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春
一
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「あなた、ちょっと」
康介が帰ってきたときの、妻の言葉であった。動揺して、声が上擦っている。それでも、夫の手から鞄を受け取るのは、さすがに慣れた手つきであった。
「大変ですよ、あなた」
妻の声は、悲しげである。妻の額の色がいつもより青ざめているようなのを、康介は珍しいものをみる目つきで見た。
「先ほど、幸雄さんがお訪ねになって」
「うん」
「あの、灯子のことで」
「灯子か」
「はぁ……」
妻は康介から上着を受け取って、それにブラシをかけながら、なんとなく怒っているような、しかし、癇癪を起こすには足りないような、妙な返事をした。
「灯子のことなんですけれど」
「うん」
康介は襟飾を解く。
「婚約を取り下げたい、と」
康介の手から、紺の襟飾がダラリと垂れた。康介の目蓋が半ば伏せられて、暗く沈んだ目つきになる。
「どうして?」
「それが、私にもよく分からないんです」
妻の声には、段々怒りと悲しみの力が湧き上がってくるようだった。婚約を取り下げたい、と幸雄から申し込みがあったと口にしたことによって、その事実が妻の中で厚みを持ち、下唇を噛み切りたくなるほどの悔しさを実感させるようだった。少しでも突けば泣き伏すかもしれぬ。
「だって、いきなりじゃありませんか。この間も、灯子は幸雄さんの妹さんと一緒にお出かけしたり、お料理を作ったりして、仲良くしていると思って、安心していたのに」
「小さい頃から、知っている仲だからね」
妻は俯いて、肩を震わせた。康介は妻の肩に触れた。
「灯子は、今……?」
「まだ、幸雄さんのお宅に。でも、本人も納得のことだとおっしゃるんですよ」
康介は楽な浴衣に着替えて、腰紐を締めた。無意識のうちに、片手が頰に伸びる。皺が刻まれて、たるんで柔らかくなった頬が、掌に触れた。
「あんまりだわ」
妻は、鼻を啜ったようだ。
「幸雄くんは、何と?」
「お嬢さんが悪いわけではありません、それはどうか分かってください、と……」
妻は、低い声で付け足した。
「夢路のせいですわ」
康介は、帯の結び目を無意味にいじった。妻の声に明らかな嫌悪を感じた為でもあった。
「だって、おかしいわ。きっと、夢路が何かしたんですよ」
「…………」
「だから私は、最初から反対だったんですよ。若い男と女なんて、誤解されるに決まっているじゃないですか」
「夢路と灯子が、誤解されたと決まったわけじゃない」
康介は自分でも思いがけず、厳しい声で言った。
「きっと、そうなんですよ」
妻も夫に負けず、涙に潤んだ厳しい目つきで康介を睨んだ。
「使用人を連れて行くなら、お小夜でも良かったじゃないですか。いくら幼い頃から知っているからって、夢路なんて連れて行くからこんなことに……」
「夢路が悪いと決まったわけじゃない。灯子にも、何か至らぬところがあったかもしれない」
妻は、雨の雫を被った蜘蛛の糸のような涙を、ボロボロと流した。
「あんまりだわ」
妻は袖口で、顔を覆った。
康介が帰ってきたときの、妻の言葉であった。動揺して、声が上擦っている。それでも、夫の手から鞄を受け取るのは、さすがに慣れた手つきであった。
「大変ですよ、あなた」
妻の声は、悲しげである。妻の額の色がいつもより青ざめているようなのを、康介は珍しいものをみる目つきで見た。
「先ほど、幸雄さんがお訪ねになって」
「うん」
「あの、灯子のことで」
「灯子か」
「はぁ……」
妻は康介から上着を受け取って、それにブラシをかけながら、なんとなく怒っているような、しかし、癇癪を起こすには足りないような、妙な返事をした。
「灯子のことなんですけれど」
「うん」
康介は襟飾を解く。
「婚約を取り下げたい、と」
康介の手から、紺の襟飾がダラリと垂れた。康介の目蓋が半ば伏せられて、暗く沈んだ目つきになる。
「どうして?」
「それが、私にもよく分からないんです」
妻の声には、段々怒りと悲しみの力が湧き上がってくるようだった。婚約を取り下げたい、と幸雄から申し込みがあったと口にしたことによって、その事実が妻の中で厚みを持ち、下唇を噛み切りたくなるほどの悔しさを実感させるようだった。少しでも突けば泣き伏すかもしれぬ。
「だって、いきなりじゃありませんか。この間も、灯子は幸雄さんの妹さんと一緒にお出かけしたり、お料理を作ったりして、仲良くしていると思って、安心していたのに」
「小さい頃から、知っている仲だからね」
妻は俯いて、肩を震わせた。康介は妻の肩に触れた。
「灯子は、今……?」
「まだ、幸雄さんのお宅に。でも、本人も納得のことだとおっしゃるんですよ」
康介は楽な浴衣に着替えて、腰紐を締めた。無意識のうちに、片手が頰に伸びる。皺が刻まれて、たるんで柔らかくなった頬が、掌に触れた。
「あんまりだわ」
妻は、鼻を啜ったようだ。
「幸雄くんは、何と?」
「お嬢さんが悪いわけではありません、それはどうか分かってください、と……」
妻は、低い声で付け足した。
「夢路のせいですわ」
康介は、帯の結び目を無意味にいじった。妻の声に明らかな嫌悪を感じた為でもあった。
「だって、おかしいわ。きっと、夢路が何かしたんですよ」
「…………」
「だから私は、最初から反対だったんですよ。若い男と女なんて、誤解されるに決まっているじゃないですか」
「夢路と灯子が、誤解されたと決まったわけじゃない」
康介は自分でも思いがけず、厳しい声で言った。
「きっと、そうなんですよ」
妻も夫に負けず、涙に潤んだ厳しい目つきで康介を睨んだ。
「使用人を連れて行くなら、お小夜でも良かったじゃないですか。いくら幼い頃から知っているからって、夢路なんて連れて行くからこんなことに……」
「夢路が悪いと決まったわけじゃない。灯子にも、何か至らぬところがあったかもしれない」
妻は、雨の雫を被った蜘蛛の糸のような涙を、ボロボロと流した。
「あんまりだわ」
妻は袖口で、顔を覆った。
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