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これから死ぬ女が、鮮やかな布団の上に横たわったまま、急に目を開けて、こんなことを言った。
「あなたの左目を下さい。代わりに、私の左目をあげますから」
これから死ぬ女の、透き通るような顔を見ながら、お前の目玉など要らないと言ってやりたかったが、自分はこの女に情があった。
自分は自分の左目を、女の、痩せて浮き出た鎖骨の上に置いた。女は、枯れた花のような手で、自分の左目が、確かに女の骨の上に置かれたことを確かめた。
「ありがとうございます」
女はそう言って、女自身の左目を自分にくれた。女の左目は見た目よりは冷たくなく、しっとりと濡れていた。
そうして、女は死んだ。
女の葬儀の日には風が強く吹いていた。女の棺に供えられた風車が、カタカタ回った。赤い羽のついた風車で、蛹から孵ったばかりの蝉のように透き通るリボンが巻かれていた。
自分は女が自分にくれた左目を、丸い金魚鉢の中に浸した。この金魚鉢の中で、金魚を飼っていたこともあったが、その金魚は既にいなかった。水を入れた金魚鉢の中に女の左目を落とすと、女の左目は、ツブツブとした泡を纏いながら、沈んだ。以前、金魚を泳がせていた金魚鉢の中に、目玉だけを入れているのも、何となく味気なかったので、綺麗な色のついた石や水草を入れてみると、なかなか、良かった。
あるとき、女の左目を金魚鉢から取り出して、綺麗な手巾で拭いてから、空になった自分の左の眼窩に入れてみた。コロンと入るかと思われたが、女の左目は思いがけず、自分の左の眼窩の中で強く張った。
すると、見えてきた。
濡れたように緑が鮮やかな森である。その中を、赤い、軽い生地の着物を着て歩いているらしい。その者は、死んだ女の左目を自分の空になった左の眼窩に入れた、自分である。死んだ女が、かつて見たらしい景色を、死んだ女の左目を通して、自分は見ているらしい。女の中に入って、見ているのではない。
右目で見る景色は現実に違いなかったが、死んだ女の左目で見る景色の方が、真実に近いように見えた。
女は、森の中を歩いている。裸足で歩いているらしかったが、その感触は分からなかった。草と、土の感触だろうと思われた。女は、落ちていた白い花を鼻先に持っていって、その香を嗅いだらしいが、女は、その花を、手の中で握り潰したらしかった。そうした女の思いも、その行動の意味も、その行動をとった理由も、自分には分からなかった。この女は残酷だ、という感想を抱いただけである。
木漏れ日の差す場所に、子どもが一人、しゃがんでいた。女は子どもの隣にしゃがんだらしかった。子どもは手を合わせて、目を閉じている。汚れた手だった。指先が土と草の汁に塗れて、血が滲んでいる。その指は、少しの震えも帯びていなかった。真っ黒な髪に光が当たって、キラキラしていた。長い睫毛も、光っていた。男の子か女の子かよく分からない子どもだったが、美しい子ども、ということを自分は思った。
子どもは、目を開けた。
右目には、光があった。
左目には、闇があった。
自分はそこで、女の左目を、自分の左の眼窩から取り出した。
潰した。
赤ん坊の頃に死んだ女の子どもには、左目がなかったと、女自身が語っていた。
「あなたの左目を下さい。代わりに、私の左目をあげますから」
これから死ぬ女の、透き通るような顔を見ながら、お前の目玉など要らないと言ってやりたかったが、自分はこの女に情があった。
自分は自分の左目を、女の、痩せて浮き出た鎖骨の上に置いた。女は、枯れた花のような手で、自分の左目が、確かに女の骨の上に置かれたことを確かめた。
「ありがとうございます」
女はそう言って、女自身の左目を自分にくれた。女の左目は見た目よりは冷たくなく、しっとりと濡れていた。
そうして、女は死んだ。
女の葬儀の日には風が強く吹いていた。女の棺に供えられた風車が、カタカタ回った。赤い羽のついた風車で、蛹から孵ったばかりの蝉のように透き通るリボンが巻かれていた。
自分は女が自分にくれた左目を、丸い金魚鉢の中に浸した。この金魚鉢の中で、金魚を飼っていたこともあったが、その金魚は既にいなかった。水を入れた金魚鉢の中に女の左目を落とすと、女の左目は、ツブツブとした泡を纏いながら、沈んだ。以前、金魚を泳がせていた金魚鉢の中に、目玉だけを入れているのも、何となく味気なかったので、綺麗な色のついた石や水草を入れてみると、なかなか、良かった。
あるとき、女の左目を金魚鉢から取り出して、綺麗な手巾で拭いてから、空になった自分の左の眼窩に入れてみた。コロンと入るかと思われたが、女の左目は思いがけず、自分の左の眼窩の中で強く張った。
すると、見えてきた。
濡れたように緑が鮮やかな森である。その中を、赤い、軽い生地の着物を着て歩いているらしい。その者は、死んだ女の左目を自分の空になった左の眼窩に入れた、自分である。死んだ女が、かつて見たらしい景色を、死んだ女の左目を通して、自分は見ているらしい。女の中に入って、見ているのではない。
右目で見る景色は現実に違いなかったが、死んだ女の左目で見る景色の方が、真実に近いように見えた。
女は、森の中を歩いている。裸足で歩いているらしかったが、その感触は分からなかった。草と、土の感触だろうと思われた。女は、落ちていた白い花を鼻先に持っていって、その香を嗅いだらしいが、女は、その花を、手の中で握り潰したらしかった。そうした女の思いも、その行動の意味も、その行動をとった理由も、自分には分からなかった。この女は残酷だ、という感想を抱いただけである。
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子どもは、目を開けた。
右目には、光があった。
左目には、闇があった。
自分はそこで、女の左目を、自分の左の眼窩から取り出した。
潰した。
赤ん坊の頃に死んだ女の子どもには、左目がなかったと、女自身が語っていた。
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