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第七章 筑前守
三
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全員が食べ終わるころ、ひたひたと静かな足音が近づき、小七郎が姿を現した。敷居の前で片膝をつき、軽く一礼をした。
「お待たせ申し上げた。ただ今より、兄が御一同にご挨拶申し上げる」
誾千代は微かに頭を下げた姿勢で、素早く小七郎の心を探っていた。
思った通り、小七郎の心は落ち着いたもので、浮ついたところは欠片もなかった。このような人物なら、誰もが信頼するだろうと、思われた。
小七郎は立ち上がると、廊下に下がり、左手に向かって正座した。
全員の心に、初対面である筑前守への期待感が醸成された。
誾千代もまた、期待に胸を躍らせた。
さて、筑前守とは、どのような人物か。
余計な先入主を持たぬよう、誾千代は小七郎の筑前守に対する記憶には、わざと触れぬようにしていた。
突然、笑い声が廊下の向こうで弾けた。
続いてどすどすという、荒々しい足音が近づいてきた。足音の主は、廊下を速足で移動する間も、しきりと騒々しい笑い声をあげ、何やら周囲の者共に指示を下したり、からかいの声を上げている。
甚兵衛が無言で、誾千代の顔を見詰めている。
「どうやら、筑前守様の御出ましのようで御座る」
とでも、言いたそうな顔つきだった。
足音はさらに近づき、やがてぬっとばかりに、障子の向こうから、一人の男が姿を現した。
「やあやあやあ! はるばる、九州から御出まし、この筑前、感激で御座るぞ! まずはごゆるりと、御滞在下され!」
これだけの科白を一気に喋ると、何が可笑しいのか、背を反らせ、また大きく笑い声を上げた。
誾千代は、大きく両目を、一杯に見開いた。
これが筑前守か!
噂では、筑前守は猿に似ている、と聞いている。
いや、それは違う。
似ている……では正確ではない。
筑前守の外見は、猿そのものだった。
まず背丈が異常に低い。四尺そこそこで、誾千代よりも低そうだった。それにきわめて痩せていて、小袖から覗く両腕や、足首は小枝のように細かった。
さらに色黒で、真っ黒な顔には、二つの金壺眼が、ぎらぎらと異様な光を放っていた。
足は短く、蟹股で、両腕の指先は、膝頭に届きそうに長かった。そのため歩く姿は、よたよたと不格好で、さらに猿という印象を重ねた。
つまり筑前守は、人に似た猿なのだった。
筑前守の登場に、甚兵衛はぐいっと全身を捩じるように廊下に向き直り、慇懃に頭を下げた。
「筑前守様、わが立花城主、戸次誾千代様、彌七郎宗茂様に御面会を頂き、家臣、城戸甚兵衛、恐縮至極で御座ります」
甚兵衛がこのように改まって挨拶をすると、実に荘重に聞こえる。筑前守は満面に笑みを浮かべ、大股で室内に入ってきた。誾千代らの面前に進むと、どっかりと胡坐をかいた。
「儂が、羽柴筑前守藤吉郎秀吉じゃ! 官名の筑前守の通り、儂はその方らに誼を感じておる。以後、昵懇に願うぞ!」
大声で叫ぶと、一人一人に話し掛けた。
「そちが城戸甚兵衛じゃな? 噂通りの、偉丈夫じゃな。このような武者ぶりの良い勇者なら、頼もしい限りじゃ」
筑前守の讃嘆に、甚兵衛は首から上を真っ赤に染めた。笑みを絶やさず、筑前守は、誾千代の隣に座る彌七郎に顔を向けた。彌七郎は、筑前守に関心を示さず、ぼうっと天井を見上げ、ぽかんと大口を開けていた。彌七郎の態度に、筑前守はちょっと呆れたようだったが、それでも穏やかな調子で話し掛けた。
「立花彌七郎宗茂殿じゃな。秋月との戦いでは、見事、将首を挙げたと聞いておる。いやはや、お若いのに、武勇の誉れじゃ!」
誾千代は、ぐいっと、筑前守に向き直った。
「立花彌七郎宗茂では御座りませぬ。わが夫は、戸次の姓を継いだ身。以後、戸次彌七郎宗茂とお呼びください」
誾千代の抗議に、筑前守は「ほ!」と感嘆の声を上げたそうに、口だけを丸く形作った。ただし、声は上げない。すぐに破顔して、誾千代に向き直った。
「失礼仕った! なにしろこのところ、きりきり舞いの毎日で、つい、失念致した。以後、気を付けようぞ」
すらすらと謝罪の言葉を発する筑前守に、誾千代は淡い好意を抱いた。頑固な相手なら、誾千代の抗議も素知らぬ顔で無視するか、怒り出すところだ。
誾千代は、初めて筑前守の心を読むことにした。今まで心を読む力を抑えていたのは、相手に対し、疑惑を抱かせる可能性があったからだ。うっかり心を読んで、自分が知らないことを、つるりと口にして、失敗したことが何度もあった。特に今回の筑前守のような、権力者相手には注意が必要だ。
そろそろと、誾千代は筑前守相手に、自分の心の触手を伸ばし始めた。
誾千代の脳裏に、筑前守の視界が広がった。当然、筑前守が向き合っている、誾千代が正面に座っている。
が、筑前守のさらなる脳裏に、誾千代が目にしている筑前守の姿が浮かんでいた。その筑前守は誾千代を見詰め、誾千代は筑前守を見詰め……。
二人の視界が合わせ鏡のごとく、何重にも並んでいた。
驚きに、誾千代は硬直していた。
まさか、まさか、まさか……!
誾千代の全身は、凍り付いたように動けなかった。同時に胸の奥から、炎のような動揺が広がっていた。早鐘のように心臓が鼓動を伝え、頭の中が、かっかと燃えていた。
筑前守の表情を見ると、今まで浮かべていた笑顔が拭ったように消え去り、替わりに、純粋な驚愕の表情が浮かんでいた。両目がまん丸に見開かれ、真っ黒な顔には、脂汗が浮かんでいる。
誾千代と筑前守は、しばし微動だにせず、見詰めあっていた。
筑前守は、誾千代と同じ〝サトリ〟だった!
「お待たせ申し上げた。ただ今より、兄が御一同にご挨拶申し上げる」
誾千代は微かに頭を下げた姿勢で、素早く小七郎の心を探っていた。
思った通り、小七郎の心は落ち着いたもので、浮ついたところは欠片もなかった。このような人物なら、誰もが信頼するだろうと、思われた。
小七郎は立ち上がると、廊下に下がり、左手に向かって正座した。
全員の心に、初対面である筑前守への期待感が醸成された。
誾千代もまた、期待に胸を躍らせた。
さて、筑前守とは、どのような人物か。
余計な先入主を持たぬよう、誾千代は小七郎の筑前守に対する記憶には、わざと触れぬようにしていた。
突然、笑い声が廊下の向こうで弾けた。
続いてどすどすという、荒々しい足音が近づいてきた。足音の主は、廊下を速足で移動する間も、しきりと騒々しい笑い声をあげ、何やら周囲の者共に指示を下したり、からかいの声を上げている。
甚兵衛が無言で、誾千代の顔を見詰めている。
「どうやら、筑前守様の御出ましのようで御座る」
とでも、言いたそうな顔つきだった。
足音はさらに近づき、やがてぬっとばかりに、障子の向こうから、一人の男が姿を現した。
「やあやあやあ! はるばる、九州から御出まし、この筑前、感激で御座るぞ! まずはごゆるりと、御滞在下され!」
これだけの科白を一気に喋ると、何が可笑しいのか、背を反らせ、また大きく笑い声を上げた。
誾千代は、大きく両目を、一杯に見開いた。
これが筑前守か!
噂では、筑前守は猿に似ている、と聞いている。
いや、それは違う。
似ている……では正確ではない。
筑前守の外見は、猿そのものだった。
まず背丈が異常に低い。四尺そこそこで、誾千代よりも低そうだった。それにきわめて痩せていて、小袖から覗く両腕や、足首は小枝のように細かった。
さらに色黒で、真っ黒な顔には、二つの金壺眼が、ぎらぎらと異様な光を放っていた。
足は短く、蟹股で、両腕の指先は、膝頭に届きそうに長かった。そのため歩く姿は、よたよたと不格好で、さらに猿という印象を重ねた。
つまり筑前守は、人に似た猿なのだった。
筑前守の登場に、甚兵衛はぐいっと全身を捩じるように廊下に向き直り、慇懃に頭を下げた。
「筑前守様、わが立花城主、戸次誾千代様、彌七郎宗茂様に御面会を頂き、家臣、城戸甚兵衛、恐縮至極で御座ります」
甚兵衛がこのように改まって挨拶をすると、実に荘重に聞こえる。筑前守は満面に笑みを浮かべ、大股で室内に入ってきた。誾千代らの面前に進むと、どっかりと胡坐をかいた。
「儂が、羽柴筑前守藤吉郎秀吉じゃ! 官名の筑前守の通り、儂はその方らに誼を感じておる。以後、昵懇に願うぞ!」
大声で叫ぶと、一人一人に話し掛けた。
「そちが城戸甚兵衛じゃな? 噂通りの、偉丈夫じゃな。このような武者ぶりの良い勇者なら、頼もしい限りじゃ」
筑前守の讃嘆に、甚兵衛は首から上を真っ赤に染めた。笑みを絶やさず、筑前守は、誾千代の隣に座る彌七郎に顔を向けた。彌七郎は、筑前守に関心を示さず、ぼうっと天井を見上げ、ぽかんと大口を開けていた。彌七郎の態度に、筑前守はちょっと呆れたようだったが、それでも穏やかな調子で話し掛けた。
「立花彌七郎宗茂殿じゃな。秋月との戦いでは、見事、将首を挙げたと聞いておる。いやはや、お若いのに、武勇の誉れじゃ!」
誾千代は、ぐいっと、筑前守に向き直った。
「立花彌七郎宗茂では御座りませぬ。わが夫は、戸次の姓を継いだ身。以後、戸次彌七郎宗茂とお呼びください」
誾千代の抗議に、筑前守は「ほ!」と感嘆の声を上げたそうに、口だけを丸く形作った。ただし、声は上げない。すぐに破顔して、誾千代に向き直った。
「失礼仕った! なにしろこのところ、きりきり舞いの毎日で、つい、失念致した。以後、気を付けようぞ」
すらすらと謝罪の言葉を発する筑前守に、誾千代は淡い好意を抱いた。頑固な相手なら、誾千代の抗議も素知らぬ顔で無視するか、怒り出すところだ。
誾千代は、初めて筑前守の心を読むことにした。今まで心を読む力を抑えていたのは、相手に対し、疑惑を抱かせる可能性があったからだ。うっかり心を読んで、自分が知らないことを、つるりと口にして、失敗したことが何度もあった。特に今回の筑前守のような、権力者相手には注意が必要だ。
そろそろと、誾千代は筑前守相手に、自分の心の触手を伸ばし始めた。
誾千代の脳裏に、筑前守の視界が広がった。当然、筑前守が向き合っている、誾千代が正面に座っている。
が、筑前守のさらなる脳裏に、誾千代が目にしている筑前守の姿が浮かんでいた。その筑前守は誾千代を見詰め、誾千代は筑前守を見詰め……。
二人の視界が合わせ鏡のごとく、何重にも並んでいた。
驚きに、誾千代は硬直していた。
まさか、まさか、まさか……!
誾千代の全身は、凍り付いたように動けなかった。同時に胸の奥から、炎のような動揺が広がっていた。早鐘のように心臓が鼓動を伝え、頭の中が、かっかと燃えていた。
筑前守の表情を見ると、今まで浮かべていた笑顔が拭ったように消え去り、替わりに、純粋な驚愕の表情が浮かんでいた。両目がまん丸に見開かれ、真っ黒な顔には、脂汗が浮かんでいる。
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