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第一章 姫城主
一
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天正九年、春──。
立花城の内庭で、十四歳の誾千代は、木刀をぐっと握り締め、目の前の城戸豊前守甚兵衛知正の目を睨みつけた。
誾千代の稽古着は、薄紫色に花模様を散らした、娘らしい小袖に、襷掛け。浅葱色の袴は、裾をたくし上げて、脛が剥き出しになっている。長い髪の毛は、背中で白の木綿布で束ねていた。
相対する稽古相手の甚兵衛は、誾千代より遥かに背丈が高く、六尺はあった。体重も、おそらく二倍はある。ぐっと開いた両足は、地面を重石のように踏み締めていた。
顔つきはいかにも歴戦の勇士らしく、真っ黒に日焼けして、四角い顎と、無数の古傷が目立っている。
誾千代は、五尺に僅かに足らないほどの背丈で、勢い、甚兵衛を下から見上げる格好になる。年齢は甚兵衛が、今年で五十ちょうど。堂々たる侍の姿だ。
甚兵衛は誾千代の傅役で、生まれた時からずっと、影になり、日向になり、誾千代の教育係を勤めていた。特に剣の稽古については、誾千代が木刀を手に持てるようになった七歳の頃から、一日も欠かさず相手を務めていた。早朝の掛かり稽古は、誾千代の日課だった。
誾千代と甚兵衛は、お互い正眼の構えで、先ほどから一歩も、動いていない。
時刻は早朝だったが、春の日差しはぽかぽかと暖かく、誾千代の背中を優しく温めていた。逆にぬくぬくとした温もりが、誾千代の焦燥を掻き立てた。
「甚兵衛! こう睨み合っていても、埒が明かぬぞ! なぜ、懸かって来ぬ?」
遂に誾千代は、甚兵衛に向かって、叫び声を上げた。細い、高い声だったが、口調は娘というより、若武者のように威勢が良い。
甚兵衛は、誾千代に急かされ、僅かばかり木刀の先を突き出した。誾千代の握る木刀の先端と、甚兵衛の木刀の先が、からからと乾いた音を立て絡み合った。
ぱしりっ、と誾千代は、剣先を払って甚兵衛の誘いをいなした。誾千代の急激な動きにも、甚兵衛の態勢は、一寸も動かず、両脚は相変わらず、根が生えたように動かない。
「甚兵衛、臆したかっ!」
誾千代は、甚兵衛に向かって、侍相手には、禁句ともいえる挑発を投げ掛けた。侍に「臆したか」は、絶対に口にしてはならぬ、禁句だろう。
案の定、甚兵衛の巌を刻んだような顔に、見る見る血が昇った。
「臆しては、おりませぬ……」
甚兵衛の顔に浮かんだ怒りの色を見て、誾千代の口許が、自然に綻んだ。
こうでなくては、ならぬ……!
「参れっ!」
誾千代の命令に、甚兵衛の構えが変わった。
正眼から、さっと剣先を挙げた。大きく振り被った、上段の構えになった。両脇ががら空きだが、対する誾千代が、うかうかと打ち込めば、即座に上から木刀が降ってくるだろう。
甚兵衛の唇から、全身を振り絞るような、低く、迫力たっぷりの咆哮が湧き上がった。
「けえええーいっ!」
だっと地面を蹴り、甚兵衛は真っ直ぐ、誾千代に向かって大股に突進してきた。
誾千代は甚兵衛の突進を躱しもせず、さっと身を横にして、剣先を下げた。いよいよ甚兵衛が直前に迫った刹那、ひょいっと握り締めた木刀の先端を、真っ直ぐ前へ突き出して見せた。
突進する甚兵衛は、誾千代の見せた突然の変化に、両目を大きく見開いた。微かに躊躇を見せる。
誾千代が無造作に突き出した木刀の先端を避けようと、歩みが僅かに、乱れた。
それが誾千代の狙いでもあった。甚兵衛の顔に、一瞬「しまった!」と言いたげな、表情が浮かんだ。
「くっ!」
甚兵衛は、一息吸い込むと、振り上げた木刀を、誾千代を目掛け振り下ろした。動きは素早く、甚兵衛の一撃には、必殺の勢いが込められていた。
誾千代は甚兵衛の攻撃を、寸前で躱した。身を捻って、手にした木刀を真横に払った。木刀を握る手に、手応えが伝わってくる。
誾千代はそのままの姿勢で、甚兵衛の側をすり抜けていた。
「うぐぅっ!」
甚兵衛の呻き声が誾千代の背後から聞こえ、どさっと地面に膝を突く音がした。
振り返ると、甚兵衛は真っ青な顔をして、木刀を杖がわりに、地面に突き立てていた。片手を、脇腹に当て、苦しげな表情を見せていた。
誾千代と目が合うと、甚兵衛は苦しげな息の下から、声を振り絞った。
「参り申した……!」
甚兵衛の顔色を見て、誾千代の心に、俄かに後悔が湧き上がった。
やはり稽古を無理強いすべきでは、なかったのかも、しれぬ……。
誾千代の心に、甚兵衛に対する憐憫の念が込み上げた。
自分は、特別な人間だ。だから、普通の人間に対し、家臣というだけで、無体な命令はすべきではなかった……。
が、誾千代は強いて、努めて自分の感情を押し殺し、無表情を保った。
誾千代は自分を励まし、平静な口調で甚兵衛に命じた。
「今朝は、これまでとする。苦労であった。下がって良いぞ!」
甚兵衛は誾千代の命令に、「はっ!」と頭を下げて、立ち上がった。
立ち上がる時、誾千代に撃たれた箇所が相当に痛んでいそうだった。それでも誾千代の前では平気な様子を取り繕う必死の努力は、誾千代にも伝わっている。
背中を見せた甚兵衛に、誾千代は声を掛けた。
「後で、薬師を呼んでやろう。痛みに良く効く塗り薬があると聞いておる」
甚兵衛は四角四面に誾千代に身体を捻じ向け、再び深々と頭を下げた。
「有り難き、幸せに存ずる」
「養生せよ」
それだけを口にして、誾千代はさっさと、内庭から立ち去った。
立花城の内庭で、十四歳の誾千代は、木刀をぐっと握り締め、目の前の城戸豊前守甚兵衛知正の目を睨みつけた。
誾千代の稽古着は、薄紫色に花模様を散らした、娘らしい小袖に、襷掛け。浅葱色の袴は、裾をたくし上げて、脛が剥き出しになっている。長い髪の毛は、背中で白の木綿布で束ねていた。
相対する稽古相手の甚兵衛は、誾千代より遥かに背丈が高く、六尺はあった。体重も、おそらく二倍はある。ぐっと開いた両足は、地面を重石のように踏み締めていた。
顔つきはいかにも歴戦の勇士らしく、真っ黒に日焼けして、四角い顎と、無数の古傷が目立っている。
誾千代は、五尺に僅かに足らないほどの背丈で、勢い、甚兵衛を下から見上げる格好になる。年齢は甚兵衛が、今年で五十ちょうど。堂々たる侍の姿だ。
甚兵衛は誾千代の傅役で、生まれた時からずっと、影になり、日向になり、誾千代の教育係を勤めていた。特に剣の稽古については、誾千代が木刀を手に持てるようになった七歳の頃から、一日も欠かさず相手を務めていた。早朝の掛かり稽古は、誾千代の日課だった。
誾千代と甚兵衛は、お互い正眼の構えで、先ほどから一歩も、動いていない。
時刻は早朝だったが、春の日差しはぽかぽかと暖かく、誾千代の背中を優しく温めていた。逆にぬくぬくとした温もりが、誾千代の焦燥を掻き立てた。
「甚兵衛! こう睨み合っていても、埒が明かぬぞ! なぜ、懸かって来ぬ?」
遂に誾千代は、甚兵衛に向かって、叫び声を上げた。細い、高い声だったが、口調は娘というより、若武者のように威勢が良い。
甚兵衛は、誾千代に急かされ、僅かばかり木刀の先を突き出した。誾千代の握る木刀の先端と、甚兵衛の木刀の先が、からからと乾いた音を立て絡み合った。
ぱしりっ、と誾千代は、剣先を払って甚兵衛の誘いをいなした。誾千代の急激な動きにも、甚兵衛の態勢は、一寸も動かず、両脚は相変わらず、根が生えたように動かない。
「甚兵衛、臆したかっ!」
誾千代は、甚兵衛に向かって、侍相手には、禁句ともいえる挑発を投げ掛けた。侍に「臆したか」は、絶対に口にしてはならぬ、禁句だろう。
案の定、甚兵衛の巌を刻んだような顔に、見る見る血が昇った。
「臆しては、おりませぬ……」
甚兵衛の顔に浮かんだ怒りの色を見て、誾千代の口許が、自然に綻んだ。
こうでなくては、ならぬ……!
「参れっ!」
誾千代の命令に、甚兵衛の構えが変わった。
正眼から、さっと剣先を挙げた。大きく振り被った、上段の構えになった。両脇ががら空きだが、対する誾千代が、うかうかと打ち込めば、即座に上から木刀が降ってくるだろう。
甚兵衛の唇から、全身を振り絞るような、低く、迫力たっぷりの咆哮が湧き上がった。
「けえええーいっ!」
だっと地面を蹴り、甚兵衛は真っ直ぐ、誾千代に向かって大股に突進してきた。
誾千代は甚兵衛の突進を躱しもせず、さっと身を横にして、剣先を下げた。いよいよ甚兵衛が直前に迫った刹那、ひょいっと握り締めた木刀の先端を、真っ直ぐ前へ突き出して見せた。
突進する甚兵衛は、誾千代の見せた突然の変化に、両目を大きく見開いた。微かに躊躇を見せる。
誾千代が無造作に突き出した木刀の先端を避けようと、歩みが僅かに、乱れた。
それが誾千代の狙いでもあった。甚兵衛の顔に、一瞬「しまった!」と言いたげな、表情が浮かんだ。
「くっ!」
甚兵衛は、一息吸い込むと、振り上げた木刀を、誾千代を目掛け振り下ろした。動きは素早く、甚兵衛の一撃には、必殺の勢いが込められていた。
誾千代は甚兵衛の攻撃を、寸前で躱した。身を捻って、手にした木刀を真横に払った。木刀を握る手に、手応えが伝わってくる。
誾千代はそのままの姿勢で、甚兵衛の側をすり抜けていた。
「うぐぅっ!」
甚兵衛の呻き声が誾千代の背後から聞こえ、どさっと地面に膝を突く音がした。
振り返ると、甚兵衛は真っ青な顔をして、木刀を杖がわりに、地面に突き立てていた。片手を、脇腹に当て、苦しげな表情を見せていた。
誾千代と目が合うと、甚兵衛は苦しげな息の下から、声を振り絞った。
「参り申した……!」
甚兵衛の顔色を見て、誾千代の心に、俄かに後悔が湧き上がった。
やはり稽古を無理強いすべきでは、なかったのかも、しれぬ……。
誾千代の心に、甚兵衛に対する憐憫の念が込み上げた。
自分は、特別な人間だ。だから、普通の人間に対し、家臣というだけで、無体な命令はすべきではなかった……。
が、誾千代は強いて、努めて自分の感情を押し殺し、無表情を保った。
誾千代は自分を励まし、平静な口調で甚兵衛に命じた。
「今朝は、これまでとする。苦労であった。下がって良いぞ!」
甚兵衛は誾千代の命令に、「はっ!」と頭を下げて、立ち上がった。
立ち上がる時、誾千代に撃たれた箇所が相当に痛んでいそうだった。それでも誾千代の前では平気な様子を取り繕う必死の努力は、誾千代にも伝わっている。
背中を見せた甚兵衛に、誾千代は声を掛けた。
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