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第七章
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俺は一人、世界樹主幹の内部に入る。翠と珀には悪いが、こうするべきだと俺は思った。俺にはわかる。不遜でも自惚れでもなく、この上で彼女は俺を待つ。俺だけを待つのだ。
一刻も早く彼女に会いたい。その想いが、強く強く、俺を突き動かしている。俺は彼女に伝えなければならない。彼女が俺に求めた答を。
この胸にある答を――
世界樹内部は、一見して吹き抜けの層構造になっていた。上下の行き来は点在するエレベータによって行われ、その間の移動には一切のセキュリティがかけられていない。一度中に入ってしまえばほとんどの行為が自由であった。これにはある種、合点がいくところがある。本来、誰であっても世界樹外郭のセキュリティを不正に突破できるはずはないのだから、それ以上に内部セキュリティを増やしても単なる蛇足。自宅の玄関の鍵は頑丈でも困らないが、部屋の扉一つ一つにいちいち鍵がついていたら、たいそう鬱陶しいではないか。
俺は周囲の構造から地理を把握しつつ、どうにか上へと進んでいく。地図目当てで無意識的に何度もシータを取り出そうとするが、その度に自分が手ぶらであることに気づく。今の俺は自分の現在位置すら受信できない。丸腰の身体は妙にふわふわして落ち着かない。
そうして、いくつのエレベータを乗り継いだ頃だろうか。あるときふと、視界に映る光景が変化した。急に三百六十度が透明になり、これまで一切伺うことのできなかった外界が見えるようになったのだ。眼下にあるのは大きな、そして色鮮やかな花弁。どうやら俺は、花の持つ構造で言うところの、雌しべの部分を上へ移動しているらしかった。
周囲は宇宙空間だ。ここまで来ると、もはや昼や夜の概念は曖昧になる。広大な花びらには太陽の光が注がれ、その下には青い地球が見える。本来は無重力のはずだろうが、エレベータが相当な速度で動いているのか、はたまた重力制御装置でもあるのか、俺の身体感覚は地上とさほど変わらない。
やがてまた視界が閉ざされ、エレベータが停止する。待ち望んだ扉が、やっと開く。
辿り着いたのは世界樹の最上階、そこはいわゆる管制室のような様相だった。学校の教室二つ分くらいの広さがあり、壁には大小様々なモニター。音はなく、ただ静寂を全身で感じる。ひたすらに無機質な印象を受けるながら、俺はゆっくりと、足音に気遣いながら奥へ歩いていく。
すると、唐突に継ぎ足したような渡り廊下が見つかった。繋がる先は半径三メートルほどの円い小部屋で、一言で表せば、そこはティールームだった。ブラウンを基調とする暖色系で設えられた空間。照明は柔らかな蜂蜜色。壁には洒落た飾り窓といくらかの棚がある。何種類ものティーポットやカップ&ソーサーが、あたかも美術品のように並べられ、それらに取り囲まれた中心に置かれるのは、アンティーク調の一脚丸テーブルに二脚のチェア。
座っているのはもちろんのこと、彼女であった。
「……探しましたよ」
目の前の彼女は、相も変わらず奇抜な黒のゴシックドレスを見事に着こなし、優雅な仕草で右手にカップを携えている。その光景が、あの展望台で見た彼女に、よくよく重なる。
彼女は穏やかに俺を一瞥すると、テーブル上のポットを手に取り、新しいカップをそっと満たした。それを、自然な動作で俺の前に差し出す。着席を促されているのだと思った。
俺は彼女を見つめながら静かに腰掛ける。カップに入っていたのは予想通り紅茶で、ほどよい湯気が立ち昇っている。その紅茶の暖かさは、彼女が俺の来訪を予期していたのだと語っているようであった。
「その紅茶は、ダージリンよ」
不意に彼女の唇が開き、次いで俺は自分の手元に視線を落とした。
「以前あなたに教えたウバと同じく、世界三大銘茶の一つ。ダージリンには春、夏、秋の三つのクオリティシーズンがあって、これはそのうち、夏に摘んだ茶葉。爽やかな渋味や甘味と、特徴的な香りを感じて頂ければ上出来ね」
その言葉に誘われ、俺は目の前の紅茶を口元へと運ぶ。すぐに感じたのは、鼻孔を通り抜けていく樹のような甘い香り。けれど、実際に味わってみると渋味や、わずかな苦味もあって、様々な味が重なって感じられた。
「紅茶にはね、とても面白い性質があるの」
鈴の鳴るような音の、綺麗な声が耳に届く。
「飲み比べてみるとわかるのだけれど、スプーン一杯分の茶葉にカップ一杯分の湯で淹れた紅茶と、スプーン二杯分の茶葉にカップ二杯分の湯で淹れた紅茶。どちらがより美味しいかというと、それは間違いなく後者なの。理由は、対流するよりたくさんの湯の中で茶葉が泳げば、それだけ自然な抽出がなされるからで、茶葉が潰れることもなく、したがって不必要な苦味も出ない。その説明は至極合理的で、とても理解のできるものだわ」
彼女の語りはゆっくりと、まるで本を読み聞かせるかのように進められる。その落ち着いたリズムに呼応して、大きく透明なポットの中で、茶葉が悠々と漂っている。
「でもね。私はこうも思うのよ。この事実は、紅茶が、それを飲む人たちに教えてくれているの。一人で飲むより、二人で飲む紅茶の方が美味しいということ。相手のことを想って淹れる紅茶が美味しいということ。誰かと一緒のティータイムが、とても幸せだということをね」
そして彼女は居住まいを正した。時間をかけて一呼吸置き、まっすぐに俺を見つめる。
「よく来たわね、待っていたわ。さあ、あなたの答を聞きましょう」
彼女の、紫色の真剣な瞳。今、その瞳は確かに俺だけを捉えていて、どこまでも美しく俺を魅了する。
ゆえに、このとき、俺はもしかしたら半分ほど惚けていたのかもしれなかった。そうして頭の回らない俺は彼女を前にし、ただこの胸にある想いを口にした。それはまるで、呟くように。
「好きです」
けれど、茶器の触れ合う音しかないこの静かな部屋で、俺の声はとてもよく通った。
しばらくのち、彼女はゆっくりと口を開く。
「……面白いことを言うのね。でも、質問の答になっていないわ。好きっていうのは、あなたが私を?」
「その通りです」
俺が答えると、彼女は数秒黙してまた尋ねた。
「好きっていうのは、恋しているという意味の? 」
「その通りです」
「好きっていうのは……」
彼女はなおも尋ね続ける。
しかし、そこで俺は彼女の言葉を阻んだ。彼女の変化に気づいたからだ。
「顔が赤いですよ」
彼女は少しだけ俯き、恥ずかしそうに髪を耳にかける。
「……そういう風にプログラムされているのよ……たぶん」
彼女はその場の空気を紛らわすようにカップに手を伸ばし、両手で口元へと運ぶ。
訪れた静寂に乗せて、俺は先の言葉を紡いだ。
「俺、あなたが好きなんです。あの展望台で、夕陽に照らされているあなたが好きでした。話してみたら意外とおかしなところばかりで、楽しそうに紅茶の知識を披露してくれるあなたが好きでした。どこまでもミステリアスで、底なしに魅力的なあなたが好きでした。自分では気づいていなかったけれど、たぶん、初めてあなたに会ったときから……ずっと」
彼女はカップを口元から離さない。前髪とカップで表情が見えない。それでも、俺は自分の胸の中から、伝えるべきことが清流のように穏やかに溢れ出てくるのを感じる。
「あなたは前に、言いましたね。あなたの世界で、俺は人間だと。そして、あなたの胸にはココロプログラムが埋まっていて、だからあなたはディアで、人間ではなくて……でもそれは、俺には確かめようのないことです」
結局のところ、俺が何者なのか、彼女が何者なのか、今の俺にはわからない。でも……いや、だからこそ。
「だから、俺は決めました」
俺はテーブルの下で握った拳に力を込める。
「俺の見る世界の“本当”は俺が決める。俺の世界で、俺は人間で、そしてあなたも人間です。俺にとっては、あなたはやっぱり、アイリスさん。アイリスさんなんです!」
俺は身を乗り出すようにしてそう訴える。
――アイリス。
たとえ嘘でも、偽りでも、本当じゃなくても。俺には確かに、目の前の大切な存在を示す、二つとない名前。
「これが俺の答えです」
そう。彼女はアイリス。俺にとって、それ以外の何者でもない。
しばらく動きを見せなかった彼女は、やがてカップをテーブルに置き、静かに言った。
「……似ているわね」
そして再び俺を見る。
「あなたはとてもよく、彼に似ているわ」
「彼……あなたを作った人、ですね」
「ええ」
その顔には、慈しむような微笑みがあった。アイリスさんの瞳はまるで、彼女の想う遠い遠い過去を照らし出すようだった。
「懐かしいわ。今でもよく覚えている。忘れられない。彼は私を、本当の娘のように愛してくれた。まだ私が生まれて間もなかったときからずっと、育て、導き、守ってくれた。優しくて聡明で、かと思えば回路とかネジとか歯車が好きな、そういう、ちょっとおかしな人だったわ」
話すほどに、彼女の語調は優しくなっていく。
「あとは、そう……紅茶にもとても詳しくてね。どんなに仕事が忙しくても、午後のティータイムだけは絶対に欠かさない人だった。今思えば、遥か昔、夕陽に照らされながら教えてもらった紅茶のお話が、私にとって、生きていくのにもっとも大切な知識だったの」
俺は手元の、アイリスさんの淹れた紅茶に目を落とす。長い時を経た彼女の、そしてその主の、想いが溶けた紅茶に。
「私と彼は、元々ガラテイアに属していた。けれど、彼はほどなくしてガラテイアを去った。私も彼についていくことに、一つの迷いもなかったわ。でも、やがて彼は、私を残してこの世界をも去ってしまった。私はそのときも、彼についていこうとしたのだけれど……何でも許してくれた優しい彼が、けれどそれだけは許さなかった。そんな彼は最後、私に告げたわ」
アイリスさんは一度そこで言葉を切った。瞳を伏せ、何かを読み上げるように再び語る。
「人間とともに生きなさい。ともに生きてゆく人に出会いなさい。難しく考える必要はない。それはたとえるなら、優雅なティータイムを一緒に過ごしてくれる人を、見つけるようなものだから。人として生き、そしていつか、人類とディアがともに生きる世界を見届けなさい」
聞いて、思った。おそらくそれは、一字一句、彼女の主が語ったものと同じなのだろう。口調も、リズムも、そして些細な抑揚さえも。それほどにこの言葉は、彼女にとって大切なものなのだ。しかし、そんな懐古が呼び水となったのか、彼女の表情がわずかに曇った。
「……でも、独りで生きるのは寂しかった。想像したよりも、ずっとずっと寂しかったわ。彼と過ごした時間は、私を苦しめる記憶に変わった」
俺はふと感づいて、彼女に尋ねる。
「もしかして、この世界にその人の記録が残っていないのは……」
「私が全部消したからよ。辛くて苦しくて、彼のことを忘れたくて……でもやっぱり愛おしくて、忘れたくなくて……」
だから結局、世界樹にだけは、彼女の中にだけは、その人の記録が残っているというわけか。
それは心の底からの、本心ゆえの、矛盾した想いに起因する行為。一見すれば理解不能で、けれども必ずどこかで複雑に繋がった、感情の発露。
「独りになって五十年、孤独に泣いた。二百年、世界を憎んだ。五百年、ただただ生きた。気づけばもう、八百年になる」
アイリスさんは、歌うような声音で言った。その、氷がグラスの中で鳴るような透き通った哀歌の旋律は、聞いている俺の胸をも強く締め付ける。
「そして私はあなたに出会った。彼の血を引くあなたに」
「……え?」
やがて彼女は緩慢な動作で顔を上げた。
唐突な言葉に俺は驚く。
「言ったでしょう。あなたは彼に似ているって。性格もだけど、容姿もまさに瓜二つよ。あの展望台で出会ったときから、私は、あなたのことを知っていたわ」
その発言の意味を理解するのに、俺は少しの時間を要した。俺が、彼女の主の血を……?
「じゃあ、アイリスさんは、俺がその人に似ているから、血の繋がった子孫だから、話しかけたんですか?」
「初めはね。でも、違った」
彼女は目を閉じて首を横に振った。
「私、あなたと話していて楽しかったの。誰かと言葉を交わすのが幸せだなんて、いつぶりに抱いた感情かしら。今も、ほら、私のココロは踊っている。あの人と別れてから、きっと私は、あなたに会うために生きてきたのだわ」
彼女はそっと、両手を自分の胸の上に乗せた。いつの間にか口元は穏やかに綻んでいて、彼女の喉が奏でる優しい音色が、この小さな部屋を満たしていく。
「人間だって、言ってもらえて嬉しかった。おかげで私は、もう一度、本当に、ディアになれた。ただの機械じゃない、あなたのディア。あなたの――愛しき隣人に」
「愛しき、隣人……」
「それがディアという名の由来。八百年生きてきた私の、たった一つの、レゾンデートル」
そこまでを語ると、アイリスさんは軽く息をつく。そうして再び彼女の瞳が開いたとき、そこに一筋の寂しさが差していることに、俺は気づいた。その視線を、彼女は窓の外へと放る。
「本当、よく動き続けたものよ、私も、そして世界樹も。けれど……それももうすぐ終わる」
彼女が見遣るのは、周りに広がる大きな花弁と、その間に覗く青い星。
このとき、俺にはもう既に、彼女の口から出る次の言葉がわかっていた。
「時の凍結」
ああ、やっぱり、と思うと同時、俺の中で浮き彷徨っていた思考のピースの、その最後の一つが、コトリ音をたててはまった気がした。
「あら、あんまり驚かないのね」
彼女は少し意外そうな顔をし、けれども直後、すんなりと納得の表情を見せる。
「ふふ……でも、そうね。あなたなら、そうかもしれない。だってあなたは、それがわかっていたからこそ、ここまで一人で、私に会いに来たんでしょう」
そうかもしれない。きっと、アイリスさんの言う通りだ。いつからだったか。たぶん俺は、自覚はなくとも薄々感づいていたのだろう。確信はしていなくてもわかっていたのだ。
「時の凍結の原因は、やっぱり世界樹そのもの、なんですね」
「ええ。世界樹は、この地球上にあるディアやインフラの補助機構として存在している。これが現代の一般常識。でも本当はそれだけじゃない。世界樹のスペックは、私のココロプログラムにも費やされている。この二つの役割に対する世界樹の稼働比率を、あなたはご存じ?」
それはちょうどここに来る前、さながら予習のように得た知識だった。
「……一対九十九」
「良くできました。もちろん、九十九が私側」
軽々としているのは口調だけ。彼女の表情に笑みはない。
「ただね。元はこんなに非常識な割合ではなかったのよ。建設当初の世界樹は、二つの使命を果たしながらも、なお潤沢な余力を持っていた。ついでに言えば、あなたたち人類の必要とする演算補助の量は、その頃からほとんど変化していない。計算上、世界樹のたった一パーセントの能力であっても、それが滞ることはないわ」
「……だったら」
残るはもう、一つしかない。
続きを述べない俺が、それでも理解したことを、彼女も理解したのだろう。
「そう、私が変わったの。生きるほどに経験し、生きるほどに知識を得る。記憶し、思考し、進化する。そうしてココロはより複雑になる。ゆえに逼迫しているのは、むしろ私側の方。私のココロプログラムの方。世界樹が、増え続ける私の記憶と処理要求に対して、残された少ない余力に警告を発している」
「余力とはすなわち、あなた側ではない、一パーセントのことですね」
「さすが、話が早いわ。世界樹は、何よりも私を優先するように作られている。ゆえに私以外のために動く領域は、例外なく余力と判断されるの。このまま放っておけば、私は遠くないうちに世界樹を――残された人類の一パーセントを食い尽くすでしょう。時の凍結は、その予兆だったということよ」
俺は想像した。自発的にというよりは、ほとんど無意識的に想像した。この先、世界樹の全てがアイリスさんのためだけに動くようになる。人類の営みを支える演算は行われなくなる。社会を秩序立てるシステムが失われる。そうしたら、いったいこの世界はどうなるのか……。
無理だ。今、世界樹がなくなったら、この世界はとてもじゃないが成り立たない。ディアやネットワークシステムへの依存度が大き過ぎる。当然、行き着く先は混乱、そして破滅……。
「ねえ、蓮くん。ここは、私が彼と出会った世界。私が彼と過ごした世界なの。けれど今は、私と彼が二度と会うことのできない世界。だからもう、はっきり言ってどうでもよかった。このまま朽ち果てていけばいいと思っていたわ」
長い睫の間から、彼女の紫の瞳が伺える。いつしかそこには、悲しみだけではない様々な感情がありありと表れていた。まるで彼女のココロを映すかのような、紫一色ではない、色とりどりの想い。その瞳が静かに俺を見据える。
「でも、あなたに出会った。この世界には、あなたがいることを知った。だから、あなたが生きているこの世界は、失わせない」
悲愴、慈愛、憎悪、安穏、後悔、恐怖……他にもたくさん、数えきれないほどの感情がある。アイリスさんのココロが見える。そして俺は、その中の一つに“覚悟”を見る。その覚悟は、俺の焦燥を呼び起こした。
「待ってください。もしかして……」
もしかして彼女は……。
死ぬつもりなのか。
その問は、言葉にせずともおそらく伝わったことだろう。対するアイリスさんは、無言でただただ微笑んでいた。そうしてどこまでも優しく、全てを包み込むような声で告げた。
「あなたは世界を救うわ」
それはもう、明らかな別れの言葉で。この世界を去っていく人の言葉で。
俺は、自分の声が震えるのを抑えることができなかった。
「そんな……嫌ですよ。俺……あなたが好きだって、やっとわかったのに……」
俯いた先にあるティーカップが滲んでぼやけ、そこに湛えられた紅茶の水色が、涙の色に染まってゆく。俺は嗚咽を飲み込みながら、必死に声だけを絞り出す。
「もし俺が、俺が世界を救うというのなら、それは……アイリスさん、あなたを救うことであってほしかった」
「何言ってるのよ。私もちゃんと、あなたに救われたわ」
彼女の微笑がさらに深まる。その表情は美しく、まるで額に収められた名画のようでさえあった。どうして、と反射的に俺は思う。どうして彼女は、別れの淵に立ってなお、そんなにも美しいのか。
「でも……でもあなたは、まだ、この世界で、生きなきゃならないはずじゃないですか。だって、そうでしょう? あなたは人間とディアの共生を、見届けるはずなんだから!」
きっともう、こんなことを言ったところで、彼女の意志は変わらないのだろう。それでも俺は、情けなくとも、みっともなくとも、縋らずにはいられなかった。俺の希望を、俺の願いを、俺のわがままを……たとえそれが、彼女にはもう届かないのだとしても。
「俺は、あなたと一緒に、この世界で……生きていきたかった!」
両眼から頬を伝い、音もなく涙滴が机に流れ落ちる。その雫は窓から差す陽の光を跳ね返し、徐々に吸い込まれ跡となって消えていく。俺はその繰り返しを何度も見た。堰を切ったかのように、自分の奥の奥から涙が溢れ出してくる。それはもはや、俺の意思ではどうにもならない。
やがて、視界の端で彼女がゆっくりと立ち上がった。
「大丈夫よ。私は生きるわ。また一から、新しい私になって」
新しい私。世界樹への負荷を減らし、全てを手放し、生まれ変わって……。
「けれど、そのとき……アイリスさん、あなたは……」
彼女が目の前までやってくる。優雅に服裾を御して膝を折り、椅子に座る俺を見上げる。
「さあ、蓮君。手を出して」
俺は訳もわからず、彼女に言われるがまま左手を差し出した。するとそこには、いつの間に取り出したのだろう、既視感のあるシャープなデザインの指輪があった。
「それは……」
見紛うはずはない。彼女の手にあるのはディアデバイスだ。いつだったか、彼女と百貨店へ出向いたとき、目にした記憶のあるリングデバイス。
「あのとき、あなたは断ったけれど……今日は、受け取ってくれるでしょう?」
言いながらも 、彼女は俺の薬指に輪を通してしまう。誂えたかのようにサイズはぴったりだ。ディアデバイスは、対応させたディアとその所有者との間で、特別密に情報をやり取りする道具。彼女がそれを渡した意図が、わからない俺ではない。
「ふふっ。よく似合うわね。センターストーンは淡紅色。あなたの証よ」
「……俺の?」
「そう。あなたの、蓮の花の色」
そして次に取り出されたのは、同じ姿形で中央の石が紫のもの。言わずもがな、それがすみれの色――彼女の証であるのは明白で、手渡されれば自然、彼女の左薬指にはめるのが正解と思われた。それはまるで、誓いの儀式のようで。
「これで私は、あなたの隣人。彼と生きた私は、あなたと生きる私になる。だからあなたも、これからの私と、ともに生きましょう」
同時に別れの儀式だった。
一刻も早く彼女に会いたい。その想いが、強く強く、俺を突き動かしている。俺は彼女に伝えなければならない。彼女が俺に求めた答を。
この胸にある答を――
世界樹内部は、一見して吹き抜けの層構造になっていた。上下の行き来は点在するエレベータによって行われ、その間の移動には一切のセキュリティがかけられていない。一度中に入ってしまえばほとんどの行為が自由であった。これにはある種、合点がいくところがある。本来、誰であっても世界樹外郭のセキュリティを不正に突破できるはずはないのだから、それ以上に内部セキュリティを増やしても単なる蛇足。自宅の玄関の鍵は頑丈でも困らないが、部屋の扉一つ一つにいちいち鍵がついていたら、たいそう鬱陶しいではないか。
俺は周囲の構造から地理を把握しつつ、どうにか上へと進んでいく。地図目当てで無意識的に何度もシータを取り出そうとするが、その度に自分が手ぶらであることに気づく。今の俺は自分の現在位置すら受信できない。丸腰の身体は妙にふわふわして落ち着かない。
そうして、いくつのエレベータを乗り継いだ頃だろうか。あるときふと、視界に映る光景が変化した。急に三百六十度が透明になり、これまで一切伺うことのできなかった外界が見えるようになったのだ。眼下にあるのは大きな、そして色鮮やかな花弁。どうやら俺は、花の持つ構造で言うところの、雌しべの部分を上へ移動しているらしかった。
周囲は宇宙空間だ。ここまで来ると、もはや昼や夜の概念は曖昧になる。広大な花びらには太陽の光が注がれ、その下には青い地球が見える。本来は無重力のはずだろうが、エレベータが相当な速度で動いているのか、はたまた重力制御装置でもあるのか、俺の身体感覚は地上とさほど変わらない。
やがてまた視界が閉ざされ、エレベータが停止する。待ち望んだ扉が、やっと開く。
辿り着いたのは世界樹の最上階、そこはいわゆる管制室のような様相だった。学校の教室二つ分くらいの広さがあり、壁には大小様々なモニター。音はなく、ただ静寂を全身で感じる。ひたすらに無機質な印象を受けるながら、俺はゆっくりと、足音に気遣いながら奥へ歩いていく。
すると、唐突に継ぎ足したような渡り廊下が見つかった。繋がる先は半径三メートルほどの円い小部屋で、一言で表せば、そこはティールームだった。ブラウンを基調とする暖色系で設えられた空間。照明は柔らかな蜂蜜色。壁には洒落た飾り窓といくらかの棚がある。何種類ものティーポットやカップ&ソーサーが、あたかも美術品のように並べられ、それらに取り囲まれた中心に置かれるのは、アンティーク調の一脚丸テーブルに二脚のチェア。
座っているのはもちろんのこと、彼女であった。
「……探しましたよ」
目の前の彼女は、相も変わらず奇抜な黒のゴシックドレスを見事に着こなし、優雅な仕草で右手にカップを携えている。その光景が、あの展望台で見た彼女に、よくよく重なる。
彼女は穏やかに俺を一瞥すると、テーブル上のポットを手に取り、新しいカップをそっと満たした。それを、自然な動作で俺の前に差し出す。着席を促されているのだと思った。
俺は彼女を見つめながら静かに腰掛ける。カップに入っていたのは予想通り紅茶で、ほどよい湯気が立ち昇っている。その紅茶の暖かさは、彼女が俺の来訪を予期していたのだと語っているようであった。
「その紅茶は、ダージリンよ」
不意に彼女の唇が開き、次いで俺は自分の手元に視線を落とした。
「以前あなたに教えたウバと同じく、世界三大銘茶の一つ。ダージリンには春、夏、秋の三つのクオリティシーズンがあって、これはそのうち、夏に摘んだ茶葉。爽やかな渋味や甘味と、特徴的な香りを感じて頂ければ上出来ね」
その言葉に誘われ、俺は目の前の紅茶を口元へと運ぶ。すぐに感じたのは、鼻孔を通り抜けていく樹のような甘い香り。けれど、実際に味わってみると渋味や、わずかな苦味もあって、様々な味が重なって感じられた。
「紅茶にはね、とても面白い性質があるの」
鈴の鳴るような音の、綺麗な声が耳に届く。
「飲み比べてみるとわかるのだけれど、スプーン一杯分の茶葉にカップ一杯分の湯で淹れた紅茶と、スプーン二杯分の茶葉にカップ二杯分の湯で淹れた紅茶。どちらがより美味しいかというと、それは間違いなく後者なの。理由は、対流するよりたくさんの湯の中で茶葉が泳げば、それだけ自然な抽出がなされるからで、茶葉が潰れることもなく、したがって不必要な苦味も出ない。その説明は至極合理的で、とても理解のできるものだわ」
彼女の語りはゆっくりと、まるで本を読み聞かせるかのように進められる。その落ち着いたリズムに呼応して、大きく透明なポットの中で、茶葉が悠々と漂っている。
「でもね。私はこうも思うのよ。この事実は、紅茶が、それを飲む人たちに教えてくれているの。一人で飲むより、二人で飲む紅茶の方が美味しいということ。相手のことを想って淹れる紅茶が美味しいということ。誰かと一緒のティータイムが、とても幸せだということをね」
そして彼女は居住まいを正した。時間をかけて一呼吸置き、まっすぐに俺を見つめる。
「よく来たわね、待っていたわ。さあ、あなたの答を聞きましょう」
彼女の、紫色の真剣な瞳。今、その瞳は確かに俺だけを捉えていて、どこまでも美しく俺を魅了する。
ゆえに、このとき、俺はもしかしたら半分ほど惚けていたのかもしれなかった。そうして頭の回らない俺は彼女を前にし、ただこの胸にある想いを口にした。それはまるで、呟くように。
「好きです」
けれど、茶器の触れ合う音しかないこの静かな部屋で、俺の声はとてもよく通った。
しばらくのち、彼女はゆっくりと口を開く。
「……面白いことを言うのね。でも、質問の答になっていないわ。好きっていうのは、あなたが私を?」
「その通りです」
俺が答えると、彼女は数秒黙してまた尋ねた。
「好きっていうのは、恋しているという意味の? 」
「その通りです」
「好きっていうのは……」
彼女はなおも尋ね続ける。
しかし、そこで俺は彼女の言葉を阻んだ。彼女の変化に気づいたからだ。
「顔が赤いですよ」
彼女は少しだけ俯き、恥ずかしそうに髪を耳にかける。
「……そういう風にプログラムされているのよ……たぶん」
彼女はその場の空気を紛らわすようにカップに手を伸ばし、両手で口元へと運ぶ。
訪れた静寂に乗せて、俺は先の言葉を紡いだ。
「俺、あなたが好きなんです。あの展望台で、夕陽に照らされているあなたが好きでした。話してみたら意外とおかしなところばかりで、楽しそうに紅茶の知識を披露してくれるあなたが好きでした。どこまでもミステリアスで、底なしに魅力的なあなたが好きでした。自分では気づいていなかったけれど、たぶん、初めてあなたに会ったときから……ずっと」
彼女はカップを口元から離さない。前髪とカップで表情が見えない。それでも、俺は自分の胸の中から、伝えるべきことが清流のように穏やかに溢れ出てくるのを感じる。
「あなたは前に、言いましたね。あなたの世界で、俺は人間だと。そして、あなたの胸にはココロプログラムが埋まっていて、だからあなたはディアで、人間ではなくて……でもそれは、俺には確かめようのないことです」
結局のところ、俺が何者なのか、彼女が何者なのか、今の俺にはわからない。でも……いや、だからこそ。
「だから、俺は決めました」
俺はテーブルの下で握った拳に力を込める。
「俺の見る世界の“本当”は俺が決める。俺の世界で、俺は人間で、そしてあなたも人間です。俺にとっては、あなたはやっぱり、アイリスさん。アイリスさんなんです!」
俺は身を乗り出すようにしてそう訴える。
――アイリス。
たとえ嘘でも、偽りでも、本当じゃなくても。俺には確かに、目の前の大切な存在を示す、二つとない名前。
「これが俺の答えです」
そう。彼女はアイリス。俺にとって、それ以外の何者でもない。
しばらく動きを見せなかった彼女は、やがてカップをテーブルに置き、静かに言った。
「……似ているわね」
そして再び俺を見る。
「あなたはとてもよく、彼に似ているわ」
「彼……あなたを作った人、ですね」
「ええ」
その顔には、慈しむような微笑みがあった。アイリスさんの瞳はまるで、彼女の想う遠い遠い過去を照らし出すようだった。
「懐かしいわ。今でもよく覚えている。忘れられない。彼は私を、本当の娘のように愛してくれた。まだ私が生まれて間もなかったときからずっと、育て、導き、守ってくれた。優しくて聡明で、かと思えば回路とかネジとか歯車が好きな、そういう、ちょっとおかしな人だったわ」
話すほどに、彼女の語調は優しくなっていく。
「あとは、そう……紅茶にもとても詳しくてね。どんなに仕事が忙しくても、午後のティータイムだけは絶対に欠かさない人だった。今思えば、遥か昔、夕陽に照らされながら教えてもらった紅茶のお話が、私にとって、生きていくのにもっとも大切な知識だったの」
俺は手元の、アイリスさんの淹れた紅茶に目を落とす。長い時を経た彼女の、そしてその主の、想いが溶けた紅茶に。
「私と彼は、元々ガラテイアに属していた。けれど、彼はほどなくしてガラテイアを去った。私も彼についていくことに、一つの迷いもなかったわ。でも、やがて彼は、私を残してこの世界をも去ってしまった。私はそのときも、彼についていこうとしたのだけれど……何でも許してくれた優しい彼が、けれどそれだけは許さなかった。そんな彼は最後、私に告げたわ」
アイリスさんは一度そこで言葉を切った。瞳を伏せ、何かを読み上げるように再び語る。
「人間とともに生きなさい。ともに生きてゆく人に出会いなさい。難しく考える必要はない。それはたとえるなら、優雅なティータイムを一緒に過ごしてくれる人を、見つけるようなものだから。人として生き、そしていつか、人類とディアがともに生きる世界を見届けなさい」
聞いて、思った。おそらくそれは、一字一句、彼女の主が語ったものと同じなのだろう。口調も、リズムも、そして些細な抑揚さえも。それほどにこの言葉は、彼女にとって大切なものなのだ。しかし、そんな懐古が呼び水となったのか、彼女の表情がわずかに曇った。
「……でも、独りで生きるのは寂しかった。想像したよりも、ずっとずっと寂しかったわ。彼と過ごした時間は、私を苦しめる記憶に変わった」
俺はふと感づいて、彼女に尋ねる。
「もしかして、この世界にその人の記録が残っていないのは……」
「私が全部消したからよ。辛くて苦しくて、彼のことを忘れたくて……でもやっぱり愛おしくて、忘れたくなくて……」
だから結局、世界樹にだけは、彼女の中にだけは、その人の記録が残っているというわけか。
それは心の底からの、本心ゆえの、矛盾した想いに起因する行為。一見すれば理解不能で、けれども必ずどこかで複雑に繋がった、感情の発露。
「独りになって五十年、孤独に泣いた。二百年、世界を憎んだ。五百年、ただただ生きた。気づけばもう、八百年になる」
アイリスさんは、歌うような声音で言った。その、氷がグラスの中で鳴るような透き通った哀歌の旋律は、聞いている俺の胸をも強く締め付ける。
「そして私はあなたに出会った。彼の血を引くあなたに」
「……え?」
やがて彼女は緩慢な動作で顔を上げた。
唐突な言葉に俺は驚く。
「言ったでしょう。あなたは彼に似ているって。性格もだけど、容姿もまさに瓜二つよ。あの展望台で出会ったときから、私は、あなたのことを知っていたわ」
その発言の意味を理解するのに、俺は少しの時間を要した。俺が、彼女の主の血を……?
「じゃあ、アイリスさんは、俺がその人に似ているから、血の繋がった子孫だから、話しかけたんですか?」
「初めはね。でも、違った」
彼女は目を閉じて首を横に振った。
「私、あなたと話していて楽しかったの。誰かと言葉を交わすのが幸せだなんて、いつぶりに抱いた感情かしら。今も、ほら、私のココロは踊っている。あの人と別れてから、きっと私は、あなたに会うために生きてきたのだわ」
彼女はそっと、両手を自分の胸の上に乗せた。いつの間にか口元は穏やかに綻んでいて、彼女の喉が奏でる優しい音色が、この小さな部屋を満たしていく。
「人間だって、言ってもらえて嬉しかった。おかげで私は、もう一度、本当に、ディアになれた。ただの機械じゃない、あなたのディア。あなたの――愛しき隣人に」
「愛しき、隣人……」
「それがディアという名の由来。八百年生きてきた私の、たった一つの、レゾンデートル」
そこまでを語ると、アイリスさんは軽く息をつく。そうして再び彼女の瞳が開いたとき、そこに一筋の寂しさが差していることに、俺は気づいた。その視線を、彼女は窓の外へと放る。
「本当、よく動き続けたものよ、私も、そして世界樹も。けれど……それももうすぐ終わる」
彼女が見遣るのは、周りに広がる大きな花弁と、その間に覗く青い星。
このとき、俺にはもう既に、彼女の口から出る次の言葉がわかっていた。
「時の凍結」
ああ、やっぱり、と思うと同時、俺の中で浮き彷徨っていた思考のピースの、その最後の一つが、コトリ音をたててはまった気がした。
「あら、あんまり驚かないのね」
彼女は少し意外そうな顔をし、けれども直後、すんなりと納得の表情を見せる。
「ふふ……でも、そうね。あなたなら、そうかもしれない。だってあなたは、それがわかっていたからこそ、ここまで一人で、私に会いに来たんでしょう」
そうかもしれない。きっと、アイリスさんの言う通りだ。いつからだったか。たぶん俺は、自覚はなくとも薄々感づいていたのだろう。確信はしていなくてもわかっていたのだ。
「時の凍結の原因は、やっぱり世界樹そのもの、なんですね」
「ええ。世界樹は、この地球上にあるディアやインフラの補助機構として存在している。これが現代の一般常識。でも本当はそれだけじゃない。世界樹のスペックは、私のココロプログラムにも費やされている。この二つの役割に対する世界樹の稼働比率を、あなたはご存じ?」
それはちょうどここに来る前、さながら予習のように得た知識だった。
「……一対九十九」
「良くできました。もちろん、九十九が私側」
軽々としているのは口調だけ。彼女の表情に笑みはない。
「ただね。元はこんなに非常識な割合ではなかったのよ。建設当初の世界樹は、二つの使命を果たしながらも、なお潤沢な余力を持っていた。ついでに言えば、あなたたち人類の必要とする演算補助の量は、その頃からほとんど変化していない。計算上、世界樹のたった一パーセントの能力であっても、それが滞ることはないわ」
「……だったら」
残るはもう、一つしかない。
続きを述べない俺が、それでも理解したことを、彼女も理解したのだろう。
「そう、私が変わったの。生きるほどに経験し、生きるほどに知識を得る。記憶し、思考し、進化する。そうしてココロはより複雑になる。ゆえに逼迫しているのは、むしろ私側の方。私のココロプログラムの方。世界樹が、増え続ける私の記憶と処理要求に対して、残された少ない余力に警告を発している」
「余力とはすなわち、あなた側ではない、一パーセントのことですね」
「さすが、話が早いわ。世界樹は、何よりも私を優先するように作られている。ゆえに私以外のために動く領域は、例外なく余力と判断されるの。このまま放っておけば、私は遠くないうちに世界樹を――残された人類の一パーセントを食い尽くすでしょう。時の凍結は、その予兆だったということよ」
俺は想像した。自発的にというよりは、ほとんど無意識的に想像した。この先、世界樹の全てがアイリスさんのためだけに動くようになる。人類の営みを支える演算は行われなくなる。社会を秩序立てるシステムが失われる。そうしたら、いったいこの世界はどうなるのか……。
無理だ。今、世界樹がなくなったら、この世界はとてもじゃないが成り立たない。ディアやネットワークシステムへの依存度が大き過ぎる。当然、行き着く先は混乱、そして破滅……。
「ねえ、蓮くん。ここは、私が彼と出会った世界。私が彼と過ごした世界なの。けれど今は、私と彼が二度と会うことのできない世界。だからもう、はっきり言ってどうでもよかった。このまま朽ち果てていけばいいと思っていたわ」
長い睫の間から、彼女の紫の瞳が伺える。いつしかそこには、悲しみだけではない様々な感情がありありと表れていた。まるで彼女のココロを映すかのような、紫一色ではない、色とりどりの想い。その瞳が静かに俺を見据える。
「でも、あなたに出会った。この世界には、あなたがいることを知った。だから、あなたが生きているこの世界は、失わせない」
悲愴、慈愛、憎悪、安穏、後悔、恐怖……他にもたくさん、数えきれないほどの感情がある。アイリスさんのココロが見える。そして俺は、その中の一つに“覚悟”を見る。その覚悟は、俺の焦燥を呼び起こした。
「待ってください。もしかして……」
もしかして彼女は……。
死ぬつもりなのか。
その問は、言葉にせずともおそらく伝わったことだろう。対するアイリスさんは、無言でただただ微笑んでいた。そうしてどこまでも優しく、全てを包み込むような声で告げた。
「あなたは世界を救うわ」
それはもう、明らかな別れの言葉で。この世界を去っていく人の言葉で。
俺は、自分の声が震えるのを抑えることができなかった。
「そんな……嫌ですよ。俺……あなたが好きだって、やっとわかったのに……」
俯いた先にあるティーカップが滲んでぼやけ、そこに湛えられた紅茶の水色が、涙の色に染まってゆく。俺は嗚咽を飲み込みながら、必死に声だけを絞り出す。
「もし俺が、俺が世界を救うというのなら、それは……アイリスさん、あなたを救うことであってほしかった」
「何言ってるのよ。私もちゃんと、あなたに救われたわ」
彼女の微笑がさらに深まる。その表情は美しく、まるで額に収められた名画のようでさえあった。どうして、と反射的に俺は思う。どうして彼女は、別れの淵に立ってなお、そんなにも美しいのか。
「でも……でもあなたは、まだ、この世界で、生きなきゃならないはずじゃないですか。だって、そうでしょう? あなたは人間とディアの共生を、見届けるはずなんだから!」
きっともう、こんなことを言ったところで、彼女の意志は変わらないのだろう。それでも俺は、情けなくとも、みっともなくとも、縋らずにはいられなかった。俺の希望を、俺の願いを、俺のわがままを……たとえそれが、彼女にはもう届かないのだとしても。
「俺は、あなたと一緒に、この世界で……生きていきたかった!」
両眼から頬を伝い、音もなく涙滴が机に流れ落ちる。その雫は窓から差す陽の光を跳ね返し、徐々に吸い込まれ跡となって消えていく。俺はその繰り返しを何度も見た。堰を切ったかのように、自分の奥の奥から涙が溢れ出してくる。それはもはや、俺の意思ではどうにもならない。
やがて、視界の端で彼女がゆっくりと立ち上がった。
「大丈夫よ。私は生きるわ。また一から、新しい私になって」
新しい私。世界樹への負荷を減らし、全てを手放し、生まれ変わって……。
「けれど、そのとき……アイリスさん、あなたは……」
彼女が目の前までやってくる。優雅に服裾を御して膝を折り、椅子に座る俺を見上げる。
「さあ、蓮君。手を出して」
俺は訳もわからず、彼女に言われるがまま左手を差し出した。するとそこには、いつの間に取り出したのだろう、既視感のあるシャープなデザインの指輪があった。
「それは……」
見紛うはずはない。彼女の手にあるのはディアデバイスだ。いつだったか、彼女と百貨店へ出向いたとき、目にした記憶のあるリングデバイス。
「あのとき、あなたは断ったけれど……今日は、受け取ってくれるでしょう?」
言いながらも 、彼女は俺の薬指に輪を通してしまう。誂えたかのようにサイズはぴったりだ。ディアデバイスは、対応させたディアとその所有者との間で、特別密に情報をやり取りする道具。彼女がそれを渡した意図が、わからない俺ではない。
「ふふっ。よく似合うわね。センターストーンは淡紅色。あなたの証よ」
「……俺の?」
「そう。あなたの、蓮の花の色」
そして次に取り出されたのは、同じ姿形で中央の石が紫のもの。言わずもがな、それがすみれの色――彼女の証であるのは明白で、手渡されれば自然、彼女の左薬指にはめるのが正解と思われた。それはまるで、誓いの儀式のようで。
「これで私は、あなたの隣人。彼と生きた私は、あなたと生きる私になる。だからあなたも、これからの私と、ともに生きましょう」
同時に別れの儀式だった。
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