電脳遊客

万卜人

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第三回 江戸入府早々の尾行と、意外な珍客に鞍家二郎三郎大慌ての巻

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 遺体を荼毘に付し(仮想現実の江戸では、史実と異なり、火葬が一般的である)葬式が無事に終了し、俺たちは成覚寺からぞろぞろと、のたくり長屋へと帰っていった。
 空を見上げると、とっぷりと暮れた空には、すでに星が一つ、二つ、瞬いている。俺は火葬した、もう一人の俺の骨を納めた骨壷を、白い布で包んで持っていた。
 本来なら、これから通夜となるのだが、それは勘弁してもらった。代わりに、大家の要蔵に、いくばくかの金を握らせ「これで長屋の連中に酒でも振舞ってくれ」と頼むと、要蔵は心得顔で請合ってくれる。後は要蔵の、物の良く判った手配りが、長屋の隅々まで行き届くだろう。
 いったい俺に、何があった?
 思いは、つい、そちらに向かっている。あてもない、堂々巡りの思考が続く。
 双子の兄とは、我ながらよく言ったものだ。俺は苦笑していた。
 ある意味、江戸で水死体になった俺と、今の俺は、双子といっていい。まったく同じ経験、人生を送ってきて、もう一人の俺は、この江戸で死んだという違いはあるが。
 やはり、殺されたのだろうか? 俺を大木戸で待ち構えていた、弁天丸というヤクザ者の顔が脳裏に浮かぶ。奴が俺の問い詰めに、僅かに洩らした讒言のような言葉の切れ端から判断すると、それ以外には考えられない。
 さて、自分の住処に落ち着こうと長屋の木戸を潜ると、出し抜けに暗闇から、何かが俺を目掛けて突進する気配がする。
 どどどどっ! と、辺りに地響きを立て、何かが、いや、何者かが殺到する。
「伊呂波の旦那──っ!」
 暗闇から、ぬっと、巨大な肉の固まりのような、巨体が突き出した。
 俺は思わず「うへっ!」と仰け反った。
 ヤバイ! 完全にヤバイ! 俺は江戸で怖いものは一切ないはずだが、こいつだけは例外だ。絶対、暗闇でお目に掛かりたくはない相手だ!
「伊呂波の旦那! 水死体になったなんて、信じられなかったけど、やっぱり元気だ! あちし、嬉しいよお!」
 どっしりとした上半身に、地面を踏みしめる大きな足。
 懸命に駈けて来たのか、ぜえぜえと鞴のような息を吐き、肩は大きく上下している。ぷん、と白粉の匂いが鼻を突く。
 碁盤のような、真四角な巨大な顔に、目と鼻が鋭い鑿で線刻したようについている。髪は芸者らしく、島田に、笄や簪があちこち突き出している。
 これでも、品川芸者である。
 名前は吉弥。吉奴とも呼ぶ。
「旦那ーっ、心配したんだよお!」
 猛牛の咆哮のような、辺りに響き渡る大声を上げた。吉弥の大声で、からからと瓦が数枚、屋根から滑り落ちる。
 ぐわっ、と両腕を広げ、俺を抱き締めようと突進してくる。
「うわっ!」
 俺は闘牛士のように、寸前で吉弥の突進をひらりと躱した。ずしん、と吉弥の頭が、近くの板塀に突き刺さる。みしり……と音がして、数枚の板が圧し折れる。
「旦那あ……」
 顔中をぐしゃぐしゃにして、吉弥は巨大な顔面を持ち上げる。涙で、顔の白粉がだんだらになって、まるで……いや、完全に化け物の泣き顔である。
 折れた板の破片が、ぱらぱらと落ちていく。
「わ、判った……、な、落ち着け……落ち着けって! な、いつもの笑い顔になってくれ。ほうれ、お客が誉めてくれる、あの顔だ!」
 俺は両手を突き出して、懸命に宥め役に回った。こいつには、俺の《遊客》としての気迫など、噴火口の一片の雪ほどにも、効果はない。
 吉弥は俺に首っ丈なのだ。醜女の深情けとは、よく言ったものだ! どういうわけか、俺を見初め、いつかは俺の花嫁になると独り決めしている。
 ぐずん、ぐずんと鼻水を啜り上げ、吉弥はそれでも、にっこりと笑い顔になった。目が糸のように細くなり、頬にたっぷりと肉が盛り上がる。
 なぜか、吉弥には贔屓の胖子(でぶ)専系の客がついて、この珍妙な笑顔が可愛いと、煽て上げるのだ。吉弥は完全に、自分の笑顔に自信を持っていた。
 俺は両手を広げ、我ながら嘘っぽい空元気を振り絞って大声を上げた。
「な? ちゃんと俺は、ぴんしゃんしているだろ! もう、心配しなくても良いんだ!」
「うん」
 こっくりと吉弥は頷いた。
 ふいーっ、と今度は俺が大きく息を吐いた。まったく、今日という一日は、さんざんだった。最後の止めが、これである。
 ふと、疑問が浮かぶ。
「ところで吉弥、何で俺が水死体になったのを、知ったんだ? 誰がお前に知らせた?」
 吉弥はごつごつとした、グローブのような手を挙げ、道の彼方を指差した。
「あの旦那が──」
 俺は吉弥の指差す方向に、目を向けた。
 暗がりに、一人の侍が立っている。
 細身の大小を帯に捻じ込み、髪形は月代を細く剃って、小さな髷を結っている。夏用の、絽の羽織を上掛け、袴を身につけている。侍の背後には、鋏箱を担いだ小者と、部下らしき同心姿の武士が従っている。部下の髪型は八丁堀髷とは違い、たぶさは小さめである。
 年齢は四十代初め頃か、どこといって特徴のない顔立ちをしているが、口許に深い皴を刻んでいた。
 男はゆっくりと近づいてきた。慎重さを絵に描いたような足取りである。
「鞍家二郎三郎、じゃな? 間違いなく」
 俺は「へっ!」と嘲笑った。
「当たり前だろう? 何年、俺と付き合っていると思う?」
 侍は、それでも疑い深い視線で、俺の全身を嘗め回すように観察する。
「確かに見掛けは、儂の知っている鞍家二郎三郎その人である。が、奴は、水死体になったと町奉行から報せを受けた。何しろ、《遊客》の死体だ。検使与力が、わざわざ、儂の元へ報せに来たよ」
 俺はわざと驚きの表情を作った。
「それで、確かめに来たのか? 忙しいあんたが!」
 源五郎は真面目臭った顔付きで首を振った。
「いいや、お役目でこちらに来る用があったので、ついでに足を運んだのじゃ。お主の顔を確認したら、すぐ役宅へ帰るつもりじゃった。しかし何か仔細がありそうじゃな?」
 俺は、ぽん、と自分の胸を叩いた。
「安心しろ! 戻って来たんだ。再登録したから、また、いつでも江戸で活躍できる」
 それでもまだ、侍の疑いの視線は晴れない。俺は笑い出した。
「まったく、あんたと来たら、何でも疑って懸かるんだからなあ! まあ、それが、あんたのお役目だから、仕方ないがね! ところでこれからどうする? 少し、あんたに話があるんだ」
「うむ」と、侍は、にこりともせず、頷いた。
 男の正体は、火付盗賊改方頭。名前は、酒巻源五郎である。身分は旗本、石高は三百石。家紋は百足。本来なら、俺のような痩せ浪人が直々に返答するなど恐れ多い。
 先ほどから源五郎が「じゃな」と口にするのは、これが旗本本来の喋り方である。決して老人じみた言い方ではない。もし部下の同心が、同じような口振りになったら、無礼を咎められるだろう。
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