。俺たちは遠巻きに副顧問とそのディアを眺めるばかり。見たところ件の副顧問は非常に人当たりのよい性格で、練習中は部員へのアドバイスやサポートに尽力し、それ以外では、やってきた生徒たちに対して分け隔てなく丁寧に接していた。聞けばまだ二十代のようで、その若さゆえか、勉強や部活のことから他愛のない雑談まで、生徒と話が合うのだろう。
そしてその容姿には、確かに幾分、驚かされた。生徒と並ぶとまるで見分けのつかない小柄な体躯。かなりの童顔に浮かぶ黒目がちの大きな瞳と、笑ったときの八重歯が印象的。おまけに声は、まるで少女のような快活なそれであり、話し方だけが年相応に大人びているものだから、これが大きなギャップを生む。本名、佐倉由梨絵から、愛称はゆりちゃん先生だそうだ。先生でありながら、生徒にとってはまるで姉のような、友達のようなポジションに、収まるべくして収まっている。
対してディアの方は、長身で優しげな物腰、爽やかな好青年にも見える日本人男性を元としたモデルである。ただ、見た目に反しておっちょこちょいというかドジというか、部の備品を運ぶ際、その重量にバランスを崩し、転んでヘマをやらかしている姿をよく見かけた。そんな姿が生徒の心を掴んだのか、今では所有者の佐倉先生と並んで人気の中心というのは、確かに噂通りのようだ。俺としては、そうやって失敗をするところまで含めてプログラムされた行為なのか、あるいはただスペックが低いだけなのかは気になるところだが、どちらにしても、それを取り繕う曖昧な笑顔を端から眺めるにつけ、ディアらしからぬ人間性を垣間見るような気分にもなった。
見れば見るほど、色々な意味で本当にディアなのかと疑問を抱いてしまうが、しかし何のことはない。彼の左手の甲には、はっきりシリアルナンバーが刻まれていた。遠目では詳しいところまで読み取れなくとも、ひとまず彼がディアであることは間違いなさそうだ。
一般的にはディアを所有する場合、自分と同姓のモデルを持つ人の方が多い。けれども、佐倉先生はこの限りではないらしい。まあ、そういう人も、いるにはいる。
そして佐倉先生は、彼のことをタカヤ先生と呼ぶ。それはOS名ではなく、彼に与えられた本当の“名前”だ。
もちろん、ディアを名前で呼ぶことは、やや常識の外にある行為。赴任当初は皆も戸惑いを覚えていたようだが、しかし今では、学内に限りその名が浸透したらしい。理由は二つあって、一つは、周囲が佐倉先生の誠実な人柄を知り、合わせているから。もう一つは、当のタカヤ先生がとても人間らしく振る舞うので、周囲も思わず名前で呼んでしまうのだとか。現に俺がこうして陸上部に顔を出している数日のうちにも「ディアは人間じゃないけど、タカヤ先生はちょっと人間に見えちゃいそうだよね」なんて話している生徒を何度か見かけた。タカヤ先生は、正確には教員ではない。けれども学内にいる大人を先生と呼称するのは、このコミュニティにおいては一番自然で、受け入れ易い結果となった。
そうして日々身体に蓄積されていく乳酸と戦いながら、いい加減太腿辺りの筋肉痛に限界を感じる頃になって、ようやく好機が訪れる。
暮れる西日が競技場を照らす中、練習道具を片付けたあとに珀と二人で帰ろうとすると、近くにあった倉庫の中に、佐倉先生の姿が見えた。下校時間ぎりぎりのためか、周りに他の人影はなく、これ幸いと珀が先生に声をかけた。
「あ! ゆりちゃんせんせー! 何してるんですかー?」
どうでもいいけど、ほとんど初対面でその呼称が使える珀はすごいと思う。
俺たちが近づくと、佐倉先生は倉庫から出てきて微笑む。頭一つ分ほど下の目線。清潔感ある切り揃えられた短い黒髪。まとったウィンドブレイカーは袖口がやや余っている。
「ああ、ちょっと備品の整理をしていまして……あれ、あなたたちは確か、仮入部の」
すぐに珀が元気よく「はい!」と返事をする。しかしすぐにかぶりを振って、
「あ、いえ。実は僕たち、仮入部ではないんです。僕たち、本当は三年生でして」
「……三年生、ですか?」
すると佐倉先生は小首を傾げた。まあ、その反応は至極まっとうと言えるだろう。普通の三年生は、こんな時期に仮入部には来ない。
「そうなんです。僕は三年C組の遠山珀っていいます。こっちは、A組の那城蓮。僕たち二人ともディア工学に興味があって、来年からは、大学でそれを専攻したいなーと思っているんですよ。それでですね、最近噂で、ゆりちゃん先生のディア――タカヤ先生の話を聞いたんです」
「あらあら、そうなんですか」
珀がてきぱきと自分、そして俺の紹介をしつつ、嘘八百の来訪理由を説明する。
それを聞いた佐倉先生は、疑うこともなく優しげに応じてくれた。
「じゃあ、遠山君と那城君は、タカヤ先生に用があって、陸上部に?」
「えっと、はい」
「まあまあ、それはそれは、三年生で忙しい時期なのに、ありがとうございます」
「いえ、こっちこそすみません。冷やかしで」
「いえいえ、いいんですよ。少しでも人が増えると、部にも活気が出ますからね。それに、遠山君と那城君、結構良い線いってると思います。どうですか? このまま卒業まで、陸上部に居着いてもいいですよ」
さすがにここまで言われてしまうと、純粋な陸上競技への興味からここへ来たわけではないことに、いくらか罪悪感を覚えてしまう。良い線云々はどう考えても世辞だろうが……しかし、本人に世辞を言っている自覚はなさそうだ。
珀は「あはは」と曖昧に笑って応じる。俺もその後ろで、軽く会釈をしておいた。
「あ、すみません。それで、タカヤさんに用なんでしたね。今、校舎の方に、隣の倉庫の鍵を取りに行ってもらっていて……」
佐倉先生がそう説明する。ちょうどその言葉が終わるかどうかのところだった。
「ええ。鍵、取ってきましたよ」
「ひゃうっ!」
突然、倉庫の影、佐倉先生の背後から声がして、驚いた佐倉先生は素っ頓狂な声を上げた。現れたのはタカヤ先生だ。
「ち、ちょっとタカヤ先生! 何するんですか! 変な声出ちゃったじゃないですか!」
「ああ、申し訳ありません。そんなつもりはなかったんですが」
タカヤ先生は持ってきた鍵を差し出しながら、落ち着いた笑みでそう答えた。
佐倉先生はそれを受け取りつつ、さらに追求する。
「本当ですか!? タカヤ先生は、いつも口ではそう言いますけど!」
「そんなこと……いや、そうですね。佐倉先生に対しては、結構あるかもしれません。じゃあ、さっきのは嘘で」
「もうっ!」
佐倉先生は、その短い腕をぶんっと回してタカヤ先生の胸を叩いた。身長差的に、ちょうどそこが叩きやすい部位なのだろう。しかしまったく痛くはなさそうだ。
タカヤ先生はその様子を微笑ましそうに眺めている。しばらく佐倉先生をあしらったあと、やがて俺たちの方へ視線を向けた。
「ところで、遠山君に那城君。さきほど僕を呼びましたか?」
まあ、呼んだといえば呼んだが……佐倉先生が必死に抗議をしているこの状況で話を進めていいものか、いささか疑問なところである。
結局、佐倉先生の猛攻が多少収まるまで待ってから、再び珀が口を開いた。
「はい。唐突ですが、タカヤ先生はディアなんですよね。最近のディアはだいぶ人間に近づいてきましたけど、でもタカヤ先生は、中でも極めて人間そっくりに見えるって、生徒の間では噂になっているんですよ。僕たち、そんなタカヤ先生に是非、興味があって」
「そうですか。それは光栄ですね」
「タカヤ先生の人格プログラムは、プリインストールのものではありませんよね。オリジナルのデータを構成したのは、ゆりちゃん先生なんですか?」
「はい。僕はそう認識しています。ね、佐倉絵先生?」
尋ねられた佐倉先生は、しかし先の件をまだ怒っているのか、拗ねた様子で返答する。
「私は、タカヤ先生をこんな性格にした覚えはないんですけどね!」
「いえいえ。ちゃんと僕は、佐倉先生が言った通りに構成された人格プログラムで動いていますよ。安心してください」
タカヤ先生は笑いながら答えると、佐倉先生の頭を優しく撫でる。まるで子供をあやすような要領だったが、それでも佐倉先生は、膨らませた頬を次第に萎ませたようだった。
……って、それで収められてしまうのは、大人としてどうなんだろうか佐倉先生。俺は少々呆れながら心の中でそう突っ込む。
しかし珀の方は、それとはまた別の点が気になったらしい。
「あの、タカヤ先生。今、『由梨絵先生の言った通りに』って言いましたよね。それは、本当なんですか?」
「え? ああ、はい。言いましたし、本当ですよ。佐倉先生は、僕に搭載されている人格プログラム構成用の音声入力インターフェースを使って、この人格を作ってくれました」
それを聞いて、珀は感心したように驚いた。
「すごいですね。音声入力でディアの人格を構成するのは……相当な時間と労力がかかる作業じゃないですか」
「そうですね。僕もそう思います。でも、間違いなく事実です」
「どうしてその方法を? 人格プログラムの構成は、僕も昔、少しばかり手出したことがあるんですけど……普通にキーボードでやっても途方もなく大変なのに、あまつさえ音声入力インターフェースだなんて。こう言っちゃなんですけど、あの音声入力のインターフェースは実装初期段階から全然更新されていなくて、使い勝手もかなり悪いですよね」
珀のその質問は、ほとんど純粋な疑問からくるものだったのかもしれない。一人のディア所有者として。あるいは、直接ではなくとも、そのインターフェースを開発している側の人間として。俺だって、もし仮にディアの人格を構成しようと思ったとしても、音声入力なんて絶対に使わない。まだキーボードでせこせこ打ち込んだ方が楽というものだ。
けれども、当の佐倉先生は不思議そうな顔で首を傾げた。
「えっと……音声、いんたーふぇーす、ですか?」
その様子を見て、タカヤ先生がまた、からからと笑う。
「佐倉先生にそういう質問をしても、たぶん伝わりませんよ。佐倉先生は、カタカナの連なった単語は苦手ですから」
すると、横で聞いていた佐倉先生は異議有りとばかりに手を挙げた。
「ま、待ってください! 私は別に、カタカナ用語が苦手なわけではありませんよ! 断じて! それは英語教師としての沽券に関わります!」
「では言い換えましょう。佐倉先生にテクニカルタームは通じません」
「そ、それは……まあ、事実ですけど」
事実なのか……。
「意外ですね。てっきり僕、ゆりちゃん先生はディアに詳しいのかと思っていたんですけど」
「いえ、由梨絵先生は、あまりディアには詳しくありませんね。むしろ逆で、ネットワークやコンピュータ関係の話は基本的に苦手です。有体に言って、機械音痴なので」
だからそういったことは全部僕が担当ですよ、とタカヤ先生。
佐倉先生も、これについては反論がないらしく控えめに応じる。
「そ、そうですね……。これでも興味はあって、最近勉強を始めたんですけど……」
その後も、珀はいくらか質問を続ける。ディアについての勉強はいったいどんなことをしているのか、とか。先生はどうして英語の教師になったのか、とか。俺たちが目的としている調査に関係のありそうなことから、完全に珀の興味本位の質問まで様々に。初回の接触でこうまで親しげに話し、その会話からすんなりと情報を集めていくあたり、さすがは珀のコミュニケーション能力といったところだ。
さて、しかしながらいつまでも雑談に興じてはいられない。珀が話しやすい空気を作ってくれたたところで、俺も一歩前に出て口を開く。
「あの、佐倉先生」
「はい。えっと、那城君でしたね。何ですか?」
佐倉先生は微笑みながら、俺の方へと視線を向ける。
「さきほど言った通り、俺たちがここへ来たのは、ディアとしてのタカヤ先生に興味があったからです。特に、人間により近いと言われるディアがどんな風に動いているのか、すごく気になっていて……そこで相談なんですが、もしよかったら、直接データを見せてもらえませんか?」
この発言を聞くなり、隣の珀はぎょっとした顔をしてこちらを見た。
当然、俺にはその理由がよくわかっていた。自分の所有するディアやデバイスを安易に他人に調べさせるような行為を、普通の人はしないからだ。家族や友人ならまだしも、初対面の人に明け透けにデータを見せることは、一般的にはほとんどない。それはたとえるなら、家に来客があっても、簡単に自分の書斎や寝室に招き入れたりしないのと似た感覚だ。実際、俺だって自分のノートパソコンは、滅多に他人には触らせないのだから。
ゆえに、もちろん、俺の要求はいささか無礼なものであり、佐倉先生やタカヤ先生にも、驚かれることは予想できた。極めて単刀直入な切り出しだったのは認めよう。ただ、その上でこちらにも考えがあった。データを見せてもらう際は、佐倉先生の立ち会いのもとで行うことを提案する。まあ、先生の見ている前であっても、求めている情報のいくらかを入手することはできるだろう。おそらくその条件でも最初は断られると思うが、何とかさらに理由を付け、押し切ることに全力を注いで――と、俺が脳内で戦略を練っていた矢先。
「ええ、そういうことなら構いませんよ。ね、タカヤ先生?」
……え?
「他でもない、生徒の頼みですからね。先生としては、できる限り協力を惜しみません」
一瞬、俺は何を言われたのか理解することができなかった。
しかし、佐倉先生が同意を求めた先のタカヤ先生が
「そうですね。佐倉先生が、そう言うのでしたら」
と答えるところまでを耳にして、ようやくその意図を汲み取るに至る。しかも、あまりの意外さから俺が確認をするよりも早く、佐倉先生が
「じゃあ、タカヤ先生はここで二人の相手をしてあげてください。その間、私は隣の倉庫の備品確認を済ませてしまいますから」
と言って歩き去ろうとするのを見て、俺は目玉が飛び出すくらいの衝撃を受けた。隣の珀も、口を半開きにして静止しているあたり、思うところは同じらしい。
すんなりディアのデータを見せることを了承し、その上、自分は別のところへ行ってしまうだなんて……余りに大雑把というか不用心というか、セキュリティ意識に欠けすぎでは? 初対面の来客に家の留守番を任せるようなものだ。
けれども、すぐに珀は自分の役割を思い出したかのようにはっとして、佐倉先生についていく。その際、俺に合図を送るのも忘れない。珀の目は「そっちは任せた」と語った。
「あ、ゆりちゃん先生。待ってください! 僕もそれ、手伝います!」
「あら、本当ですか? でも」
「大丈夫です。あとで那城君に色々聞きますから」
「そうですか、助かります。では、遠山君には、タカヤ先生にお願いしようと思っていた高いところの備品確認をお願いします」
私の身長だと全然届かないんですよ、と冗談めかして佐倉先生は笑う。
「任せてください!」
そうして、二人は楽しく雑談をしながら隣――と言ってもかなり離れた倉庫の方へ向かっていったのだった。あっさり俺とタカヤ先生だけが残され、その場は途端に静まり返る。
「では、僕は3Dモニターを投影しながら、スタンバイ状態に移行します。僕の意識はいったん眠りにつくことになりますので、質問などあれば、今ここで伺いますが」
「え? あ、ああ……」
タカヤ先生はにこやかに告げつつ、俺の目の前に良質の立体モニターを出現させた。そこには既に『スタンバイ状態に移行中』と表示されている。
「いえ、大丈夫です」
「そうですか。では、那城君、ごきげんよう」
その言葉を最後に、タカヤ先生は近くの椅子に腰掛けながら瞳を閉じた。
……さて。すんなり事が運ぶのは有り難いが、それもそれでゆき過ぎると戸惑いが隠しきれない。とはいえ、いつまでも面食らってなどいられないのも、また事実。陽はもう低いし、佐倉先生が戻るまでに、そう時間もないだろう。さっさと調べてしまわなくては。
俺は調査に乗り出す。まず前提として、タカヤ先生の左の手の甲――そこに印字されているシリアルナンバーを確認した。肌色に薄く刻まれた、独特の文字列が見える。
Sera-003-3085KS207A
ディアのシリアルナンバーはどれも同じ形式になっていて、前から搭載OS名、マイナーチェンジ数、製造年月、その月に製造された順番というように、アルファベットと数字で構成されている。つまりこのディアは、《佐倉由梨絵》という名のOSが三回マイナーチェンジされたものを積んでいて、三千八十五年の一月に製造された二百七番目のディアということになる。一月を表しているのはKSで、末尾のAは製造順の千の位が増えるにつれてB、Cと増えていく。
そしてこいつは、翠から聞いていたクラッカーのシリアルナンバーと、見事に一致するのだ。どうやら調査対象に間違いはないようである。
俺は早々とモニターを見ながら、データの確認作業を進めていった。
最初はもっとも一般的なディレクトリ。続いて、めぼしいところから順々に目を通して、怪しげなソフトウェアやアプリケーションがあれば、その都度確認していく方針。
正直、他人のディアのデータなどそうそう見るようなものではないから、予想などまったくしていなかったのだが、結論から言えば、確認自体はスムーズだった。むしろ怪しいデータどころか、ほとんど目に付くようなものがないというのが、調べてみての感想だ。
これは非常に意外である。俺自身はディアを所有していないが、それでも普段の生活や珀との会話などから察するに、もう少し色々なものが入っているのだと思っていた。ガラテイアが公式で配布しているGPSやネットワークブラウザはインストールが任意だからいざ知らず、せめてアンチウィルスソフトくらいはあっても良さそうなものなのだが……どうなのだろう。
いずれにしても、クラッキングに関わるようなものは見当たらない。まあ、強いて気になる点を挙げるとすれば、少し挙動が重いくらいか。佐倉先生は、ディアどころかそもそも機械自体にかなり疎いという話だったし、おそらくメンテナンスをしていないのだろう。
ただ改めて思うと、本当に何も入っていない。ディアってのは、果たしてこんなんでも役に立つものなのだろうか? いや、今はそんなことはどうでもいいか。
あと目を通していないのは、OS関連のディレクトリと動作ログくらい……もしこのディアが半年前のクラッキングに使われたのならば、そのときのログが残っている可能性があるから、優先すべきは後者だろうか。無論、クラッキングをしておきながらログを残したままそれを他人に見せるようなことは考えにくいし、そもそもこれだけディアの中を漁って何もなければ、ほとんど佐倉先生は白だと思うけれども、一応、駄目押しの確認だ。
そして、動作ログの格納されたディレクトリを、俺が開いたときだった。
脳に、一筋のわずかな違和感が走り抜ける。次いで表示されたログを見て気づいた。
「一番古いログで、三ヶ月前……?」
違和感は唐突に膨れ上がっていく。不審に思って何度か操作を繰り返すが、それ以前のログは出てこない。モニターに映し出されるのは、今年の二月から現在までのログだけだ。つまり、半年前のクラッキングのログどころか、今から三ヶ月前の時点より昔に、このディアが動いていた記録全てが、存在しないことになる。これはいったい、どういうことだ?
一つには、このディアは動き始めてまだ三ヶ月しか経っていないという推測。しかし翠の話を聞く限り、これは少々、信憑性がない。だとすれば意図的にログが消去された可能性が残る。
誰に? もちろん佐倉先生に、だ。そういうことに、なってしまう。
けれど、あれだけディアに疎くて、ログの消去なんてできるだろうか。いやいや、それを言い出したら、そもそもクラッキングさえ疑わしいではないか。
俺の中では、佐倉先生はほぼ白という結論が出かかっていたにも関わらず、ここにきて見過ごせないものを見てしまった。ああ、もう少し入念に調べるべきか。
そう思ってモニターに向き直ったところで、遠くの方から声がした。
「すごいです。遠山君って、ディアにとっても詳しいんですね。とても勉強になりました」
「あはは、それほどでもないですよ」
聞こえてきたのは、珀と佐倉先生の声。しまった。もう戻ってきてしまったみたいだ。
「ところで先生。ディアに興味があるのでしたら、ディアにまつわる噂とかにも、興味あったりしませんか?」
「噂、ですか。へえ、どんなのがあるんですか?」
だんだん声が近づいてくる。後半になるにつれて、会話の内容までよく聞こえる。おそらくあと数秒で、ここまでたどり着くだろう。やむを得まい。切り上げるしかないようだ。
「えっとですね。ディアによって計算された、この世界最後の日とか。大昔には、ディアは二年おきに性能が二倍になっていたらしいとか。ディアに搭載するとまるで人間のように動く、通称ココロプログラムとか。僕、今の授業のレポートで、こういう言い伝えみたいなのを調べているんですよ」
「へえ! 、何だかとても面白そうですね」
「でしょう?」
「私は……そうですね。特に最後の、ココロプログラムというものに興味があります」
「お、さすが先生! 目聡いですね! 実は僕も、その話が一番したくてですねー」
珀の声は活き活きとしていて、普段よりも少し大きい。楽しんでいるのも事実だろうが、同時に、自分たちが戻ってきたことを俺に知らせる配慮だろう。そんなことを思いつつ、俺はモニター上で開かれたディレクトリを一つずつ閉じていく。
気づけばもうすっかり陽が落ちていて、辺りが暗くなっていることを認識する。見上げた空は深い藍色。しかし飲み込まれていくオレンジ色とは対照的に、俺の抱いた違和感は、徐々に徐々に広がっていくばかりだった。
そうして何とか無事に珀や佐倉先生と合流を果たし、一通りの礼を告げたところで、この日の黄昏は終わりを迎えた。
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