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越後の隠居

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「但馬世之介様と言えば、あの但馬屋さんの……?」
 客室に落ち着くと、早速光右衛門は世之介に話し掛けてきた。客室は直径十尺ほどの球体で、三分の一程の部分が平たい床になっている。重力制御が効いているので普通に正座ができる。重力制御はあらゆるところに使われ、大きな窓は一種の重力薄膜スクリーンとなっていて、硝子などの物質では不可能なほど大きな窓が実現できている。
 老人の問い掛けに、世之介は頷いた。
「はい、わたくしは息子で御座います」
「ははあ! 幕府御用達の、但馬屋さんといえば、商人仲間には有名なお店で御座いますな。それでは、あなたは気楽な漫遊旅と相成りましたのですな。行き先はどちらで?」
「尼孫星で御座います」と世之介が答えると、助さん格さんという賽博格は顔を見合わせた。
 ふっと光右衛門は笑いを浮かべた。
「これは驚いた! あなたのような若い、それも水も滴る二枚目の若旦那が、ところもあろうに、尼孫星へ向かうとは!」
 老人の指摘に、世之介はもじもじと身動きをした。いかにも自分が、女に飢えているようで、決まりが悪い。
「はっはっはっはっ……」と、光右衛門は顔を仰向け、高笑いをした。
「まあ、宜しい、宜しい。お若いうちから何でも経験することで御座いますな。この爺いなど、やっとこの年で、諸国漫遊に出かけようかと思い立った次第で……」
 一瞬の緊張感が、光右衛門の高笑いでほぐれた。イッパチは身を乗り出し、口を開く。
「若旦那はこう見えて、ひどく晩生おくてなんでござんす。お父っつあんの大旦那様は、これではいけないと、女道修行の旅に送り出したって次第で」
 世之介の頬が熱くなる。
「おい、何てこと言うんだ。他人の前で」
 光右衛門は膝をパンパン叩いて笑った。
「宜しい、宜しい! 若いうちに何でも経験しておくことです! 女道修行、結構ではありませんか!」
 イッパチは益々調子に乗った。
「若旦那って、色男でげしょ? こりゃ、尼孫星に行ったら、もてて、もてて大変だあ! 一歩でも星に降り立ったら、あーら様子が良いわン……そこのお兄さん、ちょっと寄っていらっしゃいよ……なんて引く手あまたで、上がりこむってえと、何もないけど湯漬けでもどうぞ、なんてことになる。差し向かいに湯漬けを掻き込みますな。箸が茶碗に当たってチンチロリン! 湯漬けをザークザクと掻き込みますってえと、見詰め合う目と目! うふっ! チンチロリンのザークザク! 湯漬けの旨さに舌鼓がタットンと合いの手が入ります……」
 踊り出す。
 呆れて世之介は窓の外を見た。
 ふわっ、とした感触に立ち上がると、見る見る窓外に奇妙な霧のようなものが掛かっていく。
 驚いて光右衛門を見ると、頷く。
「超空間歪曲場でございますな。宇宙船が出発したのでしょう」
「これが……」
 世之介は、ぼうっと窓外を見詰めた。
 目をギュッと閉じたときに見える斑模様のような景色が一面に広がっている。見詰めていると、奇妙な感覚に捉えられる。斑模様の形が何か別のものに見えてくる。これが超空間で体験する未来予知なのだろうか?
 超空間歪曲場に入ると、人間は未来を覗き込むことがあるそうだ。
 女の子の顔が一瞬、見えた。髪の毛をポニー・テールにした、目つきの鋭い女の子の顔である。
 イッパチは調子に乗って、なおも踊り狂っている。
「チンチロリンのザークザク! ザークザクでタットン! あ、それそれ! 若旦那の女道修行ばんざーい!」
 飛び上がり、イッパチは客室の一方に倒れ掛かった。どたん、ばたんと大袈裟な音がして、イッパチは客室の操作卓に身体ごとぶつかっていく。
 がくん、と客室が揺れた。
 わっ、と世之介は床に腹這いになる。顔を上げて窓を見ると【滄海】の船体が急速に遠ざかっていくのが見えた。
「何があった! 助さん、格さん!」
 光右衛門が真顔になって叫んでいる。さっと二人の賽博格が立ち上がり、倒れこんだイッパチの側に近寄った。
 客室の操作卓に近寄り、表示を覗き込む。
 助三郎が顔を挙げ、叫んだ。
「ご隠居様! この杏萄絽偉童が、客室の非常脱出ボタンを押してしまったようです! 客室は超空間に漂流しております!」
「何ですってえ……」
 呆然と、光右衛門と世之介は呟き、顔を見合わせた。
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